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硝子細工と標本屋敷

作者: 小娘

眠れない夜に、惰性で読む用だぜい

 広間に入って顔を上げると、いつも通り彼女が見つめ返してきた。それは若く美しい女性の肖像画だ。その金色の髪が光なのか絵具なのかはいまだにわからないが、窓から入り込んだ朝日に彼女の微笑みが照らされるのを見る度に、私はまた一日年老いたことを実感する。


 ここは今や名もない屋敷だが、それでは不便だからか、単に誰かが主の真似事をしたかったからか、いつの間にか「標本屋敷」という名がついたらしい。私もそう呼ぶことに異存はない。この屋敷の取柄というと標本以外の何ものもなく、あの肖像画さえ霞むほどなのだ。そう、この屋敷には、ありとあらゆる類の標本が並んでいる。植物や爬虫類が大半だが、一番目を引くのは、かつての食堂に居を構える人体の骨格標本だろう。何せ、それは硝子でできているのだ。その佇まいに何か悪趣味なものを感じる者もいるようだが、それでもその標本は美しかった。


 さて、私はこの屋敷の世話をする傍ら、観覧客からわずかな入場料をもらうことにして、細々と暮らしている。他に生計を立てる術がないからだ。私は元々、この屋敷の主人の従者をしていた。彼はトバイアスという名だった。大体同じ年齢で、背格好も似ていたので、私はよく彼の影武者として使われることがあった。彼は幼い頃から何かと出不精なところがあって、習い事だとか、厄介な人付き合いだとかのためには大抵外に出たがらなかった。それを上手く誤魔化すのが私の仕事だったのだ。私たちは良い友人同士だった。だが、彼は焼死した。


 トバイアスはこの屋敷を保有し続けてきた一族の最後の一人だった。彼の両親が流行り病と事故で立て続けにこの世を後にしたとき、彼はまだ二十歳にもなっていなかった。そのときはまだ、彼にはジェインという妹がいた。しかし、ジェインは両親を亡くした二年後、十八になったときにどこぞの男と駆け落ちをして、トバイアスを置き去りにしたのだった。だから、彼は孤独だった。彼が標本を集め始めたのは、その頃だったと思う。


 私は毎朝、屋敷の掃除から始める。というよりも、他にすることはほとんどない。買い出しに行くにせよ、それは馬車を頼んである日に限ったことだし、客が来たところで、彼らについて回るわけでもないのだ。そういうわけで、私は掃除をする。まずは自室からだ。トバイアスが使っていた部屋だが、私が寝起きしたところで文句を言う者もいまい。廊下に出ると、正面にもう一部屋あるが、そこは開けない。ジェインの部屋だからだ。廊下を少し進んで、ぎしりと床が軋むところを踏む。これは自分でも理解できない習慣だ。そこから数歩歩くと、小さな展示室の扉に行き着く。中に入り、標本が入っている槽を一つ一つ布巾で拭う。どの部屋でも、大体することは同じだ。


 階段を下りた先で、私はジェインの肖像画の前を素通りする。トバイアスの肖像画が隣に並んでいないのは、彼自身がそれを外させたからだ。二番目に大きい展示室を掃除した後、調理場に行く。すると、大体はレナがいる。レナというのは、ここで唯一雇っている人間だ。食事の世話を任せているため、朝はここで会うのが恒例だった。しかし、言葉を交わすわけではない。彼女は金がもらえれば満足なのだ。愛想もへったくれもないのは、残念でもあり、好都合でもある。


 調理場から直接食堂に入ると、すぐ左に骨格標本が立っている。私はそれを慎重に拭う。それから、まじまじとその硝子を眺める。それは時々、凍てついているように見えた。永遠に融けず、この食堂という小さな城の玉座から、決して退こうとしないかのように。素晴らしい出来栄えだと、いつも思う。そうこうしているうちにレナが出てきて、私たちは食事を取る。レナは食卓の一番端に座るが、私は標本の前に座る。別に見せつけたいわけではないが、これも習慣だった。


