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30. 後ろ向きには堕ちない

 ◆◆◆◆


「――ま、待て!」


 突き出された右手に剣が突き刺さり、柔らかい筋肉や硬い骨を砕いていく感覚が柄を通して腕に響いた。

 剣が男の頭を貫いたのと同時にロランは剣から手を放し、支えを失った身体は情けなく尻餅をついた。


 震える自分の右手を見つめる。荒い呼吸は、息を吸うよりも肺に溜まった不快感を吐き出すことに必死だった。


 視線を戻すと、割れた男の頭から血が垂れるのが見えた。広がっていくそれが自分に追い縋らんとしているように思え、息も整わぬまま立ち上がりドアへ向かう。


 ドアノブを捻り押し開けると、暗い廊下のひんやりとした空気で肺が満ち、途端に思考が冴える。やるべきことを思い出した。

 ロランは関節が真っ白になるまで拳を握り込み、大股で廊下を進み『306』の表札を探す。


 小走りで必死にその部屋を目指した。だが、いざ目の前に立つとドアノブを捻るのを躊躇する。


 苛立ちながら、真鍮のドアノブが温まるほど握っては離すのを繰り返し、崖から飛び降りる覚悟でドアノブを引いた。


 カーテンの閉じた暗い部屋に黒い影が佇んでいた。


「…………フィリップ」


 後ろ手に扉を閉めると当然、視界は真っ暗になった。目を慣らす暇もなく手探りで壁を伝い、立ち尽くす影の肩に手を置く。そうしてようやく、それが友人であるという実感が湧いてきた。


