20. バカ
馬車の扉を蹴り空け、勢いよく地面に降り立ったフレッドだったが、途端に鼻腔を生ゴミと汚物の刺激臭に刺され、その気勢は殺がれた。
土が剥き出しの地面は数日は雨も降っていないのに湿っており、足を上げると泥の足跡が出来上がっていた。
鼻を抑えながら視線を上げる。すると、古い民家の軒先に腰を下ろした老人の、黄色い虚な瞳と視線が合った。
「こんにちは……」
社会通念に基づき挨拶をしたフレッドだったが、ボロ布を纏った老人は反応せずにクチャクチャと口を動かしている。怪訝に思いながら横にズレれてみると、老人の視線も追ってきた。……認識はされているようだ。
ラミニ改めリースの住所を記した紙は、貧民街の一角を示していた。フレッドが貧民街を訪れたのは今回で二度目だ。一度目は忘れもしない。死体を抱え、泥棒と追いかけっこをした。詐欺師を追っている今回は死体こそ抱えてはいないが、場合によっては抱える覚悟である。
フレッドは泥と老人を振り払うように顔を上げ、通りの一角の立て看板を見た。看板には「オーソル通り二番地 ケツアナ」と書かれている。無論末尾は落書きである。リースの住むアパートはこの通りの六番地に存在している。
歩き出したフレッドは周囲をキョロキョロと見渡した。以前とは打って変わり明るい中で見る貧民街の様子は、市の外縁に近い地区と比べ随分と酷い有様である。通りの両脇に聳える建物は全て木造や石造の古い物で、通りに見える人々は幽霊のように正気がない。
――フレッドやアリーヌが単に貧民街と呼ぶ、この港に面した小さなエリアは正式に『ブルージェ地区』と呼ばれている。ブルージェはマルティアで最も歴史の深い地区であり、かつてマルティアの中心産業が漁業であった時代には、多数の漁師が居住し商業の中心地として栄えていたのである。
しかし、工業化の津波は地区の漁師達を根こそぎ攫ってしまった。漁師達の大半は実入りのよい工場などに就職し、頼みの綱の漁業も近隣地区に大規模な商用漁業の拠点が整備されたことで廃れたのだ。
結果ブルージェに現在住まう人々は偏屈な古くからの住人と脛が傷まみれの人々である。彼らは皆様々な出自を持ってはいるが、金がないという一点は共通しているのだ。
暫く歩いてフレッドは二階建ての建物の前で足を止めた。ところどころ塗装の剥がれた、ピンク色のアパートである。
フレッドは、くの字型のその建物に近付き、軒先の錆びた鉄プレートに目を遣った。プレートには『メゾン・ウルス』と印字されている。
その文字をまじまじと睨み付けフレッドはポケットに右手を突っ込んだ。それから大股で建物の一階の外廊下を歩く。
廊下に撒かれたゲボや、寝そべった薬物中毒者を乗り越えて『一○三』と書かれた扉の前に立つ。
扉を叩こうと腕を振り上げたが、相手に礼儀正しさを示す必要がないことに気付き、直接ドアノブに手を伸ばす。回ることを拒否するなら扉を蹴破る用意があったが、こいつは素直だった。
左手で静かに扉を引き、杖を握った右手から室内に身体を差し入れる。
屋内に入った途端煙草と香水が混じった濃い匂いがして思わず咳き込みそうになる。鼻を塞ぎ、目を開けると、光の入らない薄暗い廊下が眼前にあった。廊下は人が一人通るのがやっとの狭いものであり、その奥にある部屋は暗さも相まって僅かにしか伺えない。
「なんだよもお……」
独り言を漏らしながら、甘ったるい臭気と狭さのせいで息の詰まりそうな廊下を抜け、部屋の中に入る。
ベッドやテーブルなどの一通りの古い家具が置かれた室内はフレッドの想像と異なり、ずっと簡素だった。かといって生活感がないわけでなく、ベッドのシーツは乱れ、テーブル上の灰皿には灰の山が積もっている。
見たところ他に部屋の出入り口はないし、スライスした生ハムのように薄いカーテンの裏や、地竜の腹の下より狭いベッドの隙間には人が隠れらそうにはない。どうやら詐欺師は留守のようだ。
「これはこれは」
自然と頬が緩む。特に何をしようと思い付いた訳ではないが、とにかくあの詐欺師相手に優位に立てたのである。利用しない手はない。
