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31. ボンボン


 ――紙を捲る手は惰性で動いていた。山積みだった新聞も読み終えたイザベラは、一緒に図書館で借りた本を無心で眺めていた。体感で十分経つ度に、時計を確認して五分しか経っていないことを知る。


 フレッドがサンドイッチを買いに行くと屋敷を出て二時間は経ったが未だに帰る気配もない。他の二人にしても同様。アリーヌは一人で読書に向かい、マルクはめかし込んで鼻息荒く出掛けた。誰も彼も口を揃えて「すぐ帰る」と言ったが、陽が落ちかけてもイザベラは一人だ。


 一人で居るのは好きだし、そもそも子供扱いされたくもない。問題なのは「すぐ帰る」と言ったのに誰もその約束を守っていないことだ。約束が守られないのは、舐められているということに他ならない。舐められるのが嫌いだ。ニンニクと同じくらい嫌いだ。


 冷たいコーヒーカップに口付けをして粘性の沈殿物を啜ると、より自分を憐れむことができた。ジンジンと染み込むような甘さは痛みに近い。

 

「バカみたいね……」


 呟いた声が壁に吸われて消えるのに耳を澄ましていると、ふと背後で扉が軋む音がした。途端に絵画に黄金色のグラデーションが掛かる。


 イザベラは上半身だけを捻ると、そこには黒い人影があった。黒いハンチングに丈の長いフロックコート。季節外れの暑苦しい格好の男が顔を伏せたまま妙に明るく高い声で「ごめんください」と言った。


「仕事の依頼なら日を改めてくれる?」


 そんな訳がないことを承知で言うと、人影は微かに「いいえ」と首を振り、了承も取らずに屋内に入り込む。大股であるのに忘れてきたかのように足音がなく、風を纏っているのに匂いがない。


「家主に招かれなきゃ、入っちゃ駄目なのよ」


 真正面に座り込んだそれに目を細めながら、イザベラは独りごつ。目深に被った帽子の隙間から覗く顔は青白い。


「ごめんなさい。でも、どうしても貴女とお話したかったので」


 顔が僅かに持ち上がり黒い三白眼がこちらを覗く。男の顔は存外幼く、微かに丸みを残している。アリーヌと同年か少し若い。


「ルノです。よろしくお願いします」


 甲高く抑揚のきいた声で言うと、真っ直ぐ右手を差し出してくる。その顔には『親しみ』を体現するかのような素晴らしい笑みが張り付いている。

 イザベラ「そう」とだけ呟く。握り返そうとは思わなかった。それが冷たくても温かくても、不快に違いないからだ。


「差し支えなければ、貴女のお名前を教えてください」

「……イザベラ」

「可愛らしい名前ですね。お顔も可愛らしい。似顔絵と瓜二つです。凛々しくも可憐で……あっ、そうだ」


 言葉を切るとルノは右手を突き出しながら左手で胸の内ポケットを漁り、なにかを掴んで差し出すと、勿体ぶるように開いた。


「飴ちゃんです」


 赤と白の縞模様に包まれた飴をルノは音を立てないように慎重にテーブルに置いた。


「よろしければどうぞ、食べると幸せな気持ちになれますよ」


 ルノは頬を膨らませ、人差し指を当てた。


「アンタ、殺し屋でしょ?」


 頬が萎んだ。


「バ、バレましたか?」

「隠す気ないでしょ」

「ああ、まあ……そうですね。僕は殺し屋です。でも悪い殺し屋じゃないですよ」

「……善い殺し屋がなんの用なの?」

「粛清です」


 濁りのない目をイザベラに向けたまま微笑む。


「僕は大きな組織に所属していまして、保険担当なんです。監視者(シュルヴェイアン)と呼ばれています。我々の仕事は二種類です。一つ、誰かが失敗した仕事を代わりに完遂すること。二つ、裏切り者を粛清すること」


 ルノが人差し指と中指を続け様に立てた。


「損な役回りなんですよ? 汚れ仕事ばかりで……まあ、業界全体が汚れ仕事みたいなところありますが」

「話が見えてこないわ」

「……そうですよね、ごめんなさい。よく話が長い上に回りくどいと言われます。悪気はないんですよ? 僕はただ自分の知っている情報は隠したくない、フェアでありたいんです。だから、聞いてくれますね?」


 目の奥を、なにか暗い物が過った。


「少しの前の話です。ある劇場で会員が……我々の組織ではそう呼ぶんです……会員が職務中に殺されました。そこで僕の出番です。現場を検証し、なにが起きたか調べました。そうして浮かび上がったのは非常に厄介な事実です。会員を殺したのは別の会員だった訳です。辟易しましたよ。これで最低二人始末はする必要が生じましたからね」

