28. アニマル・スピリット
「見てよこれ」
フレッドが満面の笑みを浮かべながら壁に架けられた絵を指差す。
「僕達の家にセルジューの作品がある。しかも『歯磨き』だよ? 『ボーブルの漁師』や『シャトー』は見たことあったけど、『歯磨き』の本物は……何度見ても凄いなぁ」
唇を噛み締めながら同意を求めるようにイザベラを見たが、ソファーにゆったりと腰掛けた彼女は周りに広げた無数の新聞に視線に落としたまま、反応しない。
「イザベラ、聞いてる?」
「ええ、アンタは他の全てが欠けてる代わりに芸術に少しだけ詳しいのね」
指先で丁寧に新聞を捲りながらイザベラは呟く。あまりに素っ気ないその態度に、フレッドは眉を顰め、彼女の真横、新聞の上に座り込んだ。
「昨日からなんでそんなに新聞ばかり読んでるのさ?」
フレッドは適当な一紙を手に取り眺める。
「しかもこれ、随分と前の日付のやつじゃないか。見てよ! 魔法使いがヒコウキに突っ込んだって! ハハ! 面白い! ……ヒコウキってなに?」
「はぁ……ホントに」
堪らずにイザベラは顔を上げて、フレッドを睨んだ。
「なにか用でもあるの?」
「いや別に」
「でしょうね」
イザベラが声を被せてくる。こう高圧的に接すれば相手が黙ると知っているのだろう。だが今日のフレッドは一段と上機嫌だった。
「でもほら、気になるんだ。新聞をいっぱい読んでるのがさ。もしかして新聞屋さんになりたいの?」
「違う。気になってることがあるのよ。……私としたことが慣れない生活を初めて気が緩んでいたみたい」
「え? どういう意味?」
イザベラが卓上の新聞の山から一部を引き抜いて、その三面を開いた。彼女の細い指がある記事を指す。
「えーと……『ルーユで落雷事故。男性二名が負傷』……これがなにさ?」
「なんでもないわ。そう、なんでもないの。そのなんでもない話が記事になってる」
「で?」
「アンタが私をあの町で助けた日、一体何人死んだの? 何発銃弾が撃たれたの?」
「え」
フレッドが言葉に詰まる。その様子を見てイザベラが「別に責めてる訳じゃない」と、彼女らしくない優しい補足を入れてくる。
「分かんないけど……いっぱい」
「そう、いっぱいよ。でも、あの日から今日まで一度もそのことは新聞に載ってない」
本当に載ってないのか問いたい気もしたが、様々なメディアの新聞の束を小さい手で纏める彼女の姿は何より説得力に満ちていた。
「そういうことも……あるんだね」
「そういうことにしたのかも」
イザベラが溜息混じりに言う。
「あの詐欺師が言ってたこと覚えてる? 不都合な事柄は決して表沙汰にならない。あのルーユの一件も不都合なのかも」
「それは……ちょっと考えすぎじゃない?」
イザベラが顔を上げ、壁に架けられた絵を睨んだ。
「時折考えるわ。自分は今、大きい掌の上にいるんじゃないかって」
◇◆◇◆
アリーヌは薄暗いカフェの中を見渡して、溜息を吐いた。気まぐれで入ったその店は、華美な印象を受けた外観に反して、内部はどこか陽当たりが悪く、客層も男性ばかりでどこか居心地が悪い。
背中を守るように角のテーブル席に座ったアリーヌは、コーヒーが来るのを待ちながら、鞄に入った本を取り出してテーブルに広げた。
赤い本の表紙には金色の文字『ある英雄譚』と題名が書かれている。もう二十年近く前に刊行された、フレンシアで活躍した冒険者の伝説を纏めた本である。アリーヌにとって、この本は小さい頃に読んだ思い出の一冊である。それを偶々、イザベラの付き添いで図書館に赴いた際に見つけた。
ページを捲るのは、昔を思い返すような感覚だった。そう、前書きの次は『竜殺しのヨセフ』で始まり、中世から国民戦争による魔物の絶滅までの間に活躍した冒険者の伝説が左から右に流れていく。
「お待たせしました」
テーブルにコーヒーが置かれても、ページを捲る手を止めなかった。
『リブレスのフレッド・ロス』
