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「5分大祭」にお誘いいただき、書いたものです。
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治は身動きもせず、彼女だけを見つめていた。こうして、ただ彼女を見つめていられる時間は、1日の中では少ない。だから、この時間はとても貴重なのだ。
ここ最近、治の休み時間はほとんど彼女を見つめることで終わっている。彼の友達も最初こそ、休み時間になると、彼の熱の入れようをからかおうと寄ってきたが、
「お前の脳内嫁さん、元気か」
「今日も明子ちゃん、キレイだねぇ。食べたくなっちゃうねぇ」
といった、いささか侮蔑を含んだ口調にも、気の抜けた声で「うん」としか答えない治には、からかい甲斐がないと知り、今となっては完全に放っておいてくれている。
治は「明子」、と小声で彼女の名を呟いて、少し間をおいてから気まずそうに「さん」と付け加える。明子は治の席から数列離れたところで、友達と談笑している。時に顔を近づけ合ってくすくすと。その距離が治には羨ましい。きっとあの友達は、明子の大きな瞳が何色か、正確に表現できるだろうし、口元にある小さなホクロがどんな形かー綺麗な丸なのか、少し歪んでいるのかーを見極める余裕を持っている。
治が、時々こちらに向けられる明子とその友達の視線をよけながらも明子に見とれていると、明子は時計をちらっと見て教室を出ていった。もうすぐ次の授業が始まる。その前にトイレにでも行ったのだろう。
見るものがなくなって、ふと、いつも彼女が座っている隣の机に目をやると、机に掛けた鞄から次の授業で使う教科書がのぞいていた。何枚ものハートのシールが表紙に貼られている教科書。治は、ごくっと唾を飲んだ。彼女に思いを寄せてから数ヶ月間、ずっと考えていたことを実行するのは今かも知れない。治は、さっと辺りを見回し、座ったまま明子の机に掴まって、落ちている物を拾う振りをしながら明子の教科書を取り出し、手早く自分の机の中に入れた。
始業時間ぎりぎりに帰ってきた明子は、鞄をごそごそ、首を傾げては、何度も鞄と自分の机の中も探ってみている。あれー、と言う明子の小声が治にはヤケに大きく聞こえる。明子が立ち上がった。友達に借りに行くつもりなのだろうか。それでは意味がない。治は、なるべく声が上擦らないように気を付けながら、明子に声をかけた。
「教科書ないんなら、俺のあるよ」
「俺の貸してあげるよ」か「俺の一緒に見ようよ」か。どちらが今の状況に相応しく、また、ただの親切心だと捉えられる言い方かを考えていたら、どっちともつかなくなった。しかも早口で不自然だったかも知れない。そんな不安を落ち着かせるための言い訳を考える暇もなく、明子は、あ、じゃ、と自分の机を治の机にぴったりと横づけた。治が教科書を出し、二人の机の中央に開いておくと明子は、「ありがと」と言った。
次の授業は、教科書を読み上げるだけの、生徒にとっては退屈極まりないものだったが、治にとっては違った。明子の机に置かれている教科書の半ページに線を引くため手を伸ばすと、明子の軽やかな息が手にかかり、皮膚を通じて治の心臓を揺らす。線が曲がれば、「私やるよ」と、白く、滑らかな手がのびてきて治のペンを握り、その際に軽く触れる明子の柔らかい肉感的な手に、治ははっとする。
明子にとってはやはり退屈な授業なのだろう、教科書を共有している気安さもあってか、
「ねぇ、あの先生、白目むき出して瞬きするの、知ってた?」
「あのぉ、が多すぎだよね。ね?」
笑みを含んだ声でひそひそと話しかけてくる。治は、その度に沸き上がってくる喜びの声を抑えるためにむずむずと痒くなる喉を感じながら、小さく相づちを打った。そんな治を置き去りに授業が時間通り終わると、明子はノートを片づけている治の横で教科書をぱたっと閉め、「ありがとね」と、治に手渡した。
治は、その後、いかに自然と明子の教科書を返すかをずっと考えていたが、明子はそれから教室を離れる風もなく、とうとう帰る時間になった。明子が教室を出て、恋の儀式から解放されたと見た友達が治を誘いに来たが、治は用事を繕い、一人残った。
それから、治は辺りを見回した。明子の机にはまだサブバッグが掛けられていたが、それはいつも置かれたままであったので、治は気にせずに、自分の机の中から明子の教科書を取りだした。そして、そっと撫でてから教壇に置いた。今日起きたこと、自分に向けられた明子の言葉を思い出しながら置かれた教科書を眺めていると、それがだんだん明子に見えてきた。教科書に貼られた暖色系の柔らかなフォルムのシールが、ますます明子を強調する。離れ難くなり、治は再びそれを手にとってさすり始めた。
その時だった、がらっと教壇に近い教室のドアが開き、明子が入ってきたのは。明子と治の目があった。明子の視線が治の手にうつる。
「それ、私のだよね?」
聞いてくる明子に治は何度も頷いた。
「どこにあった?」
「そこに落ちてた」
治は、頭の中が熱く沸騰して吹きこぼれそうなのを感じながらも明子の机の周辺の床を指さした。明子は、一瞬、怪訝な顔をしたが、
「そう。ありがと」
とだけ言って教科書を引き取ると、サブバッグを回収し、治にバイバイと手を振ってから教室を出ていった。
治は、呆然と立っていた。明子はこの状況をなんと解釈したのだろうか。自分のやったことは、さきほどの些細なミスで全部が露見するほどのものだっただろうか。それとも、自分の苦し紛れの言葉が還って悪い結果を生んでしまったのだろうか。考えれば考えるほど冷や汗が滲んでくる。その汗をクーラーの風が乾かしていって、もう暑いのだか寒いのだかも分からない。
動悸が静まるのを待って、治は教室を出た。うつむきながら足早に校門へ向かう。治が校門にさしかかると、明子の笑い声が聞こえてきた。明子が教室を出て行ったのは、かなり前で、もう明子とはすれ違わないと読んでいた治の鼓動は、再び早くなっていった。意識せずに、明子だと気付かない振りをして友達と話している明子の前を通り過ぎる。
「また明日ね」
明子の言葉が治の背中に投げかけられた。治は振り向いて、うん、と答える。前を向いて歩き始めた治の背中は、明子の視線を感じようとしていた。
特にこれと言った事件は起きませんが、ドキドキ感を味わっていただけたら幸いです。
お読みいただき、ありがとうございました。