「……一人は私ね」

「ご明察!」


 素っ頓狂な声と共に人差し指が向く。一見して行き過ぎた悪ふざけに見えるそれは、射殺の隠喩に他ならない。


「殺すならさっさとやれば?」

「まだ早いです。貴女にはもう少し答えていただきたいことがある。例えば、貴女自身の話とか」

「私の?」

「ええ。命の価値について考えたことはありますか? お嬢さんは幼いからないかもしれませんが誰もが一度は考える命題です。そして誰も答えを出せない。その筈ですが、我々は世にも珍しいその答えを持っている職種です。答えましょう――平均六百万フロルです。虚しいです、普通の人間にはそれしか価値がない」


「ですが」と人差し指が、今度は緩慢にイザベラを指す。


「貴女は三億だ。これは一体どういうことでしょう。政治家や爵位を持っていてもこんな金額にはならない。貴女は何者ですか? 一体誰でなんの為にこの場に居るんです?」


 瞳は薄暗く濁り、薄ら笑いは消えていた。そこにあるのは、まるで仮面のような殺し屋の素顔だ。


「僕は経験が浅いですが、こんな仕事は初めてです。聞いた時から胸騒ぎがして、凄腕の先輩がしくじったと聞いて胸騒ぎは大きくなりました。大通りを通って素敵な赤い扉を潜って貴女の前に座った今も胸騒ぎは大きくなっています。この感覚は? 忘れていましたが知らない訳じゃない。ええ、認めます『恐怖』です。僕は怖がっています。得体の知れない恐怖に怯えています、だから知らないといけない。恐怖は克服されなければ。だから教えてください。貴女はなんなんです? 貴女……あ?」


 ルノの視線が不意に上に外れる。途端に背後でボッと人の気配が立つ。

 彼女が振り向くよりも早く、風を割くような音が頭上でして、ルノの身体がソファーごと後ろに倒れた。


 首元を引っ張り上げられ、次の瞬間には脇に抱えられていた。煙草と埃臭い匂いが微かに鼻をつく。


「いくぞ」


 声は低く力強く、そして震えていた。


 ◇◆◇◆


「三番線! マルスヴァル行き三番線は十分後に定刻通り出発します!」


 雑多な人の流れの中に餌を撒くような駅員の胴間声が耳に届く。

 広い通路を歩くマルクは右手をしっかり握りながら、すれ違い追い越していく顔のモンタージュを一つ一つ丁寧に確かめた。


――南部(エクシタニア)鉄道の最南端に位置するマルティア駅はフレンシア南部最大の鉄道ハブであり、血管のようにエウロパ中に伸びる十二路線が日に数万人が運ぶ。


「ねえ」


 鈴のような声が喧騒を擦り抜けて耳に刺さた。遅れて右手を引かれ舌打ちする。渋々、方向転換して人波を横に突っ切る。

 手近なスペースを見つけ膝をつき目線を合わせた。


「いいか? 聞きたいことは山程あるだろうが質問するな邪魔するな。黙って俺の言う通りに動け」

「マルク――」


 彼女の柔らかい頬を軽く叩く。渇きを覚えながら飲み込んだ唾が喉に引っかかった。


「……一つだけ約束してやる。俺はお前の為だけに行動する。信じてさえくれれば、絶対に裏切らねえ」


 それだけ伝えると強引にイザベラの手を引き、人波に再び飛び込んだ。足早に、なにかを振り切るように。三番線に乗る。計画は港町であるマルスヴァルに向かい、船に乗って国を出る。それから出来るだけ遠くに行く。


「ねえ、アイツらは?」

「あ?」

「フレッドとアリーヌよ」

「大丈夫だ……後で合流できる」


 嘘を隠す気はなかった。むしろ、察してもらおうという下心すら込めてマルクは呟いた。


 構内を跨ぐ陸橋を駆け上がり、三番線で降りる。降りた先では堤防を思わせる煉瓦造りの細い乗り場があり、汽車がそれに寄り添うっている。

 

 駆け足で汽車に近づき、段差に足を掛けた。その時、客車の扉が開き人影がのっそりと飛び出す。それが誰か理解するより早いか、殆ど確信めいた予感に舌打ちが出る。

 その音が耳に残る内に、横向きの人影がゆっくりマルクの方を向いた。


「お待ちしてましたよ。ムッシュ」


 ルノの顔が笑顔に歪む。瞬間、左手を勢いよく、ルノの顎目掛けて振るった。

 弧を描き風を切る拳は胸元で容易く受け止められ、力強く引っ張られた。


「走れ」


 呟きつつ左手を離すと戸惑うことなく走り去る足音が聞こえた。


「わあ、麗しい自己犠牲ですね」


 前のめりになったマルクの頭を、冷徹な声が押さえつける。同時に臍の辺りに痛みを感じる。見ると拳銃が突き付けられていた。


「話しましょう、ムッシュ。貴方とも話したいことが沢山あるんです」


 ◇◆◇◆


 乗り場にポツポツと設置されたベンチに腰掛けたマルクは咥えた煙草に火を付けて、口一杯に煙を溜めてから吸い込んだ。よく動いたせいか煙がそのまま脳に染み込んで霧散するような、深い酩酊感にクラクラする。


