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19. ア、ア、アンベ、アンベスティ?

「お金は頂けません」


 当人にとっては何気ないその発言が、フレッドの内心に著しい緊張をもたらした。


「ほ、本当ですか?」


 対面の純朴そうな青年が、喜色を全身に滲ませながら問い返した。そんな反応をされては今更「嘘です」とは言えそうにない。


「はい、そのお金は病気のお母様の為に使って下さい」

「あ、ありがとうございます!」


 感激した青年は立ち上がると手を伸ばし、アリーヌがそれを自信満々に握り返した。


 フレッドは揺れる手を、この数日猫探しに奮闘した日々を思い出しながら眺めていた。


 やがて握手を終えた青年が清々しい様子で事務所を去って行った。そして後には、より清々しい面をしたアリーヌだけが真横に残った。


「フレッドさん……素晴らしいことをしましたね」


 横に腰下ろしたアリーヌが感慨深げに呟く。その声は心底安堵し切っており、まるで何も問題がないかのようだ。


「アリーヌ……あのさ、お金……」

「はい? お金がどうかしましたか?」

「お金貰わないの?」

「お金ぇ!?」


 フレッドが言うと、アリーヌは目を見開き上体を逸らした。それはいかにも聖職者的な、金銭に対するアレルギー反応に他ならない。


「フレッドさん……本気で言っているんですか? あんなに困っている人からお金を貰えと?」

「で、でもアリーヌ、この二週間君はそんなことばっかり言って、まだ二万フロルしか稼げてないよ」


 湖に死体を投げ捨てることから始まり、劇場で殺し屋を殺すことで終わった激動の二週間は、フレッド達冒険者が抱える普遍的な問題を覆い隠していた。


 それは……冒険者が金を稼げないということだ。来る依頼は雑草刈りやら、猫探しやら、お使いやら、到底金になるものではない。それに輪を掛けて、アリーヌのな奉仕精神が加わり、『〈自由(エペ・ドゥ)の剣(・ラ・リベルテ)〉』の財政は、さながら革命前夜のフレンシア王国のようである。


「フレッドさん、この仕事は苗を植えるようなものです。実りを得るには長い時間と『信頼』という栄養が必要になります。今は貧しくとも我慢しましょう」


 そう言いながら微笑んだアリーヌの頬は、日にジャガイモ二つしか食していないせいで痩けていた。どうやら黒馬の爪音は間近まで迫っているようだ。


「ねえ、お昼ご飯は?」


 その時、無神経な少女の声が頭上から降ってきて、二人は顔を上げた。そこに居たのは当然、イザベラだ。彼女は優雅に階段を下り切ると、鋭い目で二人を交互に眺め、舌打ちした。


「また、お金を貰わなかったのね」


 イザベラは受け入れて三日経った頃には、しおらしさは抜け、このように傲慢で不遜な本性を惜しげもなく曝け出すようになった。

 彼女はいつも昼頃にノソノソと起床しては飯を食らい、後はソファーに寝そべる以外の一切を行わなず仕事も手伝わない。当然、この高貴な飯泥棒の存在も財政圧迫の一助となっている。


「イザベラさん、この仕事は苗を植えるようなものです。実りを得るには長い時間と――」

「くだらない御託はいいから、食事代くらい稼いで。この数日、揚げた芋と蒸かした芋と潰した芋しか食べてないの」


 言いながらイザベラは対面のソファーに身を投げ出した。二週間前に出会った時は小汚い姿をしていたイザベラだったが、今は純白のフリル付きシャツに、赤い大きなリボンタイとチェックのスカート姿で、挙句小粋な赤のベレー帽まで被っている。

 その格好自体は似合っていて大変可愛らしいが、値段は可愛くなかった。


「……じゃあ、お望み通りにお昼ご飯、買いに行ってきますね」


 口上をイザベラに遮られたアリーヌが不貞腐れたように立ち上がった。


「あら、私も行くわ」


 寝そべったばかりのイザベラが跳ね橋のように上体だけを持ち上げた。


「え、珍しいですね?」

「また芋を買われちゃ困るから」

「……フレッドさんはどうしますか?」


 イザベラを睨んでから、アリーヌはフレッドに笑みを向けた。


「いや、僕は待ってるよ」

「そうですか……」


 アリーヌは少しだけ残念そうに呟いてから立ち上がった。イザベラも続く。二人の足音はゆっくりと扉を目指し、やがて消えた。

 

