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ボタンの掛け違い(第一部)

作者: Mulberry Field
掲載日:2025/12/10

〜プロローグ:It’s Only Love〜


1971年春、僕は一年遅れて日本の小学六年に編入された。

木造校舎独特の香りが漂う教室に足を踏み入れると、窓際の隅っこに璃子りこはいた。

海外の大人びた少女と比べ、璃子はまるで摘みたての果実のように幼く、無垢な光を放っている。

真っ赤なランドセルを背負ったミニスカートの後ろ姿は、どことなくワカメちゃんを思わせた。

だが、その愛らしい滑稽さの奥に、どこか目を離せない透明感を宿している。

その小さな背中を見つめ、僕は少しだけ安心したのを覚えている。


かたや姉は、未だにフラワー・ムーブメントの残り香をまとっていた。

Janis Joplinを真似たスエードのフリンジが揺れるたび、ランドセル姿の璃子が一層愛しく思える。


璃子は、僕と同じ郊外の住宅街に住む二人姉妹の妹だった。

透きとおるような白い肌と、整った顔立ちに長い髪が印象的で、誰よりも特別に映る女の子だ。

また璃子は、エレクトーンに夢中で音楽的な素養も豊かだった。

放課後、彼女の家の前を通ると、窓からこぼれる旋律が風に乗って聞こえてくる。

未熟ながらも瑞々しい旋律が、僕にとっては毎日の合図のようで、どこか安らぐ音だった。


   ♫Why am I so shy when I'm beside you?

