八話、ペドリンと下着
「な、ん、じゃ……こりゃ……」
喉から絞り出して声を出した。そうでもしなきゃ声が出せない位に、驚きと恐怖で喉頭が絞まっていた。
僕の視線はただ一点に注がれている。
見たくない。アレは現実ではない。でも見てしまう。変わらず存在するアレが現世に存在し物体であるから。
鼻腔を擽る女性向けの柔軟剤の香りが、何故か今日は腹立たしい。
震える指先で、アレに触れようとしたがギリギリで制止させた。
危ない。今のシーンを妹にでも見られた日には僕の信用がガタ落ちだ。
額を落ちる冷や汗を拭いながら小さく嘆息を洩らした。
「あん? 諒、何で私の下着見て突っ立ってんのよ」
「のわああああだだだだだだ!!!」
背後に鈴華さんが眉間にシワを寄せながら立っていた。
思わず振り返ると同時に奇声を上げて後ずさったのだが、僕の後ろには先程から見ていた物がある訳で足を取られ突っ込んだ。
ブチンブチン、と洗濯挟みの外れる音がいくつも頭上から聞こえて、しまいには僕の上に原因のアレが落ちてきた。
ーー鈴華さんの下着である。
「うっせ。つーか、驚きすぎ」
「鈴華さんが急に話し掛けるから悪いんだよ。あと、こんなパンツ穿くから」
「人の下着掴んでおいて、持ち主を悪者呼ばわりってどう言うことよ」
「そ、それは。多々訳がありまして」
ぶら下がる洗濯物の中に、サイズの小さい一際目立つ色の下着なんてあったら凛のかもしれないと思うのが普通だ。鈴華さんの性格からして穿かなさそうな色合いだったしさー。
なんて言えるか。
くそう。動揺して損したじゃないか。
「あんた、今心ん中で毒づいたろ?」
「超能力者ですか、貴女は」
「長年連れ添えば分かるよ。大体さ」
「夫婦みたいな言い方止めてよ。僕には凛がいるんだから、残念ながら期待には沿えないよ」
「ばーか。あんたら兄妹だろうが。夫婦なんかにゃなれねーよ」
鈴華さんはくつくつ笑う。
羨ましいな。僕は誰よりも長く凛と過ごしているのに(鈴華さんの言葉を借りれば、長く連れ添ってるのに)全然分からない。
現に鈴華さんの派手な下着を妹の物だと信じて動揺した位だ。
僕は妹の知らない事が、あまりにも多すぎる。
悲しい程に。
「ん? ちょっと待て。あんたの足元に落ちてるピンクの下着取ってくれない?」
鈴華さんが指差したのは僕が注目していた例の下着である。紛らわしいモノを選びやがって。
常に黒とか灰色とか、ダークな色合いのモノを選ぶクセして……と、悪態つきつつ自分が鈴華さんの趣向を熟知してる事に気付き悪寒が走った。
今更ながら、気持ち悪い。
「年頃の男の子にそんなフシダラなお願いしないで欲しいなあ」
「あんたは私のパンツなんかに欲情するような人間崩れの塵じゃないだろ?」
「流石鈴華さん。気持ち悪い位に分かってる」
「うっせ、さっさと取るんだよ」
はいはい、と軽く返事しながら取ってやれば、鈴華さんはガハハと笑って下着を振り回した。
おいおい、どんな状況だよ。甥の前で自身の下着を振り回して笑ってるってさ。意味分からないよ。
「これ、いつの間に買ったんだ? 私の下着じゃないよ。相当大人びているけど、凛のか?」
ちょいちょいちょい。鈴華さん、平然となんと大きな爆弾投下してるんだよ。
妹がこんなフリフリのパンツ穿く訳ないだろ? だってまだ小四だし。こないだ見た時は綿パン穿いてたし……小学入る前だけど。
だ、だから、こんな大人びたのを穿いてる訳ないんだよ!
