『竜の襲撃』
とある村で竜の襲撃が有った、そういう噂が立った。辺境の寒村だ、国の助けは無い。村は消えゆくだろう。それだけの話だった。
硬くひび割れた大地に砂塵が舞い続ける。低い岩山の間に吹き溜まった芥のように、その村はあった。
鍛え抜かれた巨躯を黒いマントに包んだ男――ガイルは、緩みの一切ない洗練された所作で馬から降りた。
幾多の荒々しい冒険を共にした並外れて強靱な愛馬とはいえ、旅装のガイルの重量から解放されると、ほっとしたように鼻を鳴らした。だが再び主人がその背を必要とするとき、愛馬は最上の喜びにふるえるのだ。
ガイルは馬具を少しゆるめてやって、周囲に気を配りながらながら歩きだした。
岩と土に少々の木材ででっち上げた住居が、侘しく点在している。その間を緩やかにうねる唯一の村道には木屑や布切れが散乱している。
しばらくゆくと少しばかりまともな建物があった。壁際には木箱の山や樽がぞんざいにまとめられ、ロープで固定されている。磨耗した看板を見なくてもわかる。酒場だ。
木箱の向こうで何かが動く気配があった。ガイルは愛馬をその場に残し歩を進めた。
土壁に得体の知れない肉片がこびり付いているのを、茶色い筋張った犬が熱心に嗅いでいる。一陣の風が、その痩せた腹に粗い砂を叩きつけた。犬は転がるように入り口へと走りこんで消えた。
外れかけたバタ戸を慎重に押し開くと、薄暗い床に落ちた光の亀裂が広がった。
滞留する埃の中には垢染みた丸テーブルと、それに伏せる人間。
ガイルは素早く室内を見回した。
(テーブルに一人、左の壁際に一人、右奥の床に一人、カウンターの裏にも一人、か)
民家よりは幾らか奥行きがあるが、天井は今にも落ちてきそうな程低い。
ガイルがフードを上げながら足を踏み出した、その時。
テーブルに伏した男のダラリと垂れた右手が動いた。酒瓶を握っている、と見る間に、だるそうに上体を起こし酒をあおった。
汚らしい白髪が額に垂れるのを払いもせずに、
「生きているさ、なんとかな」
そう言って、げっぷとも、ため息とも言えぬものを吐いた。
カウンターの裏で人影がむくりと起き上がった。
その頭の禿げ上がった小柄な男は、分厚い革の前掛けが腹の前で折れ曲がっているのを伸ばしながら、ガイルを見上げた。
「戦士か、でかいな。一歩遅かったが……。まぁ、座りな」
ガイルは勧められるままにカウンターに腰を下ろした。禿の男――おそらくマスター――は、何も言わぬガイルの前に地酒の瓶をドンと置いた。
音に気がついたのか、壁際にうずくまっていた男が、立ち上がり切らない姿勢のままヨロヨロと寄ってきた。
片足が無い。義足代わりのいい加減な棒切れが床をギシギシと傷めつける。カウンターまで辿り着けずに丸テーブルの椅子に滑り込んだ。
「俺らは、また、生き残った」
義足の男はそう言いながら手を伸ばした。白髪の男はサッと酒瓶を取り上げる。
強い風の音。入り口脇にもうけられた衝立の仕組みで風はまともに吹き込んでは来ないが、時折ゴミくずが転がり込んでくる。
ガイルは床に倒れている男を顎で示しながら言った。
「死んでいるのか?」
白髪が、肩をすくめる仕草で答えた。床には他にも瓶や食器が散乱している。
義足の男はしつこく手を伸ばして白髪の手から酒瓶を勝ち取った。
(何があった?)ガイルは口に出すのを中止して、目の前の地酒を呑んだ。暫く、めいめいが自分だけの景色を眺めていた。
やがて、白髪が口を開いた。
「若い連中はすぐにやられた……」
「逃げ出したんだ」
義足の男が口を挟んだ。酒瓶を逆さに持ち上げて、底にたまった雫を口の中に振り落とす。
白髪はゆっくりと頷いた。
「ああ、逃げ出した奴も多い。当然だな。あいつらにゃ荷が重過ぎた」
マスターが横でへへっと笑う。
白髪は続けた。
「俺達は……死んで本望だった。ドラゴンと戦って死ねるのなら。俺達初代の開拓民は、この地を探し当てた者でもある。つまり、かつての冒険者だ」
「その通り!」
マスターは肉切り包丁を持った手を振り上げた。ガイルは動じない。マスターの目に見えているのは、天に掲げるロングソードだろう。
義足の男があざけ笑ったが、その瞳はマスターと同じように潤んでいる。
老人達は、彼らの共有する小さな歴史に思いをはせているようだ。
「ドラゴンは、去ったのか?」
ガイルの野太い低音が、重力のように彼らを現実へと呼び戻した。