その問いかけは、Johnの歌声と共鳴するように、僕自身の心の奥で鳴り響いている。

言葉にならない気持ちを抱きしめたまま、僕はただ、璃子の笑顔だけを見つめていた。

それは拙く、あまりに幼い想いだったが、僕にとっては紛れもない「初恋」だった。

璃子の微笑みと、Johnの澄んだ歌声が重なった、あの静かな瞬間。

それこそが、二人の物語の遠い始まりだった。



〜第1章:The End〜


Jim Morrisonの歌声は、いつも僕の胸をざらつかせる。

   ♫Father, yes I want to kill you. Mother, I want to …

愛と憎しみを同時に吐き出すようなあのフレーズは、我が家の空気そのものだった。


幼い頃、僕は少し変わった子供だった。

海外出張の多かった父は、たまに現れては象牙の置物や変な味のお菓子を置いていく人だった。

だから、年子の姉と僕の面倒を見てくれたのは、主に母方の叔父叔母たちだった。

母の実家を訪ねる度に、買ってもらえるブリキのおもちゃが僕の楽しみだった。

僕は、ひとしきり遊んだ後、完全に分解してしまうのが常だった。

僕は、おもちゃの中身と仕組みに異常な関心を持っている。


父は、僕にとっていつも理解不能な存在だった。

父の前に立つと、呼吸さえもどこか奪われる気がする。

父の目の奥には、常に燃えさしのような苛立ちが潜んでいた。

そして、投げつけられる言葉は、子供にはあまりに唐突で冷い。


小学一年生の夏休み、虫取りに行って来ると言った僕に、

父は「お前に捕まる虫なんざ死に掛けに決まっとる」と嘲笑した。

父が何故それを言ったのか、僕には分からない。

3月末生まれの僕は、学年の中でも最年少だから、言葉の理解力が不十分だった。

その意味を問い返す勇気も、理解する術もなく、僕はただ黙ってやりすごすしかなかった。


小学三年生になって、母から「外国に住むのよ」と告げられる。

父の海外赴任に伴い、中央アメリカの政情が不安定な国へ行くことになった。

そこは当時、米ソの思惑が交差する、張り詰めた緊張を強いられる地域だ。

現地の子ども達は、日本の無邪気な小学生とは対照的に、生きるための過酷な現実を背負っている。


空港から見送られる親戚の顔が遠ざかると、頭の隅に不安がよぎる。

見慣れた街も友達も、一気に手の届かない彼方へ押しやられるようだった。



〜第2章:Bridge over Troubled Water〜


夏休みに引っ越しを済ませると、姉と僕は現地のアメリカン・スクールに通い始める。

しかし、当時の日本は依然として敗戦国扱いで、日本人は格好のイジメの標的だった。

ある日、僕はタチの悪い上級生に馬乗りになって殴り掛かった。

その上級生は、仕返しに校長室の窓ガラスを割り、僕の仕業だと濡れ衣を着せた。

弁解するだけの英語力のない僕には、なす術がない。


翌日、校長に呼ばれた父は、淡々と「明日から登校しなくて良いそうだ」と告げた。

家族の安全に無関心な父は、大使館関係や日本人社会での接待、ゴルフや麻雀に夢中で、僕たちを顧みる余裕なんてない。

僕たちの命を守ってくれるはずの父が、一層遠くに感じられる。


巻き添えを食らった姉も退学になり、僕たちは家主の紹介でそれぞれのミッション・スクールに通うことになる。

家主は、この国の一二を争う言わば財閥一族だった。


僕たちが暮らすエリアは、ビバリーヒルズのような高級住宅街で、各国の大使館も点在している。

近くの高級ホテルでは、いかつい白人男性がRay-Banを掛け、昼間からプールサイドで屯している。

コンシェルジュによると、観光客を装ったCIAが、夜になると左翼の抹殺に暗躍しているようだ。


借家は驚くほど大きく、日本の3LDK並のリビングとダイニングに主寝室を四部屋も備えている。

裏庭は、父がゴルフのアプローチを練習できるほどの広さだ。

米車三台は余裕で入る車庫の上がテラスになっていて、僕はローラースケートを楽しんだ。

大使館が近いので、お隣にはドイツの政府高官が住んでいた。


四人兄弟の長男と同学年の僕は、毎日の厳重な送迎など、家主夫妻から実子のように保護された。

決して僕を褒めない父と違い、PaPaは「ここでは言葉のハンディがあるけど、日本に帰ったらきっと良い成績が取れるよ」といつも励ましてくれる。

その言葉は、異国で初めて手にした温もりのように胸に染みた。


ある夕食時、兄弟たちが食卓につき食べ始めても、僕の分はなかなか出てこない。

不思議に思いながら黙っていると、MaMaはにっこり笑って言った。

「あなたは聞かれた時、何も言わなかったでしょ。欲しい時はちゃんと言うのよ。

今夜は、お家で食べておいで。」


その瞬間、日本では美徳とされる「遠慮」や「慎ましさ」が、ここでは全く通じないと僕は知る。

言葉も、態度も、自分の意思をはっきりと示さなければならない。

日本なら、遠慮しても食べ物は出てくるし、よその母親が他人の子に厳しくすることはなかった。

けれどMaMaは、僕を我が子と同じように接してくれた。

その厳しさは突き放すものではなく、むしろ「家族の一員」として迎え入れる証のように感じる。

異国の食卓で学んだその教えは、後々まで僕の心に残る大きな財産となっている。


我々の帰国から八年後、父の後任だった現地法人社長が誘拐され殺される痛ましい事件が発生した。

もし家主一家が居なかったら、僕も同じ運命をたどっていたかもしれない。

そのリスクを一番熟知していたのは、父ではなく他ならぬ家主夫妻だった。

僕にとって彼らは、両親以上に寄り添ってくれる存在だった。

   ♫I'm on your side, when times get rough…

その無償の温もりは、まさに「明日にかける橋」そのものだ。



〜第3章:Dear Prudence〜


1968年の雨季も終わり、そんな我が家に仔犬がやってきた。

姉の友人宅で生まれたペキニーズとチワワの雑種犬らしく、弟DohnpyにちなんでJohnpyと名付けた。

チワワの血を引く割には垂れ耳で、毛色はクリームだった。

胸元は白いエプロンを掛けたようで、前足首もブーツを履いたように白かった。

タイル張りの石床は滑りやすく、急に止まれずドアにぶつかっては、家族を笑わせる。

そんな彼女は、我が家の空気を和ませる存在だった。


ある日、Johnpyがトイレに失敗する。

それを聞きつけた父は、「躾」だと称して小さな頭に拳を何度も振り下ろした。

泣き叫ぶ姉を横目に、父は止めようとしない。

僕は、こんな小さな命を傷つける父が許せず、初めて声を荒げて反抗した。


その年のクリスマス、僕にはサンタが来なかった。

姉には、真っ白なジャケットの二枚組レコードが届いた。

包装紙の切れ端が床に散らばる音が、やけに大きく響く。

僕の枕元には何もなく、その沈黙の重さを、誰も話題にしなかった。


あるのどかな昼下がり、僕は珍しく裏庭で無邪気に遊ぶJohnpyを見かける。

その時は気にも留めなかったが、しばらくして父がいつものように練習を始めていた。

その瞬間、父の打ったゴルフボールが壁に跳ね返り彼女を直撃した。

ギャンという大きな悲鳴とともに、姉が庭へ飛び出し彼女の元へ駆け寄る。

幸い大事には至らなかったが、姉の父に対する見下した視線が尋常ではなかった。


姉は、"Ob-La-Di, Ob-La-Da"を楽しげに口ずさんだ。

でも僕には、ブリキのオモチャのカタカタ音にしか聞こえない。

そのアルバムでは"Dear Prudence"が、子どもだった僕の世界に鋭い亀裂を入れた。

   ♫Dear Prudence, won’t you come out to play?

その優しい呼びかけは、どこかJohnpyの愛らしい仕草と重なっていた。

どんなに叱られても、僕の部屋の前にチョコンと座り、「遊ぼうよ」と目で合図したあの仕草と。


Paulの曲は、どれも整然とした模範解答のように思える。

けれどJohnの歌には、夜の暗がりをそのまま抱きしめる勇気があった。

それが、幼い僕の心に深く刺さった。


初めてのBeatles、そしてJohn Lennonとの出会いだった。



〜第4章:Sympathy for the Devil〜


僕の父は、スーツを着た悪魔だ。

♫Please allow me to introduce myself, I'm a man of wealth and taste.