 朝食を終える頃、早いときには客がやってくる。私は出迎えこそするが、余計なことはしない。ただ、標本に触れないように、そして、二階の左手側にある部屋はすべて私室だから入らないようにと頼むだけだ。案内を頼まれればそうするが、大抵の客人は気ままに見物をすることを好む。時折、玄関の広間からも見えるあの肖像画の人物が誰なのかと尋ねる者もいる。私は答える。今は亡きジェイン嬢だと。事情を知らない者になら、わざわざ駆け落ちだと言う必要はない。


 客人が標本を見て回っている間、私は食堂に戻って読書をする。他にすることがないのもそうなのだが、どちらかというと、客人がこの硝子細工に触れて、万一これを破壊するようなことがあったら困る、という部分のほうが大きい。これはトバイアスの一番の形見なのだ。そも、作り直すにも骨が折れるに違いない。これと同じものを作り出せる硝子細工職人が見つかるかすらわからないのに。


 客人がいないとき、読み飽きた本に耐え兼ねると、私は庭園に散歩しにいく。世話をする余裕がないので随分荒れてしまったが、かつてはトバイアスの母親が丹念に面倒を見ていた庭で、彼女がこの世を去った後も、ジェインは何とかその飾らない美しさを保とうとしていた。それが今はこの有様だ。申し訳ないとは思わないが、何とも虚しい。


 私はこの庭園を歩くのが好きではない。だが、見にゆかずにもいられないのだ。トバイアスが死んだあの小屋を。本来であれば、それは庭の手入れに使う道具を仕舞っておくために建てられた小屋だった。しかし、夫人が亡くなってからは使われる頻度も格段に減り、積もった埃が払われることもなくなってしまったのだ。


 ジェインが行方を眩ませてから一年ほど経った頃だっただろうか。トバイアスは、何を思ったのか、小屋の中に火を放ったのだ。乱心した、と言う他あるまい。あの頃、彼はすっかり参っていた。私は彼を小屋から救い出そうとしたが、間に合わなかった。彼の命の代わりに私が手にしたのは、標本の山と、一人で過ごすには広すぎる屋敷と、二度と消えない顔の火傷だった。とても人目に晒せる顔ではなくなってしまったので、以来私は仮面をつけている。燃え尽きたまま放置されているあの小屋を見る度に、私はそこにトバイアスの欠片が残っていて、何か得体の知れない力が、今にも彼を復元するのではないかと、そんな馬鹿げた考えを抱く。しかし、彼は二度と私の前に現れない。彼は死んだ。


 小屋の残骸を目にすると、いつも腹の奥底がしんとする感覚がする。音などまるで初めから存在しないかのように、世界が静まり返るのだ。しかし、今日は少し様子が違った。煙が上がって――いや、違う。遠い景色の緑の中に漂う煙がちょうど、小屋の辺りから細く上っているように見えただけだ。近づけば近づくほど、小屋と煙にはまったく整合性がないと思い知らされるばかりだった。しかし、私の心臓は狭い部屋を突き破ろうともがいているかのように、それはそれは力強く脈打っていた。風に揺らされた木の葉の音が耳障りだった。私はいつもより早く踵を返した。


 歩いているうちに雨が降り出した。私は足を速めた。屋敷に辿り着いたときには、雨は激しく地面を打っていた。何の恨みがあるというのだろう。しかし、この雨では、今日はもう客も来ないだろうと思われた。だからなのかもしれない、私が妙な気を起こしたのは。客が来ない日というのも珍しいわけではないが、いや、おそらく、何となく気の滅入る、泥濘のような気分が私を促していたのだ。すれ違ったレナにおざなりな挨拶をして、私は二階に上がった。いつもの廊下が悲鳴を上げる箇所を踏みつけ、私室の前に足を運ぶ。だが今回は、左側の扉に相対した。ジェインの部屋だ。しばし考えたが、やはり気分は変わらなかった。ずっと触っていなかった扉の取っ手を握ると、それはこの気温のせいで少々冷たかった。私は気をつけねば割れる脆い何かを扱っているかのように、そっと扉を開けた。