分厚い本を行ったり来たりして、ようやくお目当てのページを見つけた。小さい頃に読んだ記憶はなかったが、彼とは確かにここで出会っていた。
「フレッド・ロスは1860年代前半から1870年の終戦までの『終末期』に活躍した冒険者である。主に南部のリブレスを拠点とした冒険者パーティー『自由の風』を率いていた。特筆すべき功績としてはトゥローの森におけるドラゴン討伐、ラトゥール・ダンジョンの攻略が挙げられる。一方で――」
その時、視界の端に人影が映りアリーヌは顔を上げた。
「こんにちは、また会ったわね」
対面に立つルイーズが愛想の欠けた挨拶をする。
「わ! ルイーズさん、どうしたんですか?」
「どうしたって訳じゃない。ただ、外から貴女の姿が見えたから、挨拶しようと思って」
「は、はあ」
アリーヌはチラリとガラス張りの壁面を見たが、奥まったこの席は外から見えそうにない。
「座ってもいい?」
「ええ、どうぞ」とアリーヌが言い切る前にルイーズは対面に腰掛けた。彼女は軍帽を脱ぐと、サラサラとした栗色の長髪を手で払う。
「パトロールの途中ですか?」
「え? ええ、そんなところ。サボりたかったけど、イマイチ決心がつかなかったから助かったわ」
「ふふ、助けになれて光栄です」
二人は少しの時間見つめ合って目を逸らした。目的がない上に大して親しくない者同士が向き合えばこうなる。これは自然の法則だ。ただ、当然その前提は変えられる。
「ルイーズさん、コーヒー飲みませんか? 今届いたばかりで口をも付けてないです」
ルイーズが小さく頷き、ソーサーを引き寄せた。彼女はカップをエスコートするかのような優雅な動作でコーヒーを一口啜る。
「安物ね」
溜息混じりのその声は、蓄積した疲れが色濃く滲んでいた。
「お疲れなんですか?」
「え? いや、疲れてはいないわ。ただ、これから忙しくなりそうで」
「考えるだけでってやつですか?」
アリーヌか微笑み掛けると、ルイーズも微かに口角を上げる。
「いつも大変なお仕事ありがとうございます」
「ありがとう」
目を伏せながら、ルイーズは更に口角を上げた。さっきより微笑みらしくはなったが、嘘っぽくもなった。
「……なんの本を読んでるの?」
ルイーズの視線が本に向く。アリーヌは頷きながら、背表紙を彼女に見せた。
「『ある英雄譚』です。小さい頃読んでて、偶々図書館で見つけたんですよ。ルイーズさんは読んだことありますか?」
「もちろん、大好きだった。私のはいつも持ち歩いているせいで表紙がボロボロだった」
伏せ目がちに微笑んだ彼女は、初めて自分と同じ歳の、小さな女の子に見えた。だがそれも一瞬のことで、視線を上げた彼女は元の厳格な軍人であり、幼さは再び隠された。
「フレッド・ロス」
憎々しげにルイーズが呟く。
「読んでたのは、どうせそのページでしょ?」
「まぁ……そうです」
アリーヌは気まずそうにページを彼女に向けた。
「……一方で、殺人、略奪、その他多くの非倫理的行為を行なっていたことでも知られている。特筆すべき事件として、1870年のトゥロー近郊での敵対パーティーの虐殺がある。事件は同氏が率いる自由の風が対立するパーティーの野営地を襲撃したことで発生した。襲撃を受けたパーティーは二名を残し――」
パタン。と音を立てて本が閉じる。アリーヌはそのまま本をテーブルに置きルイーズを睨んだ。
「私は、私は貴女と、私達のフレッドさんの間に何があったのかは知りません。知ろうとも思いません。だから、当て付けはやめてください」
「そう感じたのなら謝るわ。ごめんなさい。でもねアリーヌ、その私達のフレッドとやらは、こんなもんじゃないわ」
「……フレッドさんは悪い人じゃないです」
ルイーズは溜息を吐き、コーヒーを啜った。
「確かに、見ようによっては親切な奴かも。会って数時間の女性のために、死体を湖に投げ捨てるくらいだから」