「まっ、どうでも良いわ。取り合えず、あんたが落とした洗濯物ちゃんと拾ってもう一回洗濯かけとくんだよ?」
「あ、は、はい……」
心的影響でそれどころじゃないのだが、仕方がなく落とした洗濯物をキチンと洗濯機に戻した。
「ーーと、いう事があったんだよ」
「ペドリン、もしかしてお前妹と同じ洗濯機で下着も洗ってるのか? 干すところも同じ場所なのか?」
「そ、そうだけど?」
「クソ羨ましい。俺は臭いから嫌だと毛嫌いされて、俺だけ手洗いだ。干すのも下着を見られるのが嫌らしく、俺は自分の部屋で乾かしている」
「なんて可哀想な奴なんだ」
宇里漉は僕をおちょくる様な表情で、やれやれと首を振った。
「妹と同じ空間で過ごせているだけで俺は幸せだから、臭いと言われようと死ねと言われようと良い」
「なんて残念な奴なんだ」
まさか、友人が妹に死ねと言われているなんて……年に数回しか話せない自分の環境に嘆いていたが、まだマシなのか。
「本題に戻るけど、宇里漉は僕の妹が何故破廉恥な下着を穿いていると思うか?」
「ピンクにフリル……確かに破廉恥だが、理由なんてどうでも良いだろ」
「良くない」
妹の趣味趣向は誰よりも一番近く側で過ごしてきた、僕が分かっている筈なのに、僕が理解出来ないのだから良い訳ない。
大体、大人びた物は大人になってから穿くべきで今は必要ない。
なのに、何故? ……と考えていけば理由として不本意だが、甘い色恋が絡んで来そうな気がする。
好きな人の為に可愛い下着を穿く。よく聞く話だが、良い訳ない。
「ならさ、パイスキの妹がフリフリの下着を着けてたらどう思う?」
「下着には興味ねーからな。俺はおっぱい以外どうでも良い」
「お前に相談したのが間違いだったと思い始めたよ」
「そんなどうでも良い質問だと思わなかったからよ。深刻な顔で俺の妹の下着について聞いてきたから、拍子抜けしてんだ」
「どうでも良い、だと? 僕の妹の下着が変わったんだぞ。一大事じゃないか」
「それで俺がお前の妹の下着話に食い付いたら食い付いたで、ペドリンは何かイヤだろ?」
「まあ、確かに」
「だから言わねーんだよ」
思わずそうか、と返すがよくよく考えれば、後付け感のある言い訳だった。
そうこう話している内に、チャイムが昼休みの終わりを告げた。
騒がしい教室も、先生の襲来と共に静まりかえった。
が、僕の心は今だザワついていた。
何故妹はあんな下着を持っているのだろうか。
アレは買ったのか? 貰ったのか? 穿くのか? いつ使うのか? 観賞用か? 保存用か? 見せる用か?
残念ながらその問いには誰も答えてくれない。
いつもの様に窓の外のロリを見ながら妄想する至高の一時が、全く楽しめなかった。
「さて、一体全体どうすべきか」
今日、宇里漉から放課後に渡されたメッセージを思い出しながら、洗濯物の前に立った。
全て乾いている。それを下ろすのは、この家で一番身長の高い僕の仕事だ。
そこまで身長は高くなく、平均的な僕だが、父のいないお陰で身体面では僕が一番だ。
最近の妹は僕に下着を見られたくないのか、自分で干したり戻したりする。
妹が頑張って背伸びすればやっと届く所に設置されてある物干し棹のせいで、爪先立ちでプルプルしながら必死に干している姿を想像するだけでご飯三杯いける。
じゃなくて。
今日は妹は強制的に参加させられた部活があるので、帰りが遅い。つまり、洗濯物も片付けられていない筈だ。
確認しよう。突然妹が帰ってきたとしても、ただ自分の下着を下げようとしただけという弁解も出来るし安全だから、心配はない。
僕は宇里漉の二の舞にはならない。
イヤ、なりたくない。
昂る感情を抑え、自身の洗濯物に手をかけた。
同じ洗濯機で洗ってるから、妹の体液が僕の洗濯物に染み付いている気がする。染み付いてたらそれはそれで問題だが、妄想だけでお腹一杯になれる程良いネタだ。
それらを一旦地面に置いてゆっくり息を吐く。
突然帰宅した時の為の対策準備は完璧だ。いつでも逃げられる。よし、……やるぞ。
恐る恐る震える指先で、僕や鈴華さんの服の中に隠れて干されている筈の妹の下着を探す。鈴華さんが無駄に洗濯物を干してるせいで変に惑わされるじゃないか、コノウ。