 埃が慌てふためきながら逃げていった。廊下の灯りが鈍く差し込み、じっと動かない家具に勝負を仕掛ける。帳の先は薄暗く、雨が息を殺しながら落下する音がしていた。私が足を踏み入れるのを恐れていたこの部屋は、かくも愚鈍だった。当然だが、そこには誰もいなかった。いや、鼠くらいはいたかもしれない。だが、つまるところ、この部屋もやはり屋敷の一部で、同じように時を刻んでいたということだろう。記録のように積もって部屋を沈黙させている埃が、それを証明しているではないか。


 私は明日にもこの部屋を掃除することに決め、ひとまず廊下に出た。扉を閉めると同時にくしゃみが出た。ずっと放っておいたことを怒られているのかもしれない。我ながら愚かしいと考えていると、時計の鐘の音が、魔物の足音のように響いてくるのが聞こえた。もう夕食の時間か。私は階下に降りていき、ちょうど調理場から出てきたレナに、明日は町へ下りてほしいと頼んだ。あの部屋を掃除するなら、買い物をしている時間はないだろうと思ったのだ。レナは一度頷いただけだったが、顔を見れば、心の中では返事を繰り返していたということが見え透いていた。別に構うことはない。何だかんだ言って、彼女は言われた通りのことをしてくれる。


 翌朝、日課の掃除、つまりジェインの部屋以外の掃除を済ませ、私はいつも通り朝食を取った。昨日した頼みを覚えているだろうかと思ってレナの顔を窺うと、彼女はわかっていると言いたげに若干眉をひそめた。それは悪かった。私は視線を硝子の標本に戻した。この標本も、ひょっとしたら、綺麗に整えたジェインの部屋に移動するのが良いかもしれない。変わり映えしない屋敷に、少々飽き飽きしていたのだ。


 しかし、今日に限って残念なことに、朝食を終えるが早いか客が訪れた。それは近隣の村に住む子どもたちで、何故かこの屋敷を気に入っているのだった。何度見に来ても、標本の種類や場所はただの一つも変わらないというのに。いや、あるいは、そろそろ新しい標本を用意しても良いかもしれない。ずっとそうする気が起きなかったとはいえ、やって損はないだろう。


 笑っても笑わなくても同じことなのだが、私はその子どもたちに笑顔で接することにしていた。少なくとも、誠意があるように声が響くだろうかと思って。例のごとく私が出迎えると、彼らは妙に統率の取れた動きで私を取り囲んだ。子どもというのは、よくそういうことをする。私たちも独特の結束力をもって、当時の屋敷の主人を困らせたものだった。


 さて、その三人の子どもたちは私をせっつき、屋敷を案内して回るように要求してきた。彼らは私と同じくらい標本屋敷のことを知っているはずだが、しかし私も彼らの事情を把握していた。そう難しい話ではない。彼らはただ、大人との関わりを持ちたいだけなのだ。忙しくないように見える私はかなり都合が良いことだろう。だが、そんな彼らを拒絶するほど、私という人間も腐ってはいない。本当はすぐにでもジェインの部屋の掃除を始めたかったが、後にしたところで結果は変わらないというものだ。


 子どもたちはわざと足を踏み鳴らしながら歩く。何故かは知らないが、それが楽しいらしい。無理に揺すり起こされた屋敷が不満げな呻き声を上げて答えている。展示室に着くと、子どもたちはそれぞれ一つか二つ標本を指さして、その正体を尋ね、私を試そうとする。私はその名称も特徴も間違えないし、仮に間違えたところで、彼らにはわからない。しかし、私が答える度に目を輝かせて感心する彼らを見ていると、ふとここで生きていることを実感するのだ。


 そうこうしながら一通り展示を見て回った後で、私たちは例によって最後に食堂に入り、一緒に硝子の骨格標本を眺めた。子どもたちでさえ、食堂に入ると黙りこくり、畏怖の念を持ってその標本に相対する。しばらくして、私は子どもたちを促して食堂を出ようとした。すると、三人のうちの一人が突然口を開いたのだ。


あれ、なあに?