「倒したさ。来たのは一匹残らずな」
白髪の答える様子を、ガイルは注意深く見守っていた。
嘘をついている声ではない。彼らが元冒険者だという事も、ガイルは一目見てわかっていた。だが……。
ガイルは問う。「死骸はどこだ」
マスターが、つまみ皿を出しながら、こともなげに答える。
「ハウンドの奴が始末したようだ」
それを聞いてガイルは、片手に握っていた地酒の瓶を静かに置いた。
「……そうか。奴らは、冥界の扉を開いて、どこにでも現れるからな」
ヘルハウンドは、大量の血が流れる極限の戦場に現れる。ガイルは察した。この老人達が相当の修羅場を見たことを。
「では、他の村民達もヘルハウンドに……」
ガイルは床の男の遺体を経由して、テーブルに視線を移した。
白髪と義足の男は黙り込んでいる。ガイルは喋りすぎた事を後悔した。
「俺らは、また、生き残った」
今度は白髪の男がそう言った。
「無様な死に損ないだ!」
壁に酒瓶を投げつけようとして、義足の男はバランスを崩し椅子から転げた。酒瓶は狙いを外れて、割れずに床に転がった。
マスターが口を開いた。
「それに、あれは――」
「言うな」
白髪が止める。その顔は苦渋に歪んでいる。
「トカゲちゃんが一匹、トカゲちゃんが二匹~っと」
床に転がったまま、義足の男が調子外れに歌いだした。その顔は、笑っているようにも泣いているようにも見える。
ガイルも薄々感付いていた。
おそらく老人達が撃退したのは、ワームの一種。「俗称ドラゴンとも言う」程度のものだろう。これも恐ろしいモンスターではあるが。正真正銘のドラゴンなら、複数で村を襲ったりはしないだろう。生態的にも、この時期この地方に現れるとは思えない。また、元冒険者とはいえ老人たちにどうにかなる相手では――――いや。
彼らの名誉有る戦いに、曇りは無い。
この村は壊滅した。彼らの開拓史は水泡に帰したかもしれない。しかし……!
ガイルはおもむろに立ち上がった。黒いマントを跳ね上げる。顕わになった白銀の鎧に刻まれた意匠は、黄金のフランベルジュ。
目を見張る老人達。
ガイルはそれまでとは隔絶の朗朗たる響きで宣じた。
「ロアイン教国聖騎士卿にて『竜殺し』審査官、イルム・ガーランド・フィフスの名において、貴殿らの働きを認める。我が教国への忠勇、竜を屠りし力、見事なり」
老人達が驚きのあまり声も出せずにいる中、ガイルは目を瞑り、胸の紋章に手を当て聖句を呟いた。
鎧全体から青白い光が湧き上がり、紋章を伝って収束する。やがてガイルの左手は眩い光の玉と化した。
「あなた達を『竜殺し』に認定し、その愛武器にロアインの加護を付与します」
ガイルは三人を見回しながら丁寧な口調で言ったが、反応が無い。
笑いながら元の不遜な口調に戻る。
「ほらほら、どの武器を『ドラゴンスレイヤー』にしたいんだよ、こんなチャンスはめったにないぜ。剣でも槍でもなんでもいいんだ。奴等をぶっちめた得物ならな」
三人の老人は目を見合わせる。だんだんと、頬が緩んでゆく。
マスターが進み出て、前掛けに引っかけていた肉切り包丁を恭しく差し出した。
「ん…… え?」
今度はガイルが言葉を出せない。
白髪の男がクックと笑い出す。義足の男も、肩を震わせながら起き上がる。
若者の声がした。
「あんた、余計なことを……」
下だ。
死体と思われていた床の男が、裏返ってガイルを睨みつけている。苦しそうに腹を押さえながら喋りだした。
「もう沢山なんだ、こんなバカ騒ぎ。地酒と羽根トカゲを村人全員がぶっ倒れるまで食らい続けるなんて。ばからしいにも程がある!」
「何を言う息子よ。祭り有ってこそ、一人前の村だ。特にこのド田舎じゃ、噂になる程の祭りがなけりゃ人なんて流れて来ん!」
白髪は続ける。
「現にこうして、どえらい方が来てくれたじゃないか。『竜の襲撃』はこれからも毎年、いや毎月やるぞ!」
ガイルは呆然と立ちすくむ。左手の聖光が虚しく眩い。
「ささ、これが羽根トカゲを切り裂いた得物だ。早くそのドラゴンスレイヤーの加護とやらを与えておくれ。うーん、これは名物になるぞ」
マスターは目を輝かせてガイルにせまる。
「おっと、こっちにもよろしく頼むよ」
義足の男がナイフとフォークを両手に持ってニコニコしている。
と、店の奥から、茶色い犬が羽根トカゲを咥えて走り出ていった。
「あ、こら待てハウンド。それは後夜祭の分だ!」