フレッドは手始めとばかりに、近くのキャビネットに突撃した。そして下から順に無造作に引き出しを引っ張り出した。目的は一つ、金目の物だ。
引き出しの中にぎっしりと詰まっている衣服や紙の束を掴んでは投げ捨て、空になれば次の引き出しを開ける。見つけたいのはキラキラしている物だ。物の仔細を一切知らぬフレッドだが、キラキラがキラキラじゃない物より価値があるということは理解しているのである。
収穫があまりないまま、フレッドは背伸びをして最上段に手を伸ばした。
「動くな」
射竦めるような男の声が背後から聞こえたのは、よりにもよって最も無防備なその時だった。声に反応して身体を反転させようとした刹那、後頭部に何か棒状の物を突き付けられる。感覚的にそれが拳銃の銃口であることは理解できた。
「あ、怪しい者じゃないよ」
咄嗟にそう絞り出したフレッドだったが客観的に今の自分を見つめ直し、その不審者っぷりに青褪めた。
「何でお前が居るんだよ……」
背後から呆れ混じりの声が聞こえた。……聞き覚えのある声だ。
「え、えっと、マルク……マルクだよね」
フレッドが名を呼ぶと、背後から肯定の舌打ちが聞こえた。彼に間違いないようだ。
「なんだ君か……」
安堵の溜息を吐きながら、肩の力を少し抜いた。
「こんなとこで会うなんて奇遇だね、もしかして空き巣?」
「こんな場末で空き巣なんかしねえよ間抜け」
「……じゃあ、何してるのさ?」
「人を探してんだよ」
「人? 人って……この部屋の?」
「ああ」
「そうなんだ、僕と同じだね……ところでさ」
「なんだよ」
「銃下ろしてくれない?」
後頭部には依然として銃口の感触がある。それは親しい隣人同士の会話には不要な物である。そのせいで腕も下ろせない。
「こっちを向け」
マルクはフレッドの要求には答えずに逆に要求した。渋々フレッドが振り返ると、相変わらず臍を曲げた子供のように渋い顔をしたマルクがそこに居た。
彼はご丁寧に銃口をフレッドの額に突き付け直すと、口の端を硬く結んだまま、低い声を出した。
「なんでこの場所に居るんだ?」
「え? だから人探しだって。この部屋の家主に用があるんだよ。君と同じさ」
「偶然だって言いてえのか?」
「ふぇ?」
同じ人物を偶々探していることについて言っているのなら「そうだ!」としか返しようがない。しかし目尻をシワシワにしてまで細めに細められているマルクの瞳は、自身とフレッドとの背後の、ありもしない見えざる手を睨み据えていた。
「ぐ、偶然だよ」
「偶然か。偶然同じタイミングで詐欺師のクソアマを捕まえに来たわけか。誰に雇われた?」
「誰にも雇われてないよ……その、僕は……僕が……あの、えっと、まあ、その」
「騙されました」何て口が裂けても言えない。プライドが許さない。その結果、マルクの表情が更に険しくなり、彼が激鉄を引き起こしたとしても。
「何か匂うな……お前は――」
「あああああ!!」
フレッドは不意に大声を上げ、部屋の出入り口の方を指差した。その突拍子のない行動は、瞬間的にマルクは目と口を開かせたが、それは本当に瞬間的なことで、フレッドが視線を前に戻す頃には、マルクの顔は元の険しく引き締まったものに戻っていた。
「マ、マルク見てよ!」
懇願するフレッドを見る、マルクの目には憐れみが浮かんでいる。
「お前、本当にアホだな……」
「え?」
「そんな子供騙しが俺に通用すると思ったのか?」
「そ、そうじゃないってば! 居るんだよ! 詐欺師が! そこに!」
「あ?」
再三、フレッドが指を差すとマルクはうんざりして顔を背けるかのように、緩慢に廊下を振り返った。そしてピタリと静止した。
「おや、ようやく私に照明が向いたようだ」
二人の視線を集め、リースがどこか満足気に呟いた。彼女は屋敷を訪ねてきた時とは異なり、紺色のジャケットとズボンに、赤のベストにネクタイという派手な色味の珍しい鳥のようなとした格好をしていた。初めからこの格好で来てくれてたら騙されなかったとフレッドは唇を噛んだ。
「……いつからそこに居た?」
「『動くな』からさ、私に言ったのだと思って驚いたよ」
リースは上着と同色の、筒の短いシルクハットの唾に指を掛けながら微笑んだ。どうやらこの状況でまだ余裕があるらしい。
