夜釣りの二人
研究所から遠く離れた瀬戸内海に面した小さい漁港の防波堤の上では夜つりを楽しむ人が何人かいる。凪の夏の日の夜は蒸し暑いが海辺はかすかに涼しげな潮風が舞っているような気がする。太公望たちはたくさんの獲物が釣れますようにと願いつつ。夜の海を見つめていた。
その中に、いかにも釣り人とわかる衣装を着た太った50歳代の男と、デニムに黒いTシャツを着た三十前の若い女が一緒に釣竿を持って座っていた。親子のように見えるが恋人ではなさそうな二人だった。
「祐三さんて本当に釣りがお好きなんですね。ここにくるまで、あんなに生き生きしていましたね。でも今は魚でなくヒトデなんか釣るんですからおかしいかったね。それにしても、夜も凪というのはすこししんどいなあ」と女の方ははしゃいでいた。
「薫君がまえから夜釣りに連れてっていっていたじゃないの、これで約束が果たせてよかったよ。なんせ、君自身が被験者になってロボットの姿になっているから連れて来れなくってやきもきしたよ。どうだい、夜風に吹かれて釣りをするのも風流だろ。特に自分の素肌で感じる空気はいいでしょ。本当、君は素顔のほうがかわいいよ」と男も嬉しそうに語っていた。
二人は前田所長と薫だった。二人は研究所の中とは違い、友達以上恋人未満の関係のようだった。もっとも二人とも独身で本当は問題ないはずだが、立場上職場で付き合っているのがバレルと職務に支障が起きるので隠していた。
前田は職場では釣り好きの昼行灯として認識されていたが、実際にはかなりのやり手でありそこを薫がひかれていた。ただ仕事では上司に強くぶつかったり権力欲に乏しい事が災いして閑職どまりで、研究所に天下ってきたのだった。彼がそうなったのも二十年前にテロで妻子や家族を一度に失った事が原因だった。
薫に前田は釣りは前にもした事があるのですかと尋ねたら「釣りはねえ子供の時に休みの日になると時々、張おじいちゃんと一緒に池や川で釣っていたね。でも海で釣りをするのは初めて。もう二十年になるのね、おじいちゃん達みんな逝ってしまったのは」と、昔を思い出したかのような事を話しはじめようとしたが、続きをするのをためらったためか、その後は語らなかった。
いつしか二人は研究所の運営の話をしていた。研究所内では出来ない話しをしているようだった。実際誰もいない事を確認してから、岩だらけの海岸の岩の陰にいた。
薫は「次の見本市では、今年の製品のコンセプトが”女性らしい感性とフォルムを併せ持った強いマシン”なので、本社のほうも女性型機械の展示に力を入れるそうよ。それで私達の研究所もたくさん出展していいそうよ。それとライバル企業も私たちと同じように生身の女性がパイロットとして搭乗した機械を大きいものは建設型、小さいものは格闘技型まで出展するようよ。先日なんかドイツ・シャフトのローザ・ジンドルフ社長直々に、お前のところの機械娘とうちのドールと実証もかねた格闘戦をやらせろと”果たし状”が送られてきたのよ」と、ここまでは楽しい会話であったが、しかし次の話は相当深刻な事態のようだった。
「実は研究所の中にスパイがいたようなのよ。7月のはじめに突如失踪した大久保という娘よ。彼女は施設管理をしていたけど、彼女が担当した部署で巧妙に細工した盗聴器がいくつもあったそうよ。偶然発見した警備課によるとこれほど高度なものはなかなかないそうよ。今、他の施設も調査しているけど、迂闊だったわ。あれほど盗聴器が設置にされないようにしていたのに」といった。どうも薫は他にもスパイがいるのか、もしくは盗聴器が残っているのかが、心配なようであった。
前田は薫が責任を追及するのだろうかと考えていた。以前には堂々とライバル企業から「人材交流」を名目に、アメリカ人のキャサリン・ロードンがスパイとして研究所にやってきた時は、「鼻の下を伸ばした」という理由で薫に鉄拳制裁されたこともあった。そんな事になるのかと思い気を引き締めたが、責任問題にすることはなかった。
薫がいうには、今回研究所の職員や外部のアウトソーシングで”機械娘”にしなかったのはスパイが入り込む余地があり、学生なら短期間で募集すれば潜入される危険がないと思ったからだという。また今回の見本市は、どうしてもやらないといけないことがいくつもあるという。
「実は、今回の機械娘の件と私が来月の燕京で開催される見本市に出席することがもれたらしいよ。それとサプライズで予定している私の祖父の江藤英樹会長も来る事も。ここだけの話全ての役職からの引退を発表する予定だけど、これを知っているのはほんの一部だけよ。でも一番問題なのは祖父の命を狙っているダークブラック団のテロ計画があるというのよ。祖父は記者会見の場で彼らの正体を暴露しようとしていることも、ばれているようなの」
前田はダークブラック団とは二十年前に全世界で八億人の命を失う破目になった世界同時多発テロ戦争のトリガーを引いたテロ組織ではないかと思った。かれらは政治家や軍人、ネットを操り、ほぼ同時に地域紛争やテロを多発させ、反体制派などに核兵器などの大量破壊兵器を横流しして、世界の主要国家に大打撃を与えたとされている。ただ、戦争勃発から二十年経過しても彼らの正体ははっきりせず、今も機会さえあればテロを時折おこなっているとされている。そのため、彼らの正体を明かし国連刑事裁判所に突き出せば数百億円の報奨金が支払われると宣伝されている。
前田は「薫君、それじゃ君はテロの標的になる事を承知の上で見本市に行くわけなの。私は天涯孤独なので犠牲になっても構わないけど、ほかの研究員やバイトの命も危険に晒すことになるのじゃないの」と疑問をぶつけた。
すると「祐三さん危険なのは承知よ。どうも私は自分を模したガイノイドを出席させるとか、エリカのガイノイドスーツに隠れているとかという噂が裏ネットに流れているようなの。私も危険だけどエリカになるあの娘も危険に晒すことになるので心苦しいよ。できればやりたくはないよ。でもおじい様におびき出すことでお前の両親の仇を討てるかもしれないと」と、これから起こることに不安げな表情を見せた。研究所では決して見せないもので、前田の前では心を許しているようだ。
「今でも研究所にスパイはいると思うよ。ただ今はライバルメーカーのスパイなら許せるけど、もしテロ組織のスパイなら絶対に容赦しない」と何かを決意したようなことを言っていた。
必要な事を他にも打ち合わせした二人はまた元の防波堤の上に戻り釣りを再開した。薫は”ビキナーズ・ラック”なのか、そこそこ成果があったが、釣り糸の手繰り方がおかしく、前田に何度も手足を取りながら教えてもらっていた。
薫は「それにしても、距離感がよくわからないしつれないな」とぼやいていた。左目がひどくうずいて、眼帯をしていたためだ。「早く左目の修理をしてもらわないと困るわ。十ヶ月もろくなメンテナンスをしなかったのも悪いけど、よりによって人間体に戻った日に壊れなくてもいいんじゃないかと思うよ、本当。金曜日に来る達川部長に直してもらおう。そして今度は高性能の最新型にしてもらおう」と思っていた。またメンテナンスもついでにしてもらおうと考えていた。薫の左目は義眼で、頭部には補助電脳が埋め込まれた改造人間だった。