アリーヌは思わずルイーズから目を逸らした。同時に胸の辺りを、無数の虫が這うような不快感が襲った。
「私が、今日この場に来たのは貴女を守るためよ。あのケダモノからね」
ルイーズが指を鳴らす。すると、店内でコーヒーを飲んでいた客達が一斉に立ち上がり、店から出て行く。
「真実を教えてあげる。あの男が誰で、一体どんな奴なのかね」
◇◆◇◆
「――つまりだ。我が社はこの二年で街を開発し尽くした。マルティア市内はさながら満杯のフルーツバスケットのようなものだ。だがフルーツはいずれ腐る。そこで次は十年でこの街を色とりどりの宝石で一杯の宝箱に変える」
チャーノフが高らかに宣言すると、対面に立つ支部長達が次々と拍手をし、歓声をあげた。
「これから君達が売り込むのは集合住宅やアパートなどの高層建物だ。横に土地がないのなら人を縦に詰め込めばいい文字通り逆転の発想だ。そして計画の目玉がぁ〜」
チャーノフは傍の設計図を手に取り、絨毯のように広げる。
「『コルディエ・タワー』高さ五百メートルで百十階建て、世界最大の建造物になる。この建物にコルディエ財閥系の六十社が入る予定だ。そうとも! 我々は聖マルティアンヌに、巨大なイチモツをぶち込んでやるんだ! ハハ! 興奮してきたろ!」
チャーノフが立ち上がると歓声は狂乱に変わった。
「よしやるぞ! 完成したら我々のオフィスは九十九階だ! 窓からションベンしてやる!」
「支配人! 支配人!」と、支部長達が右手を振り上げた。チャーノフもそれに答えデスクに飛び乗ると、ズボンを下げようと――
ふと、扉の方に目を向けると、ガラス越しに見覚えのある顔があった。色白で陰険な目付きをしたチビが薄ら笑いを浮かべこちらを覗き込んでいる。ナニはすっかり萎えた。
◇◆◇◆
「あー、本日はお日柄もよろしくって感じたぜ。なぁ、チャーノフ」
マルクはデスクに足を乗せ椅子に寝そべるようにしていた。
「こ、ここには来るなと言った筈でしょう……」
「ああ、言われた。だが今日来たのはお前の厄介な友人じゃねえ。ビジネスマンのマルクだ」
そう言いながらマルクは上着のラペルを掴んだ。確かに今日の彼はいつも違う。灰色のベストに合わせた灰色のチェックのジャケットを羽織り、頭の上にはカンカン帽が乗っている。
「ビジネスマン?」
「ああ、いい商談がある。絵に興味はないか? お前みたいなクソ金持ちが欲しがるような絵だ」
「絵ですか? まあ、多少は芸術に対する興味はありますが……」
「なら、決まりだ!」
マルクは足を下ろし、興奮気味に顔を近付けた。
「俺の家に『歯磨き』がある。あの歯磨きだぜ?」
「『歯磨き』というと……セルジューの? 確か紛失した筈では?」
「それがあるんだよ。本物だぜ? 口の固い鑑定士に調べてもらった。なんなら実物を見せてやる。値段は三千万フロルだ。全額を現金で頼む」
「ちょ、ちょっと待ってください! 色々と話が急過ぎます」
チャーノフは手を突き出して制止した。マルクはビジネスというが、これは純然たる押し売りだ。
「なあ、支配人さんよ。お前はこの金持ちまみれの街を造ってるんだろ? つまり金持ちの中の金持ちってことだ。それなら三千万フロルくらいポンと払えよ」
「誤解ですよ。私なんかただの雇われです。庭園を整備するのは庭師ですが、彼らは金持ちじゃない。そうでしょう?」
「で、でも、三千万くらいは出せるだろ?」
チャーノフは溜息を吐く。
「私の年俸は三億フロルです。その内半分は税金で消えます。更にそこから半分は別れた妻子の養育費として振り込み、家賃は年間二千四百万フロル。保険にも加入しています、これは一千万フロル。地位に見合った生活費二千万フロル。国債や株式の購入にも二千万フロル払っています。で、銀行に残るのは? そう百万フロル!」
「……もっと節約しろよ」