外では立派な社長を演じながら、家庭では容赦なく冷酷だった。


お隣のアメリカではアポロ11号の月面着陸に浮かれる頃、祖父の訃報が届く。

母は泣き叫び、せめて初七日だけでも帰国を懇願したが、

父は「そんな費用は誰が払うんだ」と一蹴した。

可愛がってくれた祖父の面影を思い出し、僕が心の底から父を軽蔑し見限った瞬間だった。

今思えば、一親等の葬儀に伴う帰国費用ぐらい会社から支給されたはずだから、おそらく父が着服したのだろう。


翌年、故郷の大阪では万国博覧会が盛況を極めていた。

「人類の進歩と調和」を掲げる祭典の熱気は、地球の反対側にいる僕にも届いている。

帰国が迫ったある日、僕はひき逃げ事故に遭い三日間意識不明になった。

道端で倒れている僕をMaMaが見つけてくれたらしい。

医師である彼女の父上が、僕を国立の小児病院へ運び込んでくれる。

輸血後肝炎が懸念されるので、彼女と母がO型の血液を分けてくれた。

しかし父は「俺はアイツに事故に遭ってくれと頼んだ覚えはない」と吐き捨て、社内のゴルフコンペに出掛けたそうだ。


やがて帰国の日、骨折した足にギプスをはめ、不自由そうに歩く僕に、

父は「お前なんか足手まといだ」と罵った。

その言葉は、痛みよりも冷たく僕の心を突き刺した。

親が子に向かって言うには、あまりにも残酷な言葉だった。


羽田に降り立ったその日、到着ロビーのブラウン管には三島由紀夫の自決が速報で流れていた。

軍服姿で信念を貫いた彼の最期は、弱い者いじめしかできない悪魔のような元軍人の父と、あまりに鮮烈な対比を成している。

その光景は小学生だった僕の脳裏に焼きつき、後に「豊饒の海」四部作を愛読書とする原点となる。


帰国後、既に小学五年を修了していた僕は、本来なら小学六年の残り三学期を済ませ、翌年春には中学へ進学できるはずだった。

しかし、父曰く3月末生まれで頭の悪い僕は、一年遅らせて翌年春の小学六年から編入させられた。

ここから、僕の「ボタンの掛け違い」が始まる。。



〜第5章:Sentimental Lady〜


小学校を卒業した僕と璃子は、中学、高校と同じ学舎に通った。

けれど、再び同じクラスになることはなかった。

廊下ですれ違うたび、僕は無意識に璃子の横顔を探している。

ただ、彼女には他校に通うかつての同級生と付き合っている噂があった。

だから僕にとって、いつだって璃子は高嶺の花だった。


中学一年の秋、運動会に備えて学年競技のフォーク・ダンスを練習する機会が訪れる。

ワックスの匂いがこもる体育館に、ぎこちないステップの音と、あちこちから漏れる笑い声が響く。

男女が一列に並び、順番に相手を変えていく中で、璃子が僕の目の前に現れた。

 ♫You are here and warm, but I could look away and you’d be gone.


