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第2話 何もない場所で

 ――何も、なかった。


 音もない。

 光もない。

 上下も、前後も、時間の流れすら感じられない。


 自分が「在る」のかどうかさえ、曖昧だった。


 けれど、不思議と恐怖はなかった。

 痛みも、苦しさも、後悔すらない。


 ただ、静かだった。


 思考だけが、ゆっくりと浮かんでは沈んでいく。


(……俺、どうなったんだっけ)


 駅のホーム。

 近づく電車の光。

 背中に感じた衝撃。


 そこで記憶は、途切れている。


(死んだ、よな。多分)


 そう結論づけても、心は驚かなかった。

 ああ、やっぱりそうか――そんな納得に近い感覚。


 仕事はどうなっただろう。

 未完成の企画は。

 修正途中のバランス調整は。


 考えても、もうどうしようもない。

 それらはすべて、遠い場所の出来事のようだった。


 ここには、何もないのだから。



 どれくらいの時間が経ったのか、わからない。

 そもそも「時間」という概念が、ここに存在しているのかすら怪しい。


 そんな無の中で、ふと違和感が生まれた。


 ――温度。


 ほんのわずかだが、何かが触れている感覚。

 冷たくもなく、熱くもない、柔らかな感触。


 次に、音。


 遠くで、何かが鳴いている。

 風のような、布が擦れるような、微かな音。


(……感覚、戻ってきてないか?)


 意識が、ゆっくりと浮上していく。

 深い水の底から、水面へ近づくように。


 重い。


 体が、ひどく重かった。



 ――ぱちり。


 何かが、開いた。


 けれどそれが「目」だと理解するまで、少し時間がかかった。


 視界はぼんやりとしていて、輪郭が定まらない。

 光が、にじむように広がっている。


 頭が、うまく働かない。

 考えようとすると、思考が途中でほどけてしまう。


(……なんだ、これ)


 そう思った、はずだった。

 だが、その考えは言葉にならず、形になる前に霧散する。


 体が、重い。


 いや――小さい。


 思うように動かせない手。

 力の入らない指。

 視界の端で、かすかに揺れるそれが、自分のものだと理解するのに時間がかかった。


 声を出そうとして、喉が勝手に動いた。


「……あ……」


 漏れたのは、意味を持たない音だけ。


 その瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


(……声が、出ない)


 いや、正確には違う。

 言葉を作れない。


 思考はある。

 記憶も、確かに残っている。


 駅のホーム。

 電車の光。

 背中の衝撃。


 ――死んだ、という理解。


 それらは確かに頭の中にあるのに、それを外に出す術がない。


 ゆっくりと、理解が追いついてくる。


(……ああ)


(……そういう、ことか)


 視界の端に、見知らぬ天井。

 木の匂い。

 聞いたことのない鳥の声。


 ここは、元いた世界じゃない。


 そして――


 俺は、赤ん坊として、ここにいる。


 結論にたどり着いた瞬間、不思議と混乱はなかった。

 むしろ、妙な納得だけがあった。


 人生は、セーブもロードもできない。

 なら――最初からやり直すしかない。


 声にならない思考が、静かに沈んでいく。


 代わりに、体が勝手に息を吸い、吐き、

 小さな喉が、泣く準備を始めていた。


 こうして俺は、

 言葉を持たないまま、第二の人生を始めることになった。

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