 一人の時間を得たフレッドは腕を組み、天井を見上げた。目を瞑り、現れた暗闇が問い掛けてくるのはただの一つ。


「どうするべきか」である。


 この二週間、フレッドもイザベラ同様にパーティーの役に立てずにいた。しかも彼の場合は無気力が原因ではない。フレッドは精力的にアリーヌを支えようと努力したのである。しかしだ、雑草刈りでは庭に塩を撒いて怒られ、迷子探しでは見つけた五歳児と口論になり泣かせ、お使いは店に辿り着くことすらままならなかった。


 フレッドの冒険者としての素養は客観的に見ても突出していると言える。しかしそれは『暴力装置』としての一点においてであり、平和な現在では彼の評価は『無能』の一言に落ち着く。

 

 だが、人並みの向上心と人一倍の自尊心を持つフレッドは、そんな評価に甘んじる気など更々ない。何か……こう……二人にアッと言わせたい。というか自分を崇敬して欲しい。


 ――そんな思案に耽るフレッドの耳に、扉を軽やかに四度ノックする音が届いた。フレッドが扉を振り返ると、再び忙しないノックが鳴る。


「はい、はーい!」


 ノックに返事をしながら、軽やかに起き上がって扉に駆け寄る。

 顔には笑顔を張り付けていたが、内心は動揺していた。扉の向こうに居るのが客人であるなら、自分一人で応接する必要があるからだ。フレッドにそんな経験はないし、できそうにもない。


 ドギマギしながら扉を開くと


「こんにちは! 今日はいい天気ですね!」


 と、快活な挨拶が飛んできた。


 扉の向こうでは、凛々しい佇まいの女性が頬を釣り上げて微笑していた。女性は筒の短いシルクハットに黒のスーツと、男性の様な格好をしており、左手には黒い鞄を持っている。

 

「初めまして、マルティア市財務局から来ました。ラミニ・スコールという者です」


 言いながら、左手が差し出される。ラミニと名乗ったその女性は、青っぽいショートヘアで左眼を隠している。そして唯一向けられた右眼は怪しく紫色に輝いていた。

 フレッドは、女性の持つ不思議な雰囲気に気圧され、恐る恐る左手を掴んだ。途端に獲物の首元を噛んだ闘犬のように彼女の右手が激しく揺れる。


「いやあ今日は良い天気ですね。こういう日は大抵良いことが起こる。実を言うと私は、そういう類の話を持ってきたのですよ」

「え、えっと……」

「お邪魔しますね、ムッシュ」


 ラミニは、耳障りのよい朗々とした声を響かせながら、体を強引に室内押し込んだ。


「ほう、広いお屋敷ですね。今日日こんな街中に家を持っているなんて羨ましい。実は私の祖父もボンザール通りに小さい土地を持っていたのですが、昔に二束三文で売ってしまいましてね。今売れば田舎に豪邸が建っていたのに」

「あ、あの。ちょっと……」

「ここ数年のマルティアの土地価格推移はご存知でしょう? まるで黄金の手がくまなく地面を撫でたかのようです」


 ラミニは工業用ミシンのように、早く、そして耳を塞ぎたくなる程に喧しい。

 

「ああ、失礼。喋り過ぎるのは悪い癖でして。ささ、どうぞ席に座って下さい」


 ふと我に返ったラミニが執務机を指差した。フレッドは客人に案内されるがまま、椅子に腰掛けると、了解もなしにラミニが対面の座席に腰掛けた。

 フレッドは流されるままで、場の主導権を客人に握られていることに微塵も気付いていない。


「さて、それでは本題に入りましょう」


 ラミニは椅子に座るなり、はたと笑みを消して、真剣な表情になる。その代わり身の早さにフレッドは緊張して、背筋が自然と伸びた。


「本日は投資の提案を持って参りました」


 ラミニはそう言うと、鞄を膝に乗せ、一枚の紙を取り出し、机に置いた。フレッドが恐る恐る、それを手に取る。


「魚の…………養殖?」

「はい、今度マルティア市が新しく始める事業でして、今はその出資者を募っております」

「……ぼ、僕に何の関係があるの?」

「それは当然、貴方様に投資の出資者になっていただきたいのです」


 「投資、投資」と、フレッドはその言い慣れない単語を何度か口に出して、その硬質でヌラヌラした語感に身震いした。


「投資って……何をすればいいのさ?」

「何もする必要はありません。貴方様は我々マルティア市にお金を預けてさえ下されば、毎月配当金を受け取ることができます。……つまりお金が勝手に増える」

「お、お金が勝手に増える……」


 これでようやく、何故資産家はお金持ちなのに皆太っているのかという長年の疑問が解消された。


「す