初めて握る璃子の手は、驚くほど温かく柔らかい。

学年競技という偶然がなかったら、決して触れることのできない幸運だった。

か細い指先がほんの少し動くだけで、僕の心臓は大きく跳ね上がる。

璃子は恥ずかしそうに目を伏せ、やがて少し照れたように微笑む。

僕は緊張のあまり掌に汗を握り、何も言葉を交わすことができない。


音楽に合わせてくるくると回るたび、璃子の髪が揺れ、笑顔がきらめく。

その姿は、まるで"Sentimental Lady"のように少し切なく、そして優しい。

ほんの刹那、僕が手の内に握ったその温もりが、永遠の記憶になるとは、知る由もなかった。


中学二年の夏休み、僕は映画に行くと言って母から二千円をせしめ、隣町の商店街にやって来た。

レコード屋の前を通りかかると、黒をバックにプリズムが描かれた斬新なジャケットが目に留る。

僕は、レコード・スプレーの匂いが立ち込める店に入ると、そのまま衝動買いしてしまった。

映画も観たかったが、僕が自分で買った初めてのLPレコードだった。


我が家のステレオは、リビングに一台だけだった。

僕が、買ってきた「狂気」を聴いていると、運悪く父が帰ってきて「レコードなんか女、子供の聴くもんだ」と怒鳴りつけた。

後日、この話を祖母にしたところ、祖母は父が嫌いだったので、「高校に入ったらステレオをプレゼントしてあげる」と約束してくれた。

瓢箪から駒で、父の暴言もたまには役に立つと思った。


中学三年になると、高校受験も現実味を帯びてくる。

受験といっても、極端に成績が悪くなければ、エスカレーター式に指定校区の県立高校へ進学できるシステムだ。

我々の指定校区だと、家から歩いてわずか五分の県立高校へ進学できた。

予鈴が鳴ってもダッシュすれば間に合う学校へ行けるのに、高望みをする気はさらさらなかった。


教師の間では、僕は予習もしなければ全くノートを取らないことで有名らしい。

そんな僕に痺れを切らした担任の英語教師は、授業中にもかかわらず僕を名指しした。


「おいっ、お前、自分のIQ知っとるか?」

「知りませんけど」

「麻雀の筋だ!お袋さんに聞いてみろ!」


家に帰って麻雀仲間の母に尋ねると、驚くでも褒めるでもなく、たった一言「147でしょ」だった。

僕を一年遅らせた張本人の父に至っては、「そんなもの何の役に立つんだ?」という愚問を投げ掛けたに過ぎない。

だから僕は、今まで通り楽をしてやり過ごすことだけを考えていた。



〜第6章:哀しみの恋人達〜


合格発表日の朝、相変わらず不機嫌な父は、「高校に落ちたら働きに行け」と嫌味を言っていた。

僕は逃げるように下駄を履き、Johnpyを連れて結果を見に行くしかなかった。


校庭の桜が咲き始め、掲示板の前には人だかりができている。

番号を探すざわめきと歓声、そしてため息が入り混じる。


通りかかった僕の視線の先に、制服姿の璃子が立っている。

「おめでとう、高校も一緒だね。」

少し怯えながらも、Johnpyに向かって小さく笑ったその仕草が、妙に可愛らしい。


ほんの一瞬の出来事だったのに、帰り道の足取りは異様に軽かった。

帰宅した僕は、祖母に買ってもらったターンテーブルSL-1200にJeff Beckの新譜を載せる。

そしてB面に針を落とすと、言葉を持たないギターが、彼女の笑顔を追いかけるように泣いていた。

   "Cause We’ve Ended as Lovers"

別れの予感が潜んでいる旋律の意味を知るのは、ずっと先のことだった。


高校二年の一学期が始まり、GWを過ぎた初夏、教育実習の女子大生がやって来る。

彼女は、姉も通う兵庫の有名私学の文学部から派遣されていた。

年上に対する憧れもあって、僕は彼女に夢中になった。


友達のZeppelinバンドが野外ライブをするというので、彼女を誘って観に行った。

ステージも佳境を迎え、"Whole Lotta Love"の弓弾きが始まると、夏の夜の空気がピンと張り詰める。

湿った草の匂いと汗の塩気が混ざり合い、ギターの奇妙なうねりが星空を震わせる。

彼女の横顔が暗闇の中で一瞬、光を帯びたように見え、僕は思わず息を呑んだ。


あの夜の轟音と熱狂は、僕と彼女を繋ぐ秘密の扉を開いた。

彼女は、放課後ギター部の練習を覗きに来てくれ、下校後には街角で偶然を装って待ち合わせた。


夏休みのある日、彼女は我が家にやって来た。

Genesisの「月影の騎士」が、とてもロマンティックな二人きりの空間を演出する。

   ♫ Can you tell me where my country lies?

