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誰がために腹は鳴る  作者: 亀吉
記憶も無い、金も無い。食欲は有る。
3/36

「はい、どうぞ」


 とん、と目の前に置かれた物を見て、チロはこれでもかと見開いた目を輝かせた。


「わぁ……っ!」


 とろりとした黄金色のスープ。

 顔を近付けなくとも漂ってくる匂いには玉ネギ特有の刺激はなく、野菜らしい甘さだけを含んでいる。

 オニオンスープが出来上がるのを待てず、先に食べていたパンを一旦置いたチロは、添えられていたスプーンを手に取った。


「あのっ、本当に食べても……!?」

「はい、どうぞ召し上がって下さい」


 念の為に最終確認を取ると、男はあっさりと了承した。

 それで完全に遠慮が無くなったチロは早速スプーンでその黄金色を掬うと、零さないように口へと運んだ。


「……っ、おいしーい!」


 ぎゅっと濃縮されていた玉ネギの旨みが舌の上で広がった。香ばしい匂いが鼻をゆっくりと抜け、心地良い温かさが胃に落ちていくのを感じる。

 一気に飲み干してしまいたいような、一口ずつ大事に味わいたいような、幸せなもどかしさに浸りながらもスプーンを動かす手は止まらない。

 そうして、気が付けばスープ皿は空になっていた。籠に盛られていたパンも見て分かる程に減っている。

 腹が満たされて余裕が出来たチロはそれに気付くと、緩んでいた表情を一変、今にも泣き崩れてしまいそうな顔をした。


「あ、ああ、私、食べ過ぎましたよね!? ごめんなさい! 美味しくてつい……!」

「大丈夫ですよ、見ていて気持ちの良い食べっぷりでした。あんなに美味しそうに食べて頂けたなら、料理人冥利に尽きます」

「うっ……」


 テーブルを挟んで向かい側に座る男は平然と言ったが、チロは自分が食べていた姿を見られていたことを知り、恥ずかしさから返事に詰まる。

 が、ふと気付いたように口を開いた。


「料理人、ですか?」

「はい、……すみません、自己紹介がまだでしたね」


 そう言うと男は座ったまま軽く会釈をした。紅茶色の束髪が緩やかに揺れる。


「私はこの料理店の主人をしている、ファズと申します」

「あ、私は……多分、チロです」

「……多分?」


 ファズは怪訝そうに眉間を寄せる。

 初めて表情らしい表情を見た、と思いながらチロは首元に掛かっている木のペンダントを摘み上げて見せた。


「実は私、記憶が無くて。このペンダントに『チロ』って焼印があったので、多分これが私の名前かなーって……」

「成る程……そうでしたか」


 頷いたファズの眉間から皺が消える。

 それを見たチロは少し迷いながらも言った。


「あの、信じてくれるんですか?」

「はい?」

「だって、もしかしたら私、記憶が無いって嘘ついてタダ飯を食べようとしているだけかもしれませんよ?」

 

 こんな事を言えば余計な警戒心を与えてしまうかもしれない。それでも、あまりにも簡単に納得されたので、問わずにはいられなかった。

 しかし、ファズは躊躇い無く首を振る。


「それは無いでしょう、貴女がそこまで図太い人だとは思えませんし。万が一そうだとしても、パンとスープくらいで見返りを求める気はありませんよ」

「ファズさん……有難うございます」


 自分自身ですら「自分」が分からない中、信用してもらえた事が嬉しくて思わず涙ぐむ。不安だった心が温まっていく。

 涙が目尻から零れる前に指で拭っていれば、その様子を見ていたファズが口を開いた。


「チロさん、貴女さえ良ければこの店で働きませんか?」

「ふえっ!?」


 唐突過ぎる提案に裏返った声が漏れる。

 目を丸くさせて驚きを顕にするチロに、ファズは視線を逸らす事無く言葉を続けた。


「この店、従業員が私だけなんです。日中はともかく、夜にはそこそこ客が入るので、ウェイトレスをしてくれると助かるんですが」

「で、でも……」


 記憶も金も無い自分なんかを雇うなんて、本当に良いのだろうか。というよりも此方が気後れしてしまう。

 有難すぎる申し出に素直に飛び付けずにいれば、ファズは後押しするかのように話を進めていく。


「二階に住み込みで構いませんし、お給料も大した額ではありませんが出します。記憶が戻るまでの仮住まいと仕事だと思って、如何ですか?」


 不安だった住処と金銭の心配を纏めて解決する提案を出されては、もう駄目だった。申し訳ないだとか言っていられない。

 チロは席を立つと、深々と頭を下げた。


「不束者ですが精一杯頑張ります!」

「此方こそ、宜しくお願いします」


 頭を上げれば、紅色の瞳と目が合う。

 余裕で百八十はある身長、鼻が通って整った顔立ちの分、その鋭い目元が無愛想と相まって、男性でも気弱な者なら一歩引いてしまうような迫力を醸し出している。

 しかし、チロはそう言った印象は受けても「怖い」とは思わなかったので──、


「はい、宜しくお願いします!」


 心からの感謝を抱いて、花の様な笑顔を浮かべたのだった。


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