「フィリップ、標的は?」


 小声で耳打ちすると、フィリップが「うーん」と牛のように唸った。その時になって彼の足元でなにかが蠢いていることに気付く。


 ロランは溜息を吐き、足元に注意しながら部屋の反対側まで進み、思い切りカーテンを引いた。


「わあ! 待ってよ!」


 夕陽が差し込み、青褪めたフィリップの顔と、それ以上に青褪めた床に寝転んだ男の顔が露わになる。


 男は口を精一杯開けて空気を取り込もうとしている。そこまでしなくとも、と言いたいが、喉に大穴が空き血が吹き出しているのだから仕方ない。


「……生け捕りって言ったろ?」

「ま、まだ生きてるよ!」


 ロランは再びフィリップの傍に戻り、男を覗き込む。


「マイケル・グリーンフィールド」


 ロランが名を呼ぶと、男の目がギョロリとこちらを向いた。不幸なことにまだ意識は鮮明なようだ。


「き、聞こうとしたんだよ? でも、ほら、急にガッて動いてさ、僕もビックリしてさ、それで……」

「聞こうとした? 尋問は僕の役割だったろ? 君はただ捕まえて縛るだけでよかったんだ」

「尋問くらい僕にもできるよ」

「できてないだろ!」


 思わず声を荒らげた。そのことを咎めるようにフィリップが口元に人差し指を立てたので一層腹が立ったが、馬鹿らしくもなった。


「もういいよ……」


 今度は意図的に身体の力を抜いて、膝を抱えるように床へ座り込む。すると傍らに、申し訳なさそうにフィリップも座った。


「ごめん」

「……なにに対して?」

「そりゃもちろん、君にだよ。僕のせいで君も怒られるだろ?」

「違うよフィリップ。君はわかってない」


 唇を噛み、痙攣するグリーンフィールド氏の脇腹をつま先で突く。


「君と一緒に仕事をするのは今日で最後なんだよ。それなのに……こんな終わり方」

「ご、ごめんよ」

「……やっぱり君はわかってないよ」


 膝の上で組んだ手に鼻先を埋め、溜息を漏らした。


「僕は君なしでやっていく自信がない。僕は君みたいに強くないんだ」


 ロランは右手を再び眺める。その手を、革手袋に覆われたフィリップの左手が掴んだ。


「大丈夫だよ。君は僕よりずっと頭がいいし、それと……あと……ね!」


 見上げると、フィリップが魚のように目を丸く見開いて口をパクパクさせている。急にそんな顔をされたら、笑ってしまう。


 ロランが笑うとフィリップも笑った。声を殺しながらクスクスと、誰も止めないから疲れるまで笑い続けた。


「ねえ、フィリップ」


 目尻の涙を拭いながらロランは呟いた。


「……パーティーやろうよ。君のお別れパーティー。君のことを知ってる人達を集めて、新しい門出を祝うんだ」

「ええ、嫌だよー」

「ダメだよダメ、絶対にやるんだ。僕はそう決めた。だって君はねフィリップ、僕の――」


 ◇◆◇◆


 柔らかく、温かい感覚が全身を包んでいた。息を吸うと、花の心地よい香りがする。


「……大丈夫ですから」


 耳元で鈴のような声が囁く。


「私が付いています」


 声が潤んでゆき、包み込む力も強くなっていった。


「だから大丈夫です、フレッドさん」


 彼女が扉を開けた時、あらゆる最悪を想定した。だがこれはそのどれとも違っていた。


「……汚れちゃうよ?」


 耳元で囁く。それでも彼女は力強くフレッドを抱き締め続けた。

 フレッドは息を深く吸ってから杖を落とし、自分の両手を見た。血で真っ赤に染まったそれは決して人に触れていいものではない。それでも試してみたかった。


 兎を捕まえるかのように両腕をゆっくりと彼女の腰に回し、肩に顎を乗せる。触れるとじんわりと温かい。触れられるよりも、ずっと温かかった。


 ◇◆◇◆


 ケツが冷たい。壁に寄りかかり、地べたに座ったフレッドは内心で思った。


 外は夏だというのにやけに冷たい雨が降っていて、石造りの壁や道は突き刺すように冷たい。気を紛らわそうと足元に視線を落としても、身体に付いた汚れで血溜まりができているから最悪だ。


 右側にアリーヌが同じように座っている。……座っているが、なるべくフレッドは彼女を無視した。

 あの抱擁がなにかを変えてしまった。()()()がなんなのかは分からないが、確実にフレッドの世界は不確かで不鮮明なものになった。


 つまりそれは、甘いものを食べても以前と同じ喜びがあるか分からないということだし、今日屋敷に帰ってベッドに潜ってもすんなり寝られないかもしれないということだ。そして……アリーヌとの関係が永遠に変わってしまったかもしれないということだ。


 自分でも気付かないくらいの一瞬、視線をアリーヌに向けた。それを何度か繰り返すと、瞼の裏に膝を抱えて蹲った人影が焼き付いた。

 話し掛けたいが、話し掛けようとすると喉が痙攣して上手く声が出ない。そもそも自分はどんな喋り方でどんなトーンの声だったか。


「フレッドさん……」


 不意にその時は訪れた。避けようのない運命は日が昇るのと同じように右からやってきた。


「なぁに?」


 顔を向けながらも視線は逸らす。それでも、こちらに視線を投げかける翠玉のような瞳の輝きが眩しい。


「ここから移動しないといけませんね」

「……うん……そうだね」

「フレッドさん?」


 アリーヌが身を乗り出し、顔を覗き込んでくる。雨を掻い潜って、またあの甘い匂いがした。瞬間フレッドは「うわぁぁ!」と悲鳴をあげ、上体を横に逸らした。その弾みで姿勢を崩し地面に倒れそうになるが、間一髪でアリーヌがその手を掴んでしまう。


「だ、大丈夫ですか?」


 アリーヌがフレッドを引き起こしながら戸惑ったように首を傾げた。


「だ、大丈夫じゃないよ!」


 その小鳥のような仕草に、フレッドは限界を迎えた。彼は血の巡った赤い顔に、血の巡らない灰色の脳を引っ提げて捲し立てる。


「な、ど、なんで急に、その……ハ、ハグなんかしたのさ、ぼ、僕は、僕がな、なにをしたのか君も見たろ? な、なら、君は僕を、ぼ、僕を軽蔑すべきだろ?」


 舌は点火不良のように断片的に言葉を出すのが精一杯だった。アリーヌはフレッドの手を握ったまま、その一音一音を噛み締めるように何度も頷いた。そして言葉が途切れるのを待ってから、目元を優しく歪める。


