第2話 何もない場所で
――何も、なかった。
音もない。
光もない。
上下も、前後も、時間の流れすら感じられない。
自分が「在る」のかどうかさえ、曖昧だった。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
痛みも、苦しさも、後悔すらない。
ただ、静かだった。
思考だけが、ゆっくりと浮かんでは沈んでいく。
(……俺、どうなったんだっけ)
駅のホーム。
近づく電車の光。
背中に感じた衝撃。
そこで記憶は、途切れている。
(死んだ、よな。多分)
そう結論づけても、心は驚かなかった。
ああ、やっぱりそうか――そんな納得に近い感覚。
仕事はどうなっただろう。
未完成の企画は。
修正途中のバランス調整は。
考えても、もうどうしようもない。
それらはすべて、遠い場所の出来事のようだった。
ここには、何もないのだから。
*
どれくらいの時間が経ったのか、わからない。
そもそも「時間」という概念が、ここに存在しているのかすら怪しい。
そんな無の中で、ふと違和感が生まれた。
――温度。
ほんのわずかだが、何かが触れている感覚。
冷たくもなく、熱くもない、柔らかな感触。
次に、音。
遠くで、何かが鳴いている。
風のような、布が擦れるような、微かな音。
(……感覚、戻ってきてないか?)
意識が、ゆっくりと浮上していく。
深い水の底から、水面へ近づくように。
重い。
体が、ひどく重かった。
*
――ぱちり。
何かが、開いた。
けれどそれが「目」だと理解するまで、少し時間がかかった。
視界はぼんやりとしていて、輪郭が定まらない。
光が、にじむように広がっている。
頭が、うまく働かない。
考えようとすると、思考が途中でほどけてしまう。
(……なんだ、これ)
そう思った、はずだった。
だが、その考えは言葉にならず、形になる前に霧散する。
体が、重い。
いや――小さい。
思うように動かせない手。
力の入らない指。
視界の端で、かすかに揺れるそれが、自分のものだと理解するのに時間がかかった。
声を出そうとして、喉が勝手に動いた。
「……あ……」
漏れたのは、意味を持たない音だけ。
その瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
(……声が、出ない)
いや、正確には違う。
言葉を作れない。
思考はある。
記憶も、確かに残っている。
駅のホーム。
電車の光。
背中の衝撃。
――死んだ、という理解。
それらは確かに頭の中にあるのに、それを外に出す術がない。
ゆっくりと、理解が追いついてくる。
(……ああ)
(……そういう、ことか)
視界の端に、見知らぬ天井。
木の匂い。
聞いたことのない鳥の声。
ここは、元いた世界じゃない。
そして――
俺は、赤ん坊として、ここにいる。
結論にたどり着いた瞬間、不思議と混乱はなかった。
むしろ、妙な納得だけがあった。
人生は、セーブもロードもできない。
なら――最初からやり直すしかない。
声にならない思考が、静かに沈んでいく。
代わりに、体が勝手に息を吸い、吐き、
小さな喉が、泣く準備を始めていた。
こうして俺は、
言葉を持たないまま、第二の人生を始めることになった。