 汽車が出発して人の姿が消えた乗り場は、外界と遮断された海にポツンと浮かんだ小島のようだ。そんな気はないが助けを呼ぶことはできない。


「貴方に憧れていました」


 横に座るルノが前を向いたまま呟くのを聞きながら、苦い煙を勢いよく吐き出す。


「仕事をしていると、知らぬ間に貴方の轍を踏むことになります。そのせいで年寄り連中は僕がどれだけ上手くやっていても酸っぱい顔して『悪童(ベンゲル)のがずっと凄かった』って……殺してやりたくなる」

「俺のことをか?」


 ルノは一瞬、キョトンとした顔をマルクに向け、すぐに笑みを浮かべた。


「どっちもですよ。それで今、その願望の片割れを清算する機会に恵まれてる」

「……会規だと、引退済みでも殺し屋を襲うのはアウトだ」


 頭の中で埃まみれになった協会規則を引っ張り出して引用する。無意味でも抵抗は抵抗だ。


「ハハ、忘れてましたよ、僕はそれを取り締まる側でした。まあ、それは冗談として大義名分はあります。セザールさんが殺されましたからね」


 ――セザール。その名が懐かしい匂いを運んできて、『死』という言葉が、それを血と腐臭に変える。


「本当か……」

「なんで驚いてるんですか?」


 ルノが拳銃を膝の上に置いた。銀色の拳銃に酷く歪んだ顔が映る。


「貴方が()()()んでしょ? これが現場に落ちてましたよ、爪が甘いですよねえ」

「……俺はやってない」

「誰もそうは思いません」


 急速に不快感が込み上げて咳き込んだ。喉がキュッと閉まって息を吸うのが苦しい。


「マルセル議長が昨日、貴方に三億フロルの懸賞金を掛けました。貴方は既に協会の敵です。今更言い訳しても誰も聞きませんよ」


 汗が、額の上を滑り落ちる。心臓の激しい鼓動で身体が小刻みに震えた。


「大丈夫ですか?」


 額にハンカチを当てられた。花の香りのする柔らかいそれが汗を吸い取っていく。


「噂通り体調が悪いみたいですね。心配になりますよ」


 呑気な口調でルノはマルクの額をポンポンと撫でる。


 ――見えなかった。


 相手がハンカチを取り出して額に触れるまでの間、反応すらできなかった。顎を殴ろうとした時もそうだ。片手で易々止められた。あの時引き金を引かれていたら、今手にしてるのがナイフだったら、もちろん死んでいる。


「死体の状態がどんなだったか分かりますか? ……いえ、覚えてますか? 片足が切断され頭が潰されていました。酷い死に方です。お陰で葬儀もできずで、あの太っちょの奥方には海に落ちて死体が見つかってないと伝えるしかなかった」


 額を撫でる手が止まる。


「貴方らしくない所業です。人の所業ですらないかもしれない。お言葉ですがヘタレた貴方にあんな真似はできない。僕はそう、マルセル議長に伝えました。ですが彼はそれでも貴方が殺したと仰る……納得できない」


 手を下ろし、こちらを感情のない目で見つめる


「僕は自分の仕事に誇りを持っています。だからこそそれを穢すような曖昧な仕事はしたくない。ですが、今回の仕事は全てが曖昧で不確かです。だから、やる気はほんの少ししかない」


 胸ポケットを今度はやけに長く漁り、赤と白の縞模様の包みを取り出すとマルクの膝の上に置いた。


「飴ちゃんです。正直に言うと毒を混ぜてます。うっかり食べたら泡を吹いて死ぬでしょうね……まあ、僕の殺意はその程度ということです」


 言いながらルノは立ち上がる。


「僕は帰ります。仲間を待たせてますからね」


 ハンチングを被り直しながらルノは軽くお辞儀をして、両腕を過剰に振りながら歩き出した。


「おい」


 思わず呼び止めた。わざとらしく振り返るルノの瞳が暗い期待で輝いている。


「マルセルの野郎に『くたばれ』って伝えてくれるか?」


 歯を剥き出しにしてルノが悪辣な笑みを浮かべる。


「戻ってきてしまいましたね、マルクさん」

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