「この街に来て、フレッドに私が最初にお願いしたことはなんでしたか?」


 彼女の声音はいつもと同じだ。慈しみに満ちていて、それでいてどこか強い信念が籠っている。だからこそ、フレッドは自分の答えが信じられなかった。


「……き、君の叔父さんを湖に捨てた」

「ええ」


 アリーヌは力強く、その悪事を肯定するかのように頷いた。


「では、フレッドさん。イザベラさんを助ける為に、なにをしましたか?」

「え?」

「『やっつけた』って私に言いましたよね?」


 フレッドは少しの間逡巡したが、髪や服が血で汚れた彼女を見て、言うべきことを目を見て言った。


「……襲われたからさ、戦ったんだ……戦って大勢……殺したよ」

「ええ」


 アリーヌは再び強く頷いた。


「フレッドさんはずっと、私達の為にやるべきことをやってくれていたんです。だから私はフレッドさんを軽蔑しません。嫌いになんか絶対になりません。でも――」


 そこで言葉が詰まる。「でも」と繰り返す彼女の喉は次第に締まっていき、目元には涙が滲む。


「でも……悲しいことです」


 無理に笑おうとしたのか、目元に歪な皺を作ったせいで、涙がついに溢れた。


「私は……助けられてばかりです」


 アリーヌが握ったフレッドの手に、もう片方の手も重ね両手で包み込む。


「フレッドさん、私は……」


 再び言葉に詰まった彼女は目を伏せ、眉間に皺を作り唇を強く噛んだ。その表情からは悲しみより怒りが感じとれた。


 ……フレッドは彼女の顔に手を伸ばし、涙で濡れた目の周りを手で覆った。


「わっ」


 小さく驚いたアリーヌだったが、手を退けたりはしなかった。

 内心で三つ数えた。それは不要な手順だったが、それでも三つ数えた。

 手を離すと、アリーヌの双眸が驚きで満ちる。


 ――血が消えていた。血塗れだったフレッドも、汚れたアリーヌの身体も()()になっていて、生臭い匂いすらない。アリーヌは呆然として自慢気なフレッドの顔を見つめた。


「僕は魔法使いだからね」


 フレッドはアリーヌの疑問に先回りして笑みを向ける。


「行こうアリーヌ。マルクが……少し狙われてるのかもしれない」


 立ち上がり、フレッドはアリーヌの手を引く。


 ◇◆◇◆


 一時間かけて、二人は屋敷に戻ってきた。厚い雲に覆われた夕空の下、発色豊かな建物に挟まれた煤けた煉瓦の塊は、酷く顔色の悪い死人のように見える。


 赤い扉の前に立ち、フレッドは左手をドアノブに伸ばした。右手は、あの時から一度もアリーヌを離していない。

 

 ドアノブはそれが当然だと言わんばかりに素直に回った。

 フレッドはドアノブを握ったまま、アリーヌを振り返る。彼女はそれだけで察したように頷き、手を離して一歩下がった。


 フレッドはポケットに右手を入れ、静かに室内へ滑り込んだ。


 ――灯りのない屋内に人の気配はなかった。窓から差し込む鈍色の光が溶け込むそこは、色褪せた絵のように沈んで見えた。


 床が軋む音を聞きながら、ソファへと近づく。

 少なくとも屋敷を出る直前までは、そこにイザベラがいた。彼女はソファの片方を占領し、新聞の山と格闘していたのだ。だが今あるのは新聞の山と、テーブルに置かれた空のコーヒーカップだけだった。


 変わっていたのは、もう一方のソファが背もたれごと後ろに倒れていること。そしてテーブルにマーブル模様の小さな包みが置かれていること。誰かが暴れたにしては少しばかり慎ましい。


 フレッドは包みを開き、中の鼈甲色の飴を手に取る。しばし眺め、恐る恐るひと舐めした。


「……甘い」


 とっても甘い飴だった。フレッドはそれを口に放り込み、二階へ向かう。四つ並ぶ個室のうち、イザベラの部屋の扉を開けた。


 狭い室内はフレッドの部屋とほとんど変わらない。一人用のベッド、キャビネット、机――それだけで半分の空間は埋まっている。違いといえば、机の上に小さな本棚があることくらいだ。


「……イザベラ」


 小声で名前を呼んだが、返事はない。床に手をつきベッドの下を覗く。一瞬、羽ペンで突かれる光景が脳裏をよぎったが、それは杞憂だった。


 立ち上がりキャビネットを開ける。そこに掛かっていたのは、フレッドには良し悪しの分からない洒落た服だけで、本人の姿はない。


「漁りか?」


 不意に声がして右を向くと、ドア枠に寄りかかるマルクがいた。


「わ、脅かさないでよ……無事だったんだね」


 向き直りながら、右手をポケットに滑り込ませる。マルクは腕を組み、鋭い視線をこちらに向けたまま微動だにしない。


「なにかあったの? イザベラは?」

「ああ、あったさ、フレッド・ロス」


 その声は不自然なほど冷たかった。胸の奥に暗いものが広がっていく。


「……無事なの?」

「ああ」


 会話はそこで途切れた。あとはいつもと同じ、なるようになるだけだ。

 フレッドは右手にゆっくりと力を込め、そして――


「オエッ」


 えずいた。


「ゴホッ、ウェ、オエエ……」


 耐え切れず膝に手をつき、咳き込みながら吐瀉物を床にぶちまける。

 その中で光る鼈甲色の玉が、滲む視界に映った。


 顔を上げると、マルクが眉を顰めていた。彼はすっかり敵意を抜かれ、動揺して後ずさりしている。

 その事実が、ほんの少しだけ不快感を和らげた。


「あ、あぁ……」


 最後に脳が出した指令は、後ろへ倒れろというものだった。

 ――ゲロ塗れになるのだけは、絶対に嫌だ。

 

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