英文学科の彼女は、Peter Gabrielの英国的ユーモアや社会風刺をたいそう気に入った様子で、「彼は本当に言葉を遊ぶ天才ね」と呟いた。

年上の女性だけが持つ、大人びた気まぐれな優しさと、実習生という立場が生む束の間の緊張感に、僕は酔いしれた。

けれどもそれは、夏の蜃気楼のように、やがて消えてはなくなる冒険に過ぎなかった。


そして璃子はいつも、僕から少しだけ遠いところにいた。

手を伸ばせば届くようで、けれど決して触れられない場所に。

その距離は、まるでJeffのギターが奏でる切なくも美しい旋律のように、僕の心に焼き付いた。



〜第7章:The Real Me〜


父との確執は、絶えず僕の人生に降りかかり、大学受験も例外ではない。

受験料も学費も出し渋り、私立大学は受験させてもらえず、国立一本を強いられた。


春とは言え、まだまだ寒さが残る受験当日の朝、僕は同じ大学を受験する友人と最寄り駅で待ち合わせていた。

そして大学にたどり着き、同じ試験会場で璃子を見かけた瞬間、僕は目を疑った。

視線が交わり、ほんの一瞬だけ時が止まった気がした。


また璃子と同じ学校に通えるかもしれない、そんな淡い期待が頭に浮かぶ。

しかし僕は、父の思惑通りになるぐらいなら、将来を棒に振っても構わないと思っていた。

その代償に、淡い期待を裏切ると分かっていながら、僕は無記名の解答用紙を提出した。


結局、璃子は京都の有名私学文学部へ進むようだ。

璃子が選んだ学校は、かの教育実習生が通っていた兵庫の有名私学のライバル校だ。

だから、璃子は相当の頑張り屋さんだった。

またしても璃子は、僕の手の届かない場所へ行ってしまった。


僕はと言えば、予備校には行かなかった。

無記名の解答用紙に対する負い目もあったが、どこにも属さない開放感が何より心地良い。

朝起きるとJohnpyの散歩を済ませ、受験勉強らしいことは、三教科の通信添削ぐらいだ。

疲れたら好きなレコードに耳を傾け、苦手な国語を克服するため三島由紀夫を読み漁る。

現役時の学力と比べ、僅かに進歩したとすれば、山川出版社の「日本史」を微に入り細を穿ち丸暗記した程度だ。

そして翌年は、あの「ボタンの掛け違い」がなければ、受験する筈もない共通一次試験を控える。


年が明けて、僕は横浜の国立大学工学部に合格した。

しかし父は「関東の大学なんかに合格しやがって」と吐き捨てた。

母はこっそり入学金を納めてくれていたが、僕は辞退し京都の私立大学法学部へ進むことにする。


心の奥に溜め込んだ叫びは、行き場を失い、爆音のように胸を叩き続ける。

   ♫Can you see the real me, Father?

父は、いつも自分の思惑ばかりで、「本当の僕」が見えていない。

あの日の無記名の解答用紙こそが、僕の"The Real Me"だった。



〜第8章:She's a Rainbow〜


入学式を終え、最初の学期が始まる朝。

履修届を提出するためキャンパスへ向かうと、運命の瞬間が訪れる。


春のキャンパスは、まだ柔らかい新緑の匂いに包まれていた。

石畳を渡る風が、桜の花びらを舞い上げ、昼休みのざわめきと混じり合っている。

その瞬間、すべての音が遠のいていくように感じた。

   ♫She comes in colors everywhere…

まるでレコードから流れ出すように、その旋律は僕の頭の中に響く。


歩いてきたのは、見違えるほど綺麗になった璃子だった。

白いブラウスに淡い春色のスカート、光を反射する髪が風に揺れるたび、周りの景色までも色づく。

まるで虹がそこに差し込んだみたいに。


傍らの九州から来た学友が「おい、どげんした?」と笑いかけても、僕は返す言葉がなかった。

胸の奥で何年も封じていた記憶が、一気に解き放たれていたからだ。

ワカメちゃんみたいなミニスカートに真っ赤なランドセルを背負っていた少女が、誰もが振り返るほどの、大人びた美しさをまとった女性に変貌している。

あの日、運動会で握った手の温もり、合格発表の日の笑顔、それらが春の光と溶け合い、目の前の彼女の姿に重なっていた。


璃子を最後に見かけたのは、昨年の受験会場だった。

それ以降、お互いの進路は知る術もなかったので、この再会はまさに運命的だった。

あの時、高嶺の花だと諦めていた璃子が目の前にいる、それだけで十分だった。

そして、中学高校を通してほとんど会話のなかった二人が、自然と会話を弾ませる。


開口一番、璃子は笑いながら尋ねた。

「成人式に来なかったね。誕生日が過ぎたからもう二十歳になったでしょ?」

誕生日を覚えていてくれた璃子の言葉に、僕は舞い上がった。

「なんで知ってるの?」と、僕は返す。

「だって、私より一学年お兄ちゃんでしょ」と、璃子は応えた。

そして僕は、璃子の振り袖姿を見逃したことを心から悔やんだ。


しばらくして、辞退したはずの国立大学から履修届を提出するよう催促が届く。

僕は戸惑いながら璃子に打ち明ける。

「もうここで良いじゃない」と、璃子は迷わず京都に残るよう勧めてくれた。

その瞬間、璃子が僕の人生に深く関わろうとしてくれていると悟った。

それは、何よりも嬉しい出来事だった。


春の日差しの下、ふと現れた璃子の姿は、虹のように僕の心を照らし出した。

交わした何気ない会話が、未来への扉をそっと開いてくれたように思えた。



〜第9章:Birthday〜


5月25日は璃子の誕生日だった。

再会して間もなく、璃子は「来月二十歳の誕生日に、何かプレゼントをもらえれば嬉しいな」と、さりげなく呟いた。

中学高校と一緒に歩んできたのに、彼女の誕生日を気に留めなかった自分が、情けなく腹立たしい。

そこで僕は、璃子のために選んだ銀色のネックレスを、誕生日の早朝、そっと自宅のドアノブに掛けてから登校した。


   ♫They say it's your birthday. We're gonna have a good time.