「無論、蓄えもありますよ。ああ、そうだ! 来年には愛する娘がマルケニア連邦の大学に進学するんだった。彼女の学費が四年分で六千万フロルで家賃は二千万フロル。生活費は一千万フロル。え? 元妻も付いて行くって? なら足の悪い彼女のために暮らしやすい別荘を買ってやらないと。金額は――」
次はマルクが手を突き出した。
「わかった。よくわかったよ。つまりお前は金を出せないって訳だな?」
「ええ、残念ながら」
「じゃあ……つまり、その……俺は三千万フロルが手に入らないってことだな」
「ええ……残念ながら」
「お前の知り合いで興味を持ちそうな奴は?」
「買いそうな奴は信頼できない奴ばかりですし、信頼できる奴に買いそうな奴は……いませんね」
チャーノフが呟いた瞬間、マルクは頭を抱えて蹲った。
「首が回らねえ……」
「ム、ムッシュ? 大丈夫ですか?」
「どうすりゃいんだよ……クソ」
「い、いくら借金があるんですか? 前に紹介した銀行は?」
マルクが顔を上げ、チャーノフは悲鳴を上げそうになる。彼の顔はいつも以上に青白く、目は充血していた。爆弾なら爆発寸前、花なら枯れかけ、虫なら仰向けといった風だ。危うい。刺されそうでも刺しそうでもある。
「来月までに八百万、再来月までに一千万だ」
「ムッシュ……何故、そんな無茶を……」
マルクは答えずに、ただジッと死んだ目をチャーノフに向けていた。彼自身答えなど持っていないのである。答えがないから今ここにいる。
「わ、私も八百万フロルなら貸せますよ? 後の一千万もおいおい――」
「三ヶ月後に二千万、四ヶ月後に五百万、半年後に一千万」
「おお、神よ……」
チャーノフは十字を切り、無駄だと知りながらも目の前の友人の無事を祈った。
「……家と土地を売るのはどうでしょう? きっとお釣りが来ますよ」
「で、汗を流して働いて老後に田舎で小さな商店を再会させるのか?」
「店を持つことに固執しなければいいんですよ。どうでしょう? ここで働きませんか? 聞いていたかもしれませんが新しい開発計画が始まります。一緒に貧乏人共から家を奪いましょう!」
「断る。もう人の指図は受けたくない」
マルクは首を横に振り続けていた。思ったより回るじゃないかとチャーノフは内心舌打ちしたが、この偏屈な友人を見捨てきれずにいた。そもそもこの無能な経営者が借金漬けになれたのも、チャーノフの紹介があったからに他ならない。責任の一端がチャーノフにもあるのだ。
チャーノフは腕を組み、頭を捻った。そして脳内に案という案を浮かべ、その中から無作為な一つを適当に口に出した。
「強盗しては?」
「あ?」
マルクが目と口を丸くして、声を出す。その顔を見てチャーノフは思わず吹き出した。
「ハハハ、失礼。冗談ですよ。なにか他に案を――」
「それだ」
「はい?」
「その手があったぜ」
「ム、ムッシュ?」
「この街の銀行やらカジノは全部保険に入ってんだよな? そっから盗んでも誰も嫌な思いはしない。俺も借金を返せてハッピーだ」
マルクが立ち上がる。その目には正気が戻っている。
「候補を絞っとけよチャーノフ。また来るぜ」
言い残し、マルクは風のように執務室を後にした。チャーノフが自分がしでかしたことの重大さに気付いたのは、それから二分程後だった。
◇◆◇◆
「本当に要らないの? サンドイッチだよ? 要らないの?」
ドアを開きながらフレッドは振り返る。対してイザベラは新聞に視線を落としたまま手を払う仕草だけを返した。
「そうかい。じゃあ、君の分は買わないよ。僕のハムサンドを見てから後悔しても遅いからね」
捨て台詞を吐きながらドアを閉めた。昼下がりの通りは人通りが多く、スーツを着た紳士やドレスを身に纏う淑女が入り乱れている。フレッドはその人混みの中を歩いた。
言い訳ではないが、頭の中はハムサンドのことで一杯だった。だから、そのまま暫く歩いて、細い路地に入るまで違和感に気付けなかった。そして気付いた時には遅かった。




