美咲の秘密の過去
「誰、この若い男女、血まみれじゃないの」、津田美咲が最近よく見る夢の中の光景だ。しかも毎回覚えていないはずの幼い時の光景がよみがえったような感覚に襲われているのだ。二人は美咲が知らない異国の言葉をはなしていたため理解できなかったが、どうも夫婦で美咲の両親のようだった。周りでは複数の機関銃の轟音がし、猛烈な炎があがり至る所に死体が転がっていた、しかも大きな物理的なダメージを受け、ほぼ全ての死体が四肢が飛散し血の海の中に沈んでいた。
二人は小さな美咲を抱え、倉庫のようなところに来て彼女を籠の中に押し込んで食器棚の下に隠してしまった。その代わり女の方が子供を抱いているように見せかけるため、籠をバスタオルで包み抱きかかえた。その後、二人は美咲の体が外から見えないようにするためホワイトボードを食器棚の前に置いた。
ここで二人は美咲に何か言葉をかけたようだが理解できなかった。どうも別れの言葉のようだった。その後二人は外に行ったようであるが、その直後「いたぞ!一人も撃ちもらすな、殺せ!」という怒号と共に、機関銃の轟音がして二人の断末魔の叫びが聞こえてきた。「ママ、パパどうしたの。一人にして逝かないで!」と美咲は夢の中で叫んでいた。
美咲は今年二十歳になる大学二回生だ。成績は優秀で数多くのロボット工学に必要な資格も取得しており、研究者になるにしても技術者になるにしても将来が大きく期待されていた。しかし彼女には大きな秘密の過去があった。実は美咲は養子で、もとは孤児だった。生まれた場所はよくわからないが二歳ぐらいの時に両親が死亡したため児童保護施設を経て津田家の引き取られていた。
彼女が生まれたと思われる2024年は世界同時多発テロ戦争が勃発した年だった。テロリストや反政府組織、その他あらゆる非合法な組織が世界各地で蜂起し伝統的な世界秩序を破壊することを企てていた。そのため核兵器や化学兵器などが使われ世界中に難民が発生していた。その年以降、それまで伝統的に難民の受け入れをほとんどしていなかった日本にも多くの難民が押しかけてきた。日本国内も核攻撃されるなどの影響により、政治的にも経済的にもおかしくなっていたが、アジアの国の中では比較的秩序が保たれていたため大量の難民を受け入れざるを得なかった。
美咲も、その時日本に難民としてやってきた夫婦もしくはカップルから生まれたようだが、日本国外で出生したのか国内の難民キャンプで生まれたのかは今も判らない。現在の彼女の戸籍上では「2024年11月2日生まれ、出生地不詳」と記載されているが、本当にこの日が誕生日かということもわからない。
彼女の運命が大きく変わったのは、2027年12月に発生した「万騎が原難民キャンプの虐殺」であった。これは難民キャンプが重武装の極端な排他的民族差別主義者達による襲撃に合い、収容所スタッフと警備兵ともども約2万人が虐殺された。彼らは自衛隊機兵部隊の装備品であるパワードスーツ「二二式機動重装備強化服」50着と大量の弾薬を強奪した上で犯行に及んでおり、まずキャンプの通信回線と送電回路を遮断し、盆地の中にあるキャンプを包囲して逃げ道を遮断して、重火器でキャンプ内にいた人間を皆殺しにした。後にこの光景は襲撃を指示したとおもわれるグループが「輝かしい成果」などとして動画をネットに拡散させたため、彼らの凶悪性が世界中から非難された。
この事件では、襲撃した側は約200人いたと思われるが、駆けつけて来た警官隊と陸自機兵隊との交戦の末140人が殺害された。また生き残ったメンバーのうち拘束された30人は死刑もしくは絶対的終身刑が確定している。しかし、メンバーの中には身元が特定されず逃亡した者も少なからずいたようである。しかも皆殺しを指示したと思われる首謀者は現在も断定されていない。これは襲撃した者で拘束されたテロ実行犯もネットを介して指示されたため、直接会ったことがなかったためである。
そのとき美咲は、食堂の食器棚の下に押し込まれていたので助かったが、理由はわからないが収容者を特定する難民登録証になっている腕のタグが外され、「2024年11月2日生まれ」と誕生日だけが書かれた腕輪をしていた。とっさのことで間違えたのかもしれないが、係官はたぶん無事であっても身元が特定されなければ娘だけは難民扱いされず日本人として生きていけると思っての両親の行為と思ったという。
この襲撃事件で多くの成人が殺害され、子供も多く殺害された。生存者の多くは駆けつけた国連機構軍と自衛隊によって救出されたが、特に被害を受けた地区では、凄惨さを極めており、そのような地区で生存していた子供は美咲のように隠されていたり、死体の山の中で隠れていたりした子など、わずか8人だった。
一応役所は彼女が誰なのか調査したが、二歳ぐらいの女の子で2024年11月2日生まれの子は確認できなかった。しかも同世代の子供も数百人いたはずなので確認作業は難しかった。それにDNA鑑定をして判ったところで両親はいないのは確実だった。なぜならこのキャンプには二歳ぐらいで片親だけの娘が収容されていなかったからだ。しかも犠牲者が多く、そのほとんどの遺体が原型をとどめていなかったため、ほぼ全ての遺体が集団火葬のうえで埋葬されたから、犠牲者の特定すら難しかった。
その後、美咲は一般の児童保護施設に移されたが、本当の名前はわからないので日本人の「万騎美咲」という名前がつけられた。三歳の時、あまり裕福ではないが教育熱心な津田家の特別養子になった。この家では同じような境遇の元難民の子供と三人兄妹となった。
美咲は幼いときから両親と似ていなかったので自分は養子だと知っていたが、顔つきは周りの日本人とほとんど変わらなかったので、日本人の母親から生まれたものと思っていた。しかし最近になって、フリーライターを名乗る男から自分が「万騎が原難民キャンプの虐殺」の数少ない生存者であることを聞かされショックを受けた。彼のせいで私の本当の両親は日本人によって殺害されたのだということを知ってしまった。
しかし、美咲はだからといって日本人を恨む事はできない。なぜなら、もう身も心も日本人だからだ。しかも、本当の両親を殺害した排他的民族者別主義者は極一部であり、津田夫婦には本当によくしてもらっている。しかも津田夫婦の本当の一人息子は半島で日本人という理由で殺害されているにも関わらずにだ、私たちを育ててくれたのだから、感謝こそすれ憎めるはずはなかった。
だが、精神的に不安定になっているのは確かで、本来なら成績優秀者としてドイツへ研修旅行にいけるのを断って、なぜか研究所のバイトに応募したのは、そういった彼女の心の闇が関係しているのかもしれなかった。