その日の璃子は、珍しくデニムを穿いたカジュアルな装いだった。

その打ち解けた姿は、僕の好意を受け入れてくれた暗黙のサインのように思える。

そして、キャンパスの石のベンチで待つ僕の前に璃子がやって来ると、彼女の胸元には僕が贈ったネックレスが勝ち誇るように輝いている。

燃えるような新緑の隙間から差し込む初夏の日差しが、まるで彼女を照らすスポットライトのようだった。


「ありがとう」と、少し恥ずかしそうに微笑んだ璃子が、今でも鮮明によみがえる。

「こちらこそ、気に入ってもらえて、嬉しいな」と、僕は素直に応じた。

「私、依存心が強くて、わがままって言われるから、本当にもらえると思ってなかったの。」

その言葉は謙遜ではなく、僕の気持ちを確かめるような、璃子の根深い不安を吐露しているように聞こえた。


学生生活も順調に滑り出し、僕は高校時代の悪友たちと再びバンドを結成した。

ニュー・ウェイブ The Jam のコピーバンドで、僕はベースを弾いた。

この日も、いつもの連中とレンタル・スタジオで待ち合わせ、彼らの新譜から"Thick as Thieves"(引き裂かれぬ仲)を練習した。

周辺大学での学園祭に出演も決まり、璃子にも来てほしいと誘うと、彼女の目が一瞬曇り、「ねえ、あの人と今でも会ってるの?」と問い返してきた。


それは、二人が高校二年生の時、教育実習に来ていた女子大生のことだった。

璃子は、僕が年上への憧れを抱いていたことを、当時から知っていたのだろうか?

歳の離れた女性に惹かれる僕を見て、自分はまだ子供だと感じ、必死に背伸びしようとしていたのだろうか?


あの日の轟音の向こう、群衆のざわめきの中に、ひっそりと璃子も立っていたのだろう。

僕が投げかけたライブへの誘いによって、彼女の中でくすぶっていた過去の記憶が再燃したようだ。

彼女の心の奥底では、僕を試すような「嫉妬」という名の小さな棘が育ち始めていたのかも知れない。


結局、僕が高校時代に彼女の存在を顧みなかったことへの仕返しに、璃子は僕たちのライブに来ることはなかった。

それでも僕にとっては、あのネックレスを掛けた璃子の笑顔こそが真実だった。



〜第10章:Is This Love〜


二人の間には、「これが愛だろうか」と考えさせられるもどかしい距離感がある。


璃子の誕生日からほどなく、通学のため最寄り駅へ向かうと、彼女も電車を待っていた。

璃子は、「今から〇〇君と会うの」とかねてから噂のあった同級生の名前を打ち明けた。

その様子は、僕の反応を試しているようにも、また知られても平気かのように見える。

まるで僕の嫉妬を誘うように、「私にだって、気にかけてくれる人もいるのよ」とでも言いたげな表情だった。

恐らく彼と誕生日を祝うのだろうが、あの教育実習生に拘った璃子とは違い、僕は二人の間柄を尋ねる勇気を持てなかった。


璃子の自宅へ遊びに行ったある日、僕は再び彼女との特別なつながりを感じることになる。

「スピーカーの調子が悪いから見て欲しいの。」

僕は買い替えを勧めたが、「実費は負担するから自作して欲しいな」と、璃子は可愛らしくねだった。


璃子は、僕が中学の授業で作ったスピーカーを覚えていたのだろうか?

あの頃、僕は父との確執から自分自身を卑下し、しょせん璃子は高嶺の花だと感じていた。

だから、彼女が僕の昔の小さな成果を記憶しているという事実は、僕にとって重すぎる希望だった。


それは夏休み中の暑い盛りだった。

僕はホームセンターへ行き、自作スピーカーに必要な材料を調達する。

家に帰り、木材を裁断するノコギリを引くたびに、全身に汗が滴ったのを覚えている。

やっぱり夏といえばレゲエだった。

僕はBob Marleyを聴きながら、作業を進める。

璃子の部屋に調和するよう、外観は木材そのままではなく、真っ白なシートを貼って仕上げた。


完成したスピーカーを届けると、璃子は「可愛い」と声を弾ませて喜んでくれた。

僕は、本体のユニット代として一万円だけを受け取った。

材料費も、僕が費やした労力も、璃子に請求するつもりはなかった。

それは、僕が璃子に捧げた、見返りを求めない時間だからだ。


   ♫I wanna love you and treat you right.

