おもちゃの本
孵化から十日目。
水槽に視線を落としたまま、指先で水流を確かめる。
ここで手を抜けば、落ちる。
稚魚たちは、まだ無垢に群れをなしていた。
電話が鳴った。
出ないという選択肢は、一瞬浮かんで消えた。
「はい」
水族館の職員だった。
声は丁寧だが、急いている。
「東町さんは、海外採集を何度も経験されているそうですね」
「ええ」
「フグを採集したいという教授がいらっしゃいまして。海外は初めてで……」
水面から視線が外れた。
波紋がゆっくり広がる。
「そう簡単ではありませんよ」
「だからこそ、あなたにレクチャーを」
この時期は、手を離せない。
それでも——
「……わかりました」
通話を切ったあと、水流がわずかに乱れていた。
稚魚たちは、気づかない。
この十日間で、最悪のタイミングだった。
数分後、教授からメールが届いた。
女性の名前だった。
——女性一人で、海外にフグを採りに行く?
想像は、すぐにやめた。
想像が外れたとき、判断を誤る。
※ ※ ※
採集指導は、日本の海で行うことになった。
親友を一人呼び、三人で会う。
それでも時間は足りない。
車は十分早く駅に着いた。
約束の時間を過ぎても、電話は繋がらない。
コールが鳴るばかりで、出ない。
もう一度かける。電源が落ちていた。
改札の外にいるはずだった。
——いない。
視線を上げる。
彼女はホームに立っていた。
バッグを胸に抱き、視線を泳がせ、場違いの靴を履いて。
「すみません、気づかなくて」
携帯は、バッグの奥深くに沈んでいた。
一瞬、言葉を選ぶ。
——海外でも、これをやるのか。
「次からは、連絡は取れるようにしてください」
それだけ言った。
※ ※ ※
南方の海は、驚くほど輝いていた。
波止場の下に目を凝らせば、鮮やかな色が混じる。
場所を読み、潮の流れを読み解けば、魚は迷わず姿を見せる。
水は、決して嘘をつかない。
その輝きの中で、ふと息を吸った瞬間だった。
「ボルネオ島に、Fluviatilis はいますよね?」
光が、すっと曇った。
最初の違和感は、そこから始まった。
「いませんよ。それはインドのフグです」
彼女は迷いなく言い返す。
「FishBaseにも載っています」
私は愛用の淡水フグのカタログを開いた。
「この本を見てください。Fluviatilis は、インド、スリランカ、バングラデシュです」
教授は一瞥して、口元だけで笑った。
「ああ、そういう“おもちゃ”の本もありますね」
胸の奥で冷たいものが広がった。
そんな状態で、海外へ——しかも“いない魚”を探しに行くつもりなのか。
友人を紹介した。
彼は弁護士だ。
しかし、肩書きが出た瞬間、空気が一変した。
網を持っていた手が止まり、名刺が飛び交う。
笑顔は増えた。
だが、網は投げ出され、容器は空のままだった。
私は言った。
水を見ろ。
流れを読め。
そこにいない理由を考えろ。
誰も聞いていない。
弁護士の友人が静かに口を開いた。
「その前提、証明できますか」
「Fluviatilis がボルネオに“いる”という前提です。存在しない可能性は、考えましたか?」
教授は鞄から古い論文のコピーを取り出し、こちらへ突きつけた。
「この論文には、ちゃんと“いる”と書かれています」
古い論文だった。
「古い論文にはシノニムが多い。書かれているのは、本当に Fluviatilis ですか」
教授の目は、私を素通りして弁護士へ戻った。
私の言葉は、水面に触れることなく消えた。
——一度の採集が終わり、日本に帰国したらしい。
坊主だったと聞いた。
——二度目の採集の前日、連絡が入った。
「古い論文は Biocellatus を Fluviatilis と呼んでいた。ボルネオにいるのはその Biocellatus だけだ」
説明すると、彼女はわずかに笑った。
「論文が読めない人」を見るような目で。
——三度、ボルネオに行ったらしい。
結果は同じだった。
泥と、似た別種のフグ。
帰国した教授は、短く言った。
「……いなかった」
私は何も言わず、水槽に餌を落とした。
稚魚たちが一斉に群がる。
命は、正確な一手でしか守れない。
背後の机の上には、かつて「おもちゃ」と呼ばれた本が、静かに開かれていた。




