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誰がために腹は鳴る  作者: 亀吉
記憶も無い、金も無い。食欲は有る。
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以前公開していた作品のリメイク版となります。宜しくお願い致します。

 青い空、緑の草原。

 仰向けで寝転がる一人の女性。


 黒い前髪が穏やかな風にふわふわと揺れる。

 寝起きのような表情をした女性は暫しぼんやりとしていたが、やがて徐々にその表情に力を取り戻し、エメラルド色の瞳を大きく見開いた。


「……え、えっ?」


 戸惑いの色を乗せた声が唇から零れる。

 立ち上がると軽く眩暈がしたが、今の彼女にはそれを気に留める余裕が無かった。

 動揺を顕わにしたまま頭を抱える。


「な、何、これ……」


 ──何も思い出せない。


 どんなに記憶を探っても、何一つとして引っ掛かるものが無かった。ここで何をしていたのか、自分が何者かすらも分からない。

 状況から推測しようにも、見通しの良い草原が広がるばかりで、変わったものは見当たらない。

 ひゅるり、草原を軽やかに通り抜けていく風が、緩いウェーブの掛かった長い黒髪と、白いワンピースの裾を撫でていく。

 呆然と立ち尽くしていた彼女だったが、ふと自分の首元に何かが触れた感触に気付いた。


「……これは」


 首から革紐が下がっている。先を辿れば、表面を滑らかに磨かれた木で出来た丸いトップが通されていた。

 それは、単純な作りの木のペンダント。

 手に取って近くで見てみれば、そのトップの隅には小さな焼印が押されていた。何が書かれているのかと更に凝視する。


「えーと、『チロ』……?」


 読み取れた文字を声に出しては首を傾げる。

 他に何か無いかと探してみたが、どうやら「チロ」という言葉以外に手がかりは無さそうだった。

 女性は溜息をついて肩を落とす。


(取り敢えず、この『チロ』は私の名前だと思って良さそうかな。それ以外に考え付く事も無いし……)


 そうして女性──チロは、どうにか「自分」の一部分を手に入れたと思うことで、少し落ち着きを取り戻すことが出来た。

 そよ風に靡く黒髪を耳に掛けると、先程辺りを見回した際に見つけた物の方を向く。


「……ここで立ってても仕方ないし、まずはあの街に行ってみよう」


 遠くの方に小さく見える街(が、この距離から見えるのなら実際は相当大きい街だろう)を眺めながら呟く。

 そして、緊張と不安に苛まれながらも、革で出来た編み上げサンダルを履いた足を前に踏み出した。


 ***


 太陽は息を潜め、月が夜空に浮かぶ。

 あちこちの店から漏れる笑い声を聞きながら、チロはふらふらと大通りを歩いていた


(つ、疲れた……)


 目的地は予想以上に遠く、着く頃には日も沈んでいた。

 しかも、街の入口には立派な門と門番が立っていて、入ろうとしたチロは一度追い返されてしまった。女一人というのと、それにしては軽装だったのが怪しかったらしい。

 それでも他に行く所も無いので、行き交う行商人の馬車に紛れて、どうにか街の中に入ることは出来たのだが──、


「うう、お腹空いたよー……」


 思わず弱音を吐いてしまう。

 草原の真ん中で目を覚ましてから何も口にせずに歩き続けてきたチロの体は、先程から何度もエネルギー切れを訴えていた。

 段々と鳴る間隔が短くなってきた腹を抱えながら、足を引き摺るようにして歩いていく。どんなに腹の虫が訴えて来ようとも、今のチロにはどうすることも出来なかった。


「あー……良い匂い……」


 肉と香辛料が混じった匂いが漂ってきて、チロは自然と鼻をひくつかせる。

 この街は広いだけあって店の数も多い。雑貨屋に服屋、薬屋に武器屋その他諸々──と、一般人も旅人も大喜びの豊富さである。

 そして、その中でも一際目を惹くのは、料理店の多さだった。

 食事がメインの店もあれば、酒を飲むのがメインのような店もある。しかし、どこも美味しそうな匂いを漂わせていた。

 これだけ大きな街だ。貿易が盛んで、他所から様々な食材が入ってくる為に「食」が豊かなのだろう──なんて事を今のチロに考える余裕は無い。


「せめてパン……いや、スープで良いから、お腹に入れたいよー……」


 そう呟く声は半泣きに近い。

 こうなったら噴水でも探して水分補給だけでも、と本気で考えかけた時、背後から突然肩を叩かれた。


「ひゃっ!?」


 完全に意識を空腹だけに向けていたチロは驚いて大声を上げる。

 跳ねる心臓を押さえて振り向けば、明らかにガラの悪い中年男性が煙草を銜えて、にやついた笑みを湛えながら立っていた。


(……あ、マズい気がする)


 チロの頭に危険信号が鳴り響く。

 男は煙草の臭い煙を吐きながら言う。


「おねえちゃん、こんな夜に一人で何してんの~? 寂しいならおじさんと飲もうよ~」

「い、いえいえ! 別に寂しくないので!」


 正直、酒でも良いから腹に入れたい気分ではあったが、ここでついて行けば大事な何かを失う気がする。

 間髪入れずに断ったチロだったが、人の迷惑も考えないで絡むような者がその程度で怯む筈も無い。


「いいじゃ~ん、おじさんの相手してよ~」

「きゃっ!?」


 片腕を掴まれて思わず悲鳴を零した。

 助けを呼ぼうにも周囲に人影は無い。振り払おうとするも、そこは無情にも男女の力差が邪魔をした。恐怖で体が震え始める。


(もうやだーっ!)


 潤んだ瞳から涙が零れそうになる。

 その時、強い力に横から肩を抱かれた。


「彼女は私が相手をしますので寂しくありません。さっさとお引き取り下さい」


 全てを跳ね除けるような低い声がした。

 何が起きたのかとチロが戸惑っていると、邪魔された男が不機嫌を顕わにする。

 

「おいおい、兄ちゃんよぉ! 横取りは良くねぇんじゃないか?」

「横取りも何も、彼女は貴方の所有物では無いでしょう?」

「それはほら! 今からじっくりねっとりとお付き合いをして……」

「……っ!」


 下卑た視線を向けられて悪寒が走る。

 危機感と嫌悪感に肩を竦ませた次の瞬間、男が銜えている煙草に変化が起きた。

 

「うわっちゃあぁっ!!」

「わっ!?」


 煙草の先で仄かに燃えていた火種が突然勢いを増して、まるで何かに操られているかのように男に襲い掛かった。

 驚いた男は前髪が焦げたのも気にする余裕も無く、すぐに煙草を放り捨てて逃げ出す。

 しかし、地面に転がった吸殻は何事も無かったかのように、また静かに火種をチリチリと燃やしていた。


「……大丈夫ですか?」

「え、あっ」


 幾分か柔らかさを持った、それでも低い声が、自分に掛けられているものだと気付いたチロは漸く我に返る。

 声がした方を見上げれば、誰かが此方を見下ろしていた。しかし、チロからは丁度影になっていて顔が良く見えない。


「こんな時間に女性が一人で出歩いていては、……」


 安堵からか意識が揺らぎ、声が不自然に途切れて聞こえる。

 ふと相手が息を飲む気配がしたが、それを気にするよりも先に、チロの心身は限界を迎えてしまった。


(あ……もう、だめ……)


 ふっと遠のく意識。抜けていく力。

 気を失う直前にチロが感じたのは、倒れ込む自分を支えてくれた温かさだった。



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