 その子どもが指さしていたのは、あの硝子の標本だった。そしてその口ぶりは、他の標本について尋ねるときと同じものだった。だが、考えてみれば、彼らのうちの誰もこの骨格標本に言及したことはなかった。私は少々面食らったが、すぐに調子を取り戻して答えた。特別に作らせた、人間の骨格標本だと。硝子でできている点以外は、大して珍しいものではないのだと。子どもたちは興味なさげな相槌を打つと、活発さを取り戻して、我先にと廊下へ飛び出していった。私は振り返って硝子を見つめた。あれが何かとは、長らく考えていなかった。


 私が廊下に出たときには、子どもたちはすでに玄関の扉を開け放し、外で私を待っていた。彼らの背が見えなくなるまで見送るのが、いつの間にか決まりになっていたからだ。私が追いつくと、子どもたちは早速手を振った。


またね、おじさん。元気でね。


 彼らはいつも同じことを言って去っていく。二十余年しか生きていない私をおじさんと呼ぶのはどうかと思ってはいるものの、顔が見えないのだから仕方ないだろう。私は特に言葉を返すわけでもなく、静かに彼らを見守る。子どもたちは昨日降った雨が作った水たまりにわざわざ足を踏み入れながら、元気良く走り去っていった。時々振り返るのは、私が慣例を破っていないか確かめるためだろう。ようやく彼らの姿が見えなくなったので、私は屋敷へと踵を返した。そのとき、視界の端に映った水たまりが、何か奇妙な輝きを放った気がした。


 私は早速二階に上がった。ジェインの部屋に入る前に、自室へ行き、掃除用具を急いで掴んだ。扉は開いたままにして、ジェインの部屋に移動し、まずは窓を開けた。帳はその座を退き、日の光が意気揚々と注ぎ込んできた。私は熱中して掃除に取り組んだ。埃を拭うのが作業の大半だった。やがて日が沈み、部屋はどんよりと暗くなった。その時分になっても、私はまだ満足していなかった。ジェインの時計は案の定止まっていて、今の時刻が判然としない。夜までかかるなら、灯りを持ってこようか……そう思ったときだった。開け放したままの戸口に、華奢な人影――


 まさか、と、私はぞっとして顔を上げた。しかし、ああ、そんなはずがあるわけがなかった。それはレナだった。彼女はそこに立ち尽くし、影ではっきりと見えない無表情をこちらに向けていた。何か用かと尋ねると、彼女はむすっとして答えた。


お食事が冷めましたけど。


 すると、私は時計の鐘の音を聞き逃したらしい。しかし、それならば食事が冷める前に呼びに来てくれれば良いものを。私は嫌味の一つや二つを言ってやりたい気がしたが、ただ謝って、そのまま置いておくように頼んだ。レナは頷き、汗だくの私を尻目に去っていった。そのとき、廊下が一か所大きく軋んだ。私は彼女がここまで来たときも、同じ音がしただろうかと訝った。


 掃除を続けたいのはやまやまだったが、鼠と食事を分け合うことになっても堪らないので、私は階下に降りた。食堂に行ってみると、私がすぐに食べ始められるようにするためだろう、皿には蓋もかけられていなかった。冗談はさておいても、レナの態度にはやはり気になるところがある。私を困らせるほどではないとはいえ、だ。あれは何なのだろうか?単なる不愛想か、いや、それとも嫌悪なのか?ありえない話ではない。彼女は私の仮面の下を見たことがあるのだから。私でさえ目を背けたくなる顔なのだ、何かしらの反発があってもおかしくはない。


 食事を取り終えた私は考えた。この皿を調理場に持っていくべきか、それともこのまま置いておくべきか。相手がレナでなければ運ぶのが道理というものだが、そうすれば彼女はかえって私を睨みつけるかもしれない。と、そこで、私は彼女にもう一つ頼み事を思いついた。どっちが口実かわからないが、とにかく皿を持っていくことにした。


 レナは洗い物をしていたが、その作業はまだほとんど進んでいなかった。私が近づくと、彼女は鋭い眼差しを一瞬投げてきた。やはり、置いておいてほしかったのかもしれない。また頼みがあると私が言うと、レナは鼻をひくつかせてわずかに苛立ちを滲ませた。頼みというのは、あの硝子の標本を運ぶのを手伝ってほしい、というものだった。そう大きなものでもないので、二人でなら運べないということもないだろうと思ったのだ。レナは黙って私をじっと見据えたかと思うと、恭順に頷いた。