「ない、だと?」
ない、以前見つけたピンクのビラビラの下着がない。
イヤイヤ、あんな奇抜なのを毎日着ける筈がないだろう。きっと、特別な日に着て出掛けるのだ。
特別な日ってなんだ。下着を気にする様な特別な事といえばアレしかないが想像したくないぞうああああああ。
「にぃに?」
あ。
この天女をも一蹴する程の美しい声は、間違いなく妹である。
見れない。妹の顔が見れない。まさか妹だって自身の兄がパンツ探してるだなんて思わず無垢に質問してくるから罪悪感で余計見れない。
そもそもバレない様に早めに行動した筈なのに、何故妹は既に帰ってきてるのだ。
「おとりこみ中?」
ある意味、取り込んでいます。
「ちょっとね、洗濯物を片そうと思ってさ」
「泣きながら?」
うおい。泣いてるのかよ。
確かに想像にショックしていたけども、と頬を拭えば袖が濡れた。
自分でも呆れる程、ボロボロ泣いてやがる。
「高校生になったら色々あるんだよ。きっと、その内分かるさ」
「ふーん。難しいねー」
妹はふっと微笑んで踵を返した。兄の涙について敢えて触れないという優しさだと、理解していながらも咄嗟に手が出た。
えっ、という妹の小さな感嘆の後に己が妹の肩を掴んでいる事を知る。
いやいや、まともに話せる状態じゃないのに。身体はどうしたんだ。
「にぃに、怖い顔してるよ。怒ってるの?」
「……怒ってなんか、ないよ。ただ聞きたい事があってさ」
「なあに?」
トットットトト。速まる心臓は止まる事を知らず、暴走する。
「あの、さ。凛って、好きな人とかいたり、する? あ、別に嫌だったら言わなくて良いんだけど。お兄ちゃんとして、気になって、だな」
「……好きな、人?」
妹は目を丸くして笑った。
「にぃにと鈴華さん!」
「そうじゃなくて、あの、まあ。何て言うんだ。俗に言うラブの方の好きな人でいないのか? クラスの男子でも良いから」
「ラブ? ……うーん、にぃにだなあ」
ウンウンと唸って、他にいないよなぁ、と妹は呟く。
例え僕の言葉を理解してない返答だとしても妹からの、好き発言に目が回りそうだ。
今なら死ねる。そして妹の守護霊になって永遠に守る。
じゃ、なくて。一番聞きたかったのはこれではない。あの下着を誰の為に買ったか、が問題なのだ。
……けれども、妹に正直に問うてみたらどうなるだろう。
にいにさいってー! 気持ち悪い! 近寄らないで! 変態! スケベ! えっち野郎!
はあはあペロペロご褒美ですなんて言える程、僕は強く出来ちゃいない。
「………………はあ」
「深いため息。幸せ逃げちゃうよ」
「逃げないよ。凛がいるだけで僕は幸せだから」
「私も幸せー。にぃにがいるし、平和だし、鈴華さんもいるしね。えへへー」
にこにこ柔らかい笑顔に、僕の中の何かが崩れた。
妹を脅かす全ての生物から守る、という固い意志か。それとも妹から香る男の存在か。
何でも良い。妹が、凛が幸せそうな顔で笑ってくれれば、穿いているパンツが奇抜でも、何でも良いんだ。
「そうだ、ね」
「ーーまあ、そんなこんなで解決したって事だけ宇里漉に伝えておく」
「だから言ったじゃねーか。妹が妹としてこの世に存在してくれるだけで幸せだから、パンツなんてどうでも良いってよ」
「宇里漉がそんな格好いい事を言った記憶はないな」
いつも通りの昼休み、宇里漉は僕の一連の一悶着を聞くと大きく笑った。
「俺が言ったって言ったら言ったんだよ」
「ややこしくてよく分からないけど、話して多少スッキリした。ありがとね」
「おうおう。気にすんな。俺とペドリンの仲だろうがよ」
「そうだね、僕らは永遠に妹に忠誠を捧げる仲間なんだから」
「いや、それじゃ格好悪ぃな。なんつーか、秘密を共有し片翼?」
「うっわ、厨二くさいんだけど」
がはは、くふふ。僕と宇里漉は正反対に見えて、やはり酷く似ている。
妹も大事だが、唯一の妹魂仲間なのだから、宇里漉も大事にしてやらないとな。
「ねえ、ちょっと。僕の事を忘れてませんか!!?? 僕も姉魂ですからね!?」
「なんか言ったか。外道が」
「酷い!!」
挿し絵は、赤唐辛子さまよりお借りいたしました。