第5話 呼ばれる名前
扉が、静かに開いた。
泣き声で滲んでいた視界の中に、二つの影が差し込む。
さっきの少女よりも大きく、落ち着いた気配。
部屋の空気が、はっきりと変わった。
不思議と、胸の奥が緩む。
理由はわからないが、「大丈夫だ」と体が理解している。
先に近づいてきたのは、柔らかな雰囲気をまとった大人だった。
ゆっくりとした動きで、こちらを覗き込む。
「……」
短く息を吸う気配。
それだけで、泣き声が少し弱まった。
次の瞬間、体が持ち上げられる。
――抱き上げられた。
一瞬、視界が揺れる。
だが、すぐに安定する。
腕の中は、温かく、しっかりしていた。
背中と頭を支える手つきに、迷いがない。
近くで、心臓の音が聞こえる。
一定のリズムで刻まれる音に、体が勝手に落ち着いていく。
(……知ってる、感じだ)
記憶ではなく、感覚として。
この温度は、安全だ。
*
「大丈夫よ、マルク」
その名前を聞いた瞬間、
胸の奥が、静かに震えた。
(……マルク)
それが、この体の名前。
前の人生とは、まったく違う響き。
それでも、不思議と違和感はなかった。
呼ばれることで、ここにいる理由が与えられた気がする。
体はまだ小さく、何もできない。
けれど、名前がある。
それだけで、少しだけ「存在」になれた気がした。
*
視界の端で、もう一人の大人が立っているのが見える。
距離を保ちつつ、こちらを見下ろしている。
表情は読み取れないが、視線は静かで、落ち着いていた。
何かを確認するように、短く頷く気配。
言葉は少ない。
けれど、そこにいるという事実だけで、場が整っている。
(……この人たちが、保護者なんだな)
そう理解するのに、時間はかからなかった。
*
抱き上げられたまま、体がゆっくりと揺れる。
一定のリズム。
意識が、自然と引き込まれていく。
まぶたが重くなり、視界が暗くなる。
泣き疲れたのもあるだろう。
けれど、それ以上に――
ここは、守られる場所だ。
そう体が理解してしまった。
最後に見えたのは、
二人の大人が、俺を挟むように立っている光景。
こうして俺は、
マルクとして、この家で生きていくことになった。