 私もレナも力仕事をよくやるので、思った通り、運搬に苦戦はしなかった。しかし、慎重に慎重を重ねて進めたので、時間はかかった。レナの苛立ちが標本越しに伝わってくる気がしたが、私は気付かないふりをした。私たちは骨格標本をジェインの部屋の壁龕に置いた。それはちょうどぴったりの広さだった。額に汗をかいたレナは標本を安置するやいなや、さっさと部屋を出ていった。私は一人、満悦して硝子を眺めた。弱い蝋燭の炎が、その心臓の辺りをゆらゆらと照らしていた。


 屋敷の外はすっかり夜になっていた。私は帳を閉ざし、ジェインの部屋を後にした。いくつか残っていた雑事を片付けた頃には、ささやかな眠気に襲われつつあった。そのとき、私は一階の一番奥にある展示室にいた。灯りを手に部屋を出て、首の筋を伸ばしながら歩いていると、玄関の広間のほうから、がたん、と大きな音がした。一体、何の音だろう。


 私は少し早足になって、音のしたほうへ向かった。頼りになるのがすっかり身に染みた屋敷の構造と、心許ない手元の灯りだけだったので、広間に着いても音の正体はわからなかった。特に物音はしなかったが、人がいたとしてもわからなかっただろうと思う。私は異変を探して玄関の扉を目指した。灯りの鈍い光は見慣れた広間の光景の一部を浮かび上がらせた。燭台が落ちているわけでも、扉をこじ開けられたわけでもなかった。私は高々と灯りを掲げながら、一歩ずつ、扉から後退っていった。靴の踵が擦れ、潰された蛙の鳴き声のような音を立てた。


 何もない。腕に疲れを感じ、私は灯りを下ろした。朝になってから確かめれば良いかもしれない。そう思い、私はおもむろに身体の向きを変えた。そして、すぐそこに、私を見つめる両の瞳が、ぼんやりと浮かび上がっているのを目にした。心臓が張り詰めるようだった。私は灯りを取り落とし、それは喧しく音を立てて屋敷を威嚇した。一呼吸置いてから、私はそろそろと灯りを拾い上げ、もう一度同じ場所を照らした。もう正体はわかっていた。


 ジェインの肖像画は、穏やかな表情を湛えてこちらを見つめていた。さっきの音は、これが壁から外れたときに鳴ったものだったのだろう。そう簡単に外れるとは思えないが、落ちたものは落ちた。明日、もっとしっかりつけ直せば良い。私は灯りをさらにジェインに近付けた。睨めつけられているはずなどないではないか?


 あくる日、私はいつも通り自室の掃除から始めた。が、その次に入ったのはジェインの部屋だった。硝子の標本が私を出迎えた。やはり、ここに置いたほうがよく映える。私は丹念に部屋を掃除し、時計を見上げた。それはまだ止まったままだったので、後でねじを巻き直そうと決めた。自室の時計を覗き見ると、もう朝食ができる時間帯だった。私は他の部屋の掃除を諦め、食堂に向かった。


 レナはいつもの席に私の朝食を置いていた。私はそこに座ったが、目の前にはもちろん、何もない壁があるだけだった。こうなってはここで食べる理由もないが、かと言ってレナの前に座れば、眼差しで何と言われることやら。私は先に食べ始めていたレナより早く食事を終えてしまうと、彼女に会釈をして食堂を出た。


 掃除の続きをしようかと思ったが、それよりも、肖像画を掛け直すのを先に済ませることにした。見たところ、壁につけた鉤が曲がってしまったようだ。私は物置に新しい鉤を取りに行った。鉤は二つだけ余っていた。それを持って戻ろうとしたとき、布がかけられた絵画が視界の端に映った。覆いを外さずとも、それがトバイアスの肖像画だということはわかっていた。しかし、私は覆いを取り去ってその絵を見た。絵師が気まずさを誤魔化すために凛々しく描いたようだが、本当はもっと弱々しい男だった。この生きた顔をもう見ることができないとは……。