「なんで逃げなかったんだ? あ? チャンスだったのによ」
マルクは銃口をリースに向け、慎重な足取りで彼女に近付いた。フレッドも同様に摺り足でにじり寄る。
「客人かと思ったんだよ」
「へへ、そりゃあお前、見込み違いもいいとこだぜ」
「そんなこと言わないでお茶でもどうかな? いいのがある」
「後で勝手に頂くぜ!」
マルクが地面を蹴った、それを合図にフレッドも駆け出し、飛び掛かる。両手を広げ宙を舞ったフレッドは、ものの見事に相手に直撃し、うつ伏せに押し倒した。
「捕まえたぞ!」
マルクに馬乗りになり、フレッドが叫んだ。
「あ? え? 何すんだよお前!」
「うるさい! よくも僕に銃を向けたな!」
「バ、バカ! 退きやがれ! 女が逃げちまうだろ!」
既に女は踵を返して駆け出している。このままでは確かに逃げられる。が、フレッドにとって大事なのは目の上のタンコブより、目下の宿敵だ。
「ど、退け! 一旦でいいから退け!」
「嫌だね! 謝るまで退くもんか!」
「このッ! 殺すぞバカ野郎!」
◇◆◇◆
扉を足で蹴破り、マルクは外に飛び出した。あのバカをを振り払うのに相当苦労したが、まだ女もそれ程遠くには逃げていないはずだ。現に母親譲りの鋭い嗅覚は女の、熟れた桃のような香水の香りを捉えている。
臭気の轍に沿い、大通りを駆ける。
「待て!」
背後から絶叫に近い呼び声が聞こえ、舌から火が出そうな程に強い舌打ちが漏れた。
振り返るとこちらを追走するフレッドの姿がある。両手を振って疾走する彼はアホ面を顰め、頬にはマルクの拳の跡がくっきりと付いている。
常人なら鬼気迫るといった風だが、奴の場合どうにも滑稽さが勝って緊張感が沸かない。
マルクはフレッド一瞥だけして、視線を前に戻して足を早める。重要なのは女を捕まえることだ。
背後の「待て〜!」という間の抜けた声がどんどん遠ざかり、それに反比例するように香水の匂いは強くなった。
匂いは通りの左に面した、細い路地に通じていた。マルクは足を両足でブレーキを踏みつつ、滑るように身体を左に向けた。
その時、視界の左端に眩い光線が見えた。それが何かを理解する間もなく、マルクは身を屈めていた。
直後、頭上を熱を帯びた青白い光が掠めた。視線だけを左に向けると、フレッドが煙の吹き出す短杖を、こちらに向ける姿が映った。途端に、マルクの中で損得を計っていた天秤が吹き飛ぶ。
マルクが身体をフレッドに向け突進した。四十メートル程の距離が一秒も経たずに縮まり、驚いたフレッドは急いで足を止め、両手を突き出していた。
「こ、降参!」
マルクは飛び上がり、突き出された掌の間の的目掛けて蹴りを放った。蹴りは綺麗にフレッドの顔面を捉え、彼を吹き飛ばした。
フレッドはオモチャのように地面を数回バウンドしてから、泥の中にうつ伏せに沈んだ。
「二度と俺の邪魔をするなよ!」
倒れたフレッドに向かって怒鳴り、地面に唾を吐く。胸がすく感覚はない。むしろゴキブリを踏み潰した後のような不快感すらあった。すぐにその場を離れようと背を向けたが、その時、
「痛い……助けて」
という、か細い声が耳に届いて足を止めた。この時ばかりは他人よりも幾分か質のよい耳を恨みたい気分だった。
「助けてだと? 都合のいいクソ野郎が。自力でなんとかしやがれ」
「か、身体が動かないんだ。首から下の感覚もない……骨が折れたかも」
その苦痛に満ちた声に、マルクは毛程ではあるが罪悪感を抱いた。その間にもフレッドは死んだようにピクリとも動かない。
「せ……せめて、仰向けにして、それだけでいいから……」
少しの間逡巡したマルクは、舌打ちをしてからフレッドに歩み寄った。
「……ったくよ」
それから泥に埋もれたフレッドの右手を掴んで引っ張り上げ――
「あぱ」
手に触れた瞬間、全身の表面に無数のトゲが刺さったような感覚に襲われ膝から崩れ落ちる。直後、身体中がマルクの意思に反して震えた。身体の各部位銘々が混乱して暴れる中、配下の指揮権を失い孤立した脳だけが「騙された!」と誰にも届かない怨嗟を漏らしている。




