第3話 嘘の中の本当
役の台詞をひとつ言うたび、脚の震えは少しずつ収まっていった。
まだ心臓は速く打っているけれど、呼吸のリズムが整っていくのが自分でも分かる。
──それでも、頭の片隅でずっと叫んでいる声があった。
「こんな台詞、ただ覚えただけじゃダメだ」
顧問の瀬戸口先生がよく言っていた。
**“感情を届けなければ、ただの暗唱だ”**と。
次の場面。
私は、お茶を差し出す茶屋の娘。台詞は短い。ただの受け答え。
本当なら何も特別じゃないはずの瞬間――けれど。
舞台上の“兄”役が、私に向かって笑いかけた。
その表情に、一瞬だけ本物の優しさが混じっていた。
胸の奥がきゅっと縮む。
私は、自分の家のことを思い出していた。
母は忙しく、父とも離れて暮らしている。
小さい頃、誰かにあんなふうに笑いかけられた記憶は、ほとんどなかった。
気づいた時には、台詞に自分の声色が滲んでいた。
台本通りなのに、そこにはほんの少しだけ**“私”の感情**が乗っていた。
(照明IN → 青白いスポット、静かな間)
ひなた(心の声):「これは……嘘の中で、私が本当に言いたかった言葉だ。」
観客席から、ごく小さな笑い声とため息が聞こえた。
誰か一人でも、今の私を受け止めた――そう思えただけで、視界が少し明るくなる。
気がつけば、最後の台詞を言う瞬間まで、私はもう震えていなかった。
幕が下り、袖に戻る。
瀬戸口先生が腕を組んで立っていた。
「……今の最後の声、悪くなかったな」
そのひと言に、胸の中で花火みたいな音がした。
でも同時に、先生はすぐに付け足す。
「その一瞬を、最初から最後まで通せ。じゃなきゃ本物じゃない。」
私は息を整えながら、こくりとうなずいた。
舞台の嘘の中に、自分の本当を持ち込む――次の課題は、それだった。