 ほんの気まぐれで、私はその肖像画を一緒に持って出た。ジェインの隣に飾っても良いかもしれないという気がしたのだ。新しい鉤を二つ取り付け、兄妹を並べた。その瞬間、時が戻ったかのような心地がした。先代が亡くなって間もない頃、途方に暮れながらも、二人が手を取り合って縁を確かめ合ったあの頃。あれは美しい時期だった。一体、どこで間違えてしまったのか。


 物思いに耽っていると、来客があった。その小太りの男はここを訪れるのが初めてらしく、何やら興奮した様子で、私に声をかけてきた。私はいつも通りの説明をした。標本には手を触れないこと、そして、二階の左手側はすべて私室だから、どちらの部屋にも入らないこと、と。彼は私が言い終えるが早いか了解し、早速展示室に向かった。


 私は定位置となった食堂―標本がない今となっては、あまりにも退屈だ―で本の頁をめくって待機していた。やがて入ってきた客人は、食堂の中を見回してあからさまにがっかりした。彼は私に近づいてきて、硝子の骨格標本の所在を尋ねた。ここにはない、と答えると、彼は唐突に、その標本を高値で譲り受けたいと考えていたのだと打ち明けた。そんな邪な思いでこの屋敷に立ち入った人間がいただろうか?私は彼を追い出した。


 それからの数日は、偶然か必然か、静かなものであった。私はずっと二階にいた。辛抱強い客に痺れを切らして、レナが私を呼びに来ることもなかった。だから、多分誰も来なかったのだと思う。私はジェインの部屋の掃除を細部に至るまで徹底した。時計のねじを巻き直し、家具の装飾に溜まった埃をいちいち払い、汚れた鏡を跡が残らないように拭いた。美しく磨かれた鏡は、あの硝子の表面を煌びやかに映した。これでようやく、この部屋が整ったと認められる気がした。綺麗好きのジェインなら、この部屋の様子を見て満足したに違いない。


 別の日、またあの子どもたちがやってきた。そのとき、私は階下にいたので、すぐに彼らの訪問に気付いた。迎え入れるべきか迷ったものの、少々不憫な気がして、結局扉を開けた。いつもは三人で来る子どもたちだったが、この日は二人だけだった。もう一人のことを尋ねると、二人は首を横に振った。気にすることでもないかと、私は彼らを連れて廊下を進んだ。いつも通りの流れで食堂に着いたとき、彼らはがらんとした壁を見つめて首を傾げた。


どこにいったの?


 少年が尋ねた。私は簡潔に、いなくなったのだと答えた。すると、少女のほうが顔を上げた。


おじさん、大切にしてたのに?


 無論、大切にしているからなのだが、その手のことを説いても仕方がないので、私は曖昧に頷いた。二人は心配そうな顔をして、戻ってくると良いね、といったことを呟いた。私たちはその部屋を出た。


 私が玄関の扉を子どもたちのために開けてやろうとしていると、少年が私の服の裾を引っ張った。見ると、あの二つ並んだ肖像画を指さしていた。


あれ、おじさん?


 私は、彼は今は亡きトバイアス卿で、火事で焼け死んだのだと答えた。私たちはよく似ていたのだとも。子どもたちは気味の悪いものを見るような目で肖像画を眺めると、子どもらしく甲高い声を上げながら外に飛び出した。考えてみれば、私は死人の肖像画を並べ、屋敷に来た人が一番に目にするところに飾っていることになるのだ。ぞっとしない響きに私は一人苦笑した。


 その夜、私が自室で休んでいると、廊下が軋んだ音が聞こえた気がした。響き方からして、あのやけに大きく軋む箇所だろうと思い、私は布団から滑り出た。廊下を覗いたが、当然誰もいなかった。いたとしてもレナ以外にはありえない。が、彼女は一度寝ると朝まで目覚めない性質だ。こんな夜半に廊下を、しかも私とジェインの部屋しかないこの廊下を歩くとは思えない。音がしたのは気のせいだったのだろう。


 しかし、その音は毎晩私を目覚めさせた。私は何度か廊下を確かめたが、そこにはいつも何もなかった。馬鹿馬鹿しい。私は気にしないように努めたが、目覚めてしまうものはどうしようもなかった。そしてこの夜は、目が冴えてしまって、どうしても再び眠りに就くことができなかった。私は起き出して、灯りを持って廊下に出た。廊下の少し先まで歩いてみたが、やはり異常はなかった。癖で私は蝋化のあの箇所を正確に踏みつけた。屋敷は苦しげに喘いだ。自室に戻る前に、私はジェインの部屋に入った。