このスピーカーから流れるBob の歌声が、やがて璃子の部屋を満たすことを想像した。

その献身的な行為こそが本心だと信じて、僕は報われたような気がした。



〜第11章:Ain’t That So〜


僕の本心は、璃子を軽薄な大学生活のお飾りや欲望の捌け口にだけは絶対にしたくなかった。

しかも近所同士であり、二人の関係を大切に育みたいという気持ちの方が強かった。

また僕自身、紆余曲折を経て選んだこの学校が、本当に相応しかったのか悩んでいた。


その一方で、璃子の不可解な態度は僕を戸惑わせる。

璃子は時折つれない素振りを見せたかと思うと、唐突に「私って面食いなの」と言った。

僕は、父から受けた嘲笑の記憶から、自分の容姿にも存在にも自信が持てなかった。

父から受けた「お前なんか」という言葉の暴力が、璃子との関係にまで影を落としている。


僕は、璃子から拒否されるような未来を恐れ、逃げるように璃子に言った。

「妹みたいに大事に思ってるから、あまりつれなくしないでね。」

その言葉は、璃子が背伸びしてまで求めた、僕との対等な関係を否定するものだった。

「高嶺の花」という遠い場所から、必死に僕のいる場所まで降りてきてくれた璃子の健気な努力を、僕は自らの臆病さで踏みにじった。


璃子は、たった一言「ただの友だちだと思ってる」とだけ呟いた。

その日を境に、璃子の態度はよそよそしくなった。


璃子との関係修復に悩む頃、僕は街で璃子と噂のあった同級生と偶然出会した。

「璃子をヨロシク」

その時、僕には、この言葉の真意が捉えられなかった。

それが、璃子を失ったことを伝える彼のメッセージだと気づいた時には、後の祭りだった。


あの日、ほんの一言で崩れ去った絆は、二度と元には戻らなかった。

胸の奥にぽっかりと穴が開いたようで、声にならない叫びが渦巻いた。

本当に望んでいたのは、こんな結末じゃなかった。


   ♫Ain’t that so?

「本当は璃子を妹みたいになんて思っちゃいない」と、僕は心の中で叫んだ。



〜第12章:異邦人〜


季節は容赦なく流れ、街にはエキゾチックなCMソング「異邦人」が流れている。

どことなく璃子に似た久保田早紀の歌声が、僕の心を深く抉った。

   ♫あなたにこの指が届くと信じていた。

その一節を耳にするたび、胸の奥底に痛みが走る。

まるで璃子が、僕のために置き去りにした言葉を、歌に託して返しているようだった。


彼女はきっと、僕の手がその指に触れると信じていたのだろう。

けれど僕は、その手を握り返す勇気を持てなかった。

伸ばされていたはずの指先は、すれ違いの闇に消え、二人の物語は静かに終焉へと傾いて行く。


駅やキャンパスで目が合っても、璃子はまるで僕など存在しないかのように冷やかに振る舞った。

その態度に耐えかねた僕は、取り返しのつかない言葉を吐く。

「そんな態度なら、僕が君に渡したものを全て処分してくれ。」


璃子は一度、泣きながら振り返り、かすれた声で言った。

「女の子の気持ちを全然分かってない。」

それが、僕が聞いた璃子の最後の言葉だった。

もう二度と、彼女と顔を合わせることはなかった。


そして追い打ちをかけるように、同じ年の暮れ、あのJohn Lennonが凶弾に倒れる。

それは僕がいつもの連中と、空港近くのパン工場でアルバイトに明け暮れていた時だった。

日本時間の12月9日、遅めの昼食を済ませ仕事に戻る頃、彼の訃報が飛び込んできた。

Xmasケーキという幸せの象徴を届けるはずの時間が、一瞬にして絶望の淵へと変わり果てた。


 ♫I was dreaming of the past, and my heart was beating fast...

ラジオから流れる"Jealous Guy"を聴きながら、僕は呆然とした。

嫉妬に駆られ、疑心暗鬼に溺れ、そしてプライドに縛られて彼女を傷つけた。

それはまさしく僕自身の姿だった。


そして、異邦人のように遠ざかっていった璃子を思った。

璃子を失った悲しみと、Johnを失った寂しさは、僕の心を打ち砕いた。



〜第13章:君は天然色〜


僕は悪友たちに誘われるまま、神戸で開催される博覧会のアルバイトをすることになった。

本当なら京都でも仕事は探せたが、あの街は璃子との思い出が色濃すぎた。

神戸なら、心の痛みを和らげてくれる気がした。


隣接する遊園地に立ち、開園から閉園まで働けば日当は一万円を超える。

僕は、稼いだお金で、かつて璃子が「素敵ね」と微笑んだ117クーペを手に入れた。


夏の神戸は眩しかった。

松田聖子の「夏の扉」が爆音で流れるなか、会場は開放感に満ちあふれている。

だが街では、Roxy MusicがカバーするJohnの追悼シングル"Jealous Guy"が空前のヒットとなり、耳にするたび璃子との悲しい記憶を蘇らせる。

 ♫ I was feeling insecure. You might not love me anymore...


