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絶対音感

作者: 良多一文


 いつのことだか、音楽、特にクラシック音楽をこよなく愛してやまない少女がおりました。


 彼女はコンサートホールの裏で働いており、仕事が休みとあれば客席に移って音楽家たちの演奏に酔いしれたものです。


 どこの劇場に足を運んでも「ああ、あのクラシック狂い」といって、彼女に会ったことのない者がいないほどですから、彼女の傾倒っぷりと言ったら仕様がありません。


 彼女は音楽に関しての知識は誰にも負けないと絶対の自信を持っていましたし、今まで作曲された曲すべてを聴き尽くしたとも豪語しておりました。


 それでも彼女は満足しません。

 彼女は音楽のすべてを求めました。

 その飽くなき探求心が、彼女の耳に音を拾い集めさせます。


 しかし彼女は音楽愛好家であって音楽家ではありません。

 生まれながらの音のセンスも、才能も、音感もありません。


 彼女は嘆きました。これでは音楽を完全に究めたことにはならない、と。

 同時に生まれてはじめて神に祈りました。

「主よ、すべての調べ、演奏、音の一粒一粒を完全に聴き分ける、完璧な耳をください。それ以外に求めるものなど何がありましょうか」


 驚くことに、その祈りは神に届いたのです。

 神は仰いました。「君はその祈りで魂を輝かせるんだね? おめでとう、これで奇跡は達成された」と。

 彼女は歓喜し、さっそく最高のオーケストラの最高の席のチケットを握りしめ、駆け出しました。


 席につくと、洗練された楽団による奏では始まりました。

 彼女は劇場に満ち響く、溢れんばかりの優美なハーモニーにすっかり夢中で耳を傾けています。


 ゆったりと流れる、透き通るようでいて深みを持った甘い音階が、一粒余さず情報として彼女の耳を通過し、脳で完璧に、正確に処理されます。

 すっかり譜面を頭に叩き込んでいるものですから、彼女は音から得た情報とその譜面とを照らし合わせて、鳥肌を立ててしまいました。


 小鳥の囀り、生の歓びの体現である朝を思わせる調べ、人の手で紡がれたシンフォニア、指揮者の動きひとつで改変される曲調、それらすべて、ひとつだって聴き漏らすことはありません。

 勿論、彼女の全能の耳はテンポ、リズム、タイミングのすべてを完璧に、緻密に理解しています。

 彼女の目からは涙が溢れ、止まるところを知りませんでした。


 そしてフィナーレ。

 サスティーンからエンドへの厳かな終演が迎えられ、聴衆に残されたのは静かなる音圧からの解放だけでした。

 その後、まずはまばらな拍手から、そして最後には万雷の拍手が楽団に贈られるのですが、それも彼女の耳に交響しておりました。

 美しい演奏には美しい拍手が賜われ、よりいっそう美しいものへと完成される、そう、拍手もオーケストラの一部なのです。


 拍手が鳴り止むや否や、彼女はコンサートホールから耳を塞いで逃惑してゆきました。


 音楽の完全なる理解を求め、音楽のすべてを聴きとる耳を手に入れ、完璧に音楽を究めたはずの少女が耳を潰したのち、首を吊って自殺したのはその数日後のことです。


 遺書にはたったひとこと。

「こんなはずじゃなかった」


 人々は口々に「あの音狂いはとうとう本当にとち狂ったか」と噂しました。

 しかし、気付けば彼女のことは綺麗さっぱり忘れられていて、誰の記憶の片隅にも残ることはありませんでした。


 今日も今日とて、世界中の張りぼての中では、愚衆が不揃いな音塊の飽食に興じております。


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