 すべてが整然としたその部屋にいると、心が落ち着いた。微笑んでいるようにさえ見える硝子の標本と向き合っているうちに、眠気が徐々に膨らんでいくのがわかった。満足して、私は自室に引き上げることにした。その前に私は鏡を覗き、今夜の見納めに硝子の様子を確かめた。だが、それは、何か嫌な、肝を爪の先でなぞられたような、そんな感覚を引き起こした。大したことではない。ただ、あの頭蓋が、こんなにもまっすぐに鏡を見ていただろうかと、そんな考えが頭を過ぎっただけだ。


 翌朝、ジェインの部屋を掃除するとき、改めて鏡を見てみると、硝子の頭蓋がこちらを見据えているような感はまったくなかった。気のせいだったに違いない。私は朝食の席に降りていった。だが、ほとんど食欲は起きなかった。レナに悪いだろうかと考えていると、彼女は自身の皿を片付けた後で、聞きもせずに私の皿を下げてしまった。やつれて見えていたのかもしれない。


 その日、私は部屋をほとんど出なかった。睡魔に襲われながら時を刻む時計の針の音を聞いているうちに夜が訪れた。夕食にも降りなかったが、レナが呼びに来なかったことからして、おそらく彼女は私の分を用意しなかったのだろう。私は早いうちに布団の中に潜り込み、そのまま眠りに就いた。その夜は、軋みの音で起こされずに済んだ。


 それからしばらくは、夜中に廊下が軋むことはなかった。何故そうはっきりと断言できるのかと言えば、一度、寝ずに耳を傍立てていた夜があったからだ。その日は、風の音すらしなかったのだ。以来、私は一層よく眠るようになった。食事は一日一食が基本になり、買い物や客の応対もすべてレナに任せきりにした。だが、そうしてから、彼女の機嫌はすこぶる良かった。


 昨日などは、ひどく鮮明な夢を見た。その夢の中で、私は扉を叩く音を聞いた。すぐに起き出して扉を開けた私は、そこに誰もいないことに首を傾げた。しかし、廊下のほうに目を凝らすと、階段の前に人が立っているではないか。広がった裾が足元を隠し、細やかな装飾が彼女の華奢な腰を彩っていた。私は顕微鏡を覗いたかのように彼女を眺めていたのだ。それは見紛うはずもなくジェインだった。夜だというのに、彼女は美しく輝いているように見えた。


 私は慌てて廊下に出て、まっしぐらに彼女の元へと進んだ。近づくほどに彼女は照り輝き、私は恍惚感と高揚感に、ほとんど空を飛んでいるような心地がした。その気分は見事、あの派手な軋む音に害された。その音は普段よりずっと大きく聞こえ、私は思わず足を止めてその箇所を眺めた。が、すぐに彼女のことを思い出した。顔を上げるよりも早く足が動き出し、私は逸るように頭を前に向かせた。


 そこで、また私は足を止めた。いつの間にか、そこに立っているのが硝子の骨格標本になっていたからだ。光を取り込んでは吐き出す硝子の表面が眩しかった。服を纏ったままの彼女は、震えながら動き出し、おもむろに頭をこちらに向けた。目元のぽかりと空いた穴が私を捉え――


 そして私は気付けば寝台の上にいた。夢だと納得するには、しばしの時間が必要だった。心がひどくざわついていたので、私はつと起き出し、身支度もそこそこに庭園に出た。随分久しい気がした。いつの間にか遠くの木々は葉を落とし、画材の足りない見習いの画家が描いたかのような、あまりに質素な景色が外には広がっていた。私はどこを目指すでもなく歩き出した。空気の冷たさに身体が硬くなる感覚がした。