夜の遊園地では、僕たちは少し羽目を外した。

女子大生のグループを見つけると、僕は手招きして観覧車やジェット・コースターに呼び入れた。

そして、終了間際に連絡先を聞き出し、悪友たちとコンパに励むのが日常となっていた。


あるコンパで、僕は気になる女の子がいたのでデートに誘ってみた。

彼女は愛媛から来阪し、神戸の女子大に進学している。

僕は117クーペを走らせ、彼女の住む大学女子寮へ迎えに行った。


神戸から明石方面へと続く海沿いの国道をドライブし、途中の小粋なカフェで食事をとる。

やがて夕日が西の水平線に沈む頃、神戸の路に喧騒が返ってきた。

彼女の住む女子寮には門限があるので、僕は早々に神戸方面へと急ぐ。


車内では、大瀧詠一の"A Long Vacation"が流れている。

話の流れで彼女がふと口にした「私、面食いなんです」に、僕は一瞬耳を疑った。

思わず「それって、僕のこと?」と問い返すと、彼女はゆっくりうなずいた。


その仕草に、なぜか唇をツンと尖らせた璃子の表情が重なる。

まるで彼女の口を借りて、璃子が本心を打ち明けているようだった。


僕は、ただ途方に暮れるしかなかった。


彼女とはこの日限りだった。

彼女が悪いのではなかった。

ただ、吹っ切れない僕がそこにいただけだった。


色褪せない残像が、僕の胸の奥で鮮やかに息を吹き返している。



〜第14章:You Make Loving Fun〜


日本に連れて来てから十二年、Johnpyが虹の橋を渡って旅立った。

亡くなる直前、衰弱していたにもかかわらず、残業で遅くなった姉の帰宅を待って息を引き取った。

この仔のおかげで、父からの心理的虐待を受けながらも、僕は非行にも走らずに済んだと思う。


Johnpyは妹であり、彼女であり、母であり、祖母のようでもあった。

♫You make me happy with the things you do.

そして最後に、Johnpyは「愛する楽しさ」を僕に残して旅立った。


しかし、人生は立ち止まらせてはくれず、就職活動の時期がやってくる。

僕は、父の背中を追う気などさらさらなかった。

幼い頃に異国で学んだ「自分の意思をはっきり示す」生き方は、日本流の曖昧さや遠慮とは相入れない。

だから僕の視線は、自ずと海外へ向かう。

帰国子女という経歴も手伝い、いくつかの総合商社から声がかかった。

車好きの僕は、大手自動車会社の傘下にある専門商社から、最終的に内定を得た。


だが、夏の終わりに祖母が亡くなり、また一つの大きな支えを失う。

それでも、あの悪魔のような父は、告別式にも現れなかった。

祖母の葬儀も終わり、内定先の専門商社から一本の電話がある。


「失礼ですが、二浪されましたか?」

「いいえ、帰国時に一年遅らせられたんです。」

「規定では19xx年4月2日以降出生の方に限るんです。」

「でも、海外経験を生かせる人材が欲しいと仰っていましたよね?」

「申し訳ありませんが、内定はなかったことに…。」


またしても、「ボタンの掛け違い」による弊害が起きる。

僕の意思とは無関係の、生まれ月と帰国の経緯という不可抗力が、人生の大きな局面で再び立ちはだかる。

けれど、不思議と取り乱すことはなかった。

璃子を失った悲しみに比べれば、これしきのことはかすり傷に過ぎない。


10月初日、リクルート・スーツの大学生が、内定式会場へと急いでいた。

しかし僕は、就職先が決まらないまま大阪は道修町を歩いている。

ふと目に留まった某薬品企業の看板に誘われて、思い切って飛び込んだ。

「採用はもう終わっていますが、お話だけでも」と、人事担当者は言ってくれた。

僕は内定取り消しの経緯、帰国子女であること、法学部だが元々は理系で数学・物理、特に化学に強かったと伝える。

担当者は少し考えた後、「弊社ではなくとも、提携先の外資系企業ならまだ募集があります」と紹介してくれた。


僕は、その日のうちに面接を受け、即日内定を得た。

予想もしなかった扉が、目の前に開いた瞬間だった。


僕は、真っ先に伝えたくて、無性に璃子が愛おしく感じられた。

彼女もまた、「愛する楽しさ」を教えてくれた存在だった。



〜エピローグ:Avalon〜


卒業を二ヶ月後に控えた2月初日、僕は青春を共に歩んだRoxy Musicの日本公演に、一人足を運んでいる。


   ♫Now the party's over, I'm so tired...

何かを悟ったようなBryan Ferryの歌声に、僕は学生生活の終焉を重ね、気がつけば涙が頬を伝っていた。


あれから四十年余り、男として、父として、社会人として、僕なりの人生を歩んできたはずだった。

けれど、あの日、一年遅れて小学校に編入された瞬間から始まった二人の物語は、未だに僕の心のしこりとして残っている。


もしあの時、璃子の心をほんの少しでも理解できていたなら。

もしあの時、璃子の健気な態度に気づき、優しく手を差し伸べていたなら。

あの小さな「ボタンの掛け違い」さえ無ければ、二人は出会うこともなく、璃子も傷つけることがなかったと思うと涙が溢れて止まらない。


サザンの「いとしのエリー」が好きと璃子は微笑んだ。

僕はそんな璃子から笑顔を奪い去った。

鬼か悪魔と罵られても仕方がない。

僕は、あの時の無神経な自分を、どうしようもなく憎んだ。

愚かで、傲慢で、人の心を見ることができなかったから、天罰が下ったのだと、そう思った。


今では、璃子が素晴らしい人生を歩んでくれていることを祈っている。

そして、いつかこの言葉が璃子に届くことを願っている。


  君を傷つけるつもりじゃなかったんだ

  君を泣かせてしまってごめんね

  君を傷つけたくもなかったんだ

  僕はただ嫉妬深かっただけなんだよ

  John Lennon/Jealous Guy(筆者訳)




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