 やがて、私は運命に導かれたかのように、つまり何か当然のことのように、あの小屋に続く道に辿り着いた。私は早足で進み続けた。そうしているうちに、外気に身体が馴染んでいくような心地良さを覚えた。小屋の残骸は目前に迫っていた。ここまで近くに来たのは、火事以来初めてのことかもしれない。まだ、あの煙の匂いを思い出せる気がした。あの日の痛み、私が払った代償。彼は死に、私は生き残った。ジェインのために、トバイアスは死んだ。この小屋は、その証明だった。二度と覆らない、過去の残滓だ。


 心が落ち着くと共に寒気を覚え、私は踵を返した。あの夢を夢だと処理しながら、私は歩いた。気分は暗かったが、静かだった。だが、屋敷に辿り着くや否や、私は床に崩れ落ちた。身体に力が入らない。音を聞きつけてやってきたレナが私の上に屈み込んだ。彼女は私の首に手を当てた。その手はひどく冷たかった。


 そして私は、熱病に苛まれた。さすがのレナも私の世話を放棄することはしなかった。彼女は私の仮面を取り、目を逸らしながら、代わりに薄い布を私の顔に被せた。一瞬だけ目が合ったが、彼女は嫌悪を隠さなかった。レナは一日に数回上がってきて、私の容態を確かめた。ある日のこと、まだ生きているのが残念かと、掠れる声で私が訪ねると、彼女は答えた。


生きるのか死ぬのか、どちらかにしたら良いのに。


 顔に被せられた布のせいで、そう呟いた彼女の表情は見えなかった。私は笑ったが、彼女の笑い声は返ってこなかった。ただ、部屋の扉を開閉する音と、廊下が軋む音だけが聞こえた。


 私の病はなかなか治らなかった。どれくらいの時が経ったのか、私にはわからない。ほんの数日でもおかしくはないが。また、静かにレナが入ってきて、近くに立った気配がした。食事だろうか。生憎と、腹は減っていなかった。そう思ったとき、彼女が言った。


もう、出ていきます。お金もありませんし。


 客を迎えていないから、金がないのは当然だった。しかし、彼女の世話なくして、私はどうすれば良いのだろう。抗議したかったが、その気力もなかった。代わりに、私は一言、ご苦労だった、と呟いた。


 さて、私は死ぬのだろうか。あれから、レナは部屋に来なくなった。本当に出ていったらしい。しかし、怒るようなことでもないような気がした。食事もままならず、目覚めていても眠っていてもどこか苦しい私は、ほとんど死んでいるも同然だ。ああ、だが、最後にあの硝子の標本を見に行きたい。死ぬなら、その冷たい肌に縋りつきながら死にたい。だのに、私の身体は、指先すら動かない。


 そして私は目を覚ました。身体は軽く、気怠さとは無縁だった。起き上がって辺りを見回すと、そこは確かに私の部屋だった。だが、人がいた。私とジェインだ。顔をなくす前の私と、消える前のジェイン。だが、まだ他に誰かがいる気がした。もっとよく見ようと、私は寝台を下りた。しかし、足を床につけた途端、部屋の様相が変わった。いや、変わったというよりも、壁や床が透けて、屋敷の有様がすべて可視化できるようになったのだ。私は埃を被った標本たちを目にした。それらに炎が襲い掛かるところも。


 炎は屋敷を駆け回っていた。煙の匂いがしたが、私は何も感じなかった。顔を上げ、ジェインの部屋のほうを見た。だが、そこに硝子の標本はなかった。なおさら、焦る必要はなくなった。あの二人に視線を戻すと、また様子が違っていた。二人は燃えていた。非難がましい目をして私を見つめている。私は思わず目を逸らし、また一階の標本たちを眺めた。埃と灰が混ざり合うところが見える気がした。


 私は仕方なく、彼らに目線を戻した。今度は、彼らは炎に完全に包まれ、見る影もなくなっていた。二人は私ににじり寄った。手を伸ばしているのは私か。いや、彼は私であって私ではない。炎はすべてを連れ去るものだ。私は後退りたかったが、身体は金縛りにあったかのように動かなかった。彼の手が、私の顔をなぞった。私が火傷した場所を、燃え盛るその手で。私は呼吸ができなくなるのを感じた。炎に包まれた視界に、私は二人の姿を捉えた。顔も形もない炎となった彼らの、見えない目が、私を抉るように見つめていた。


ああ、君は私を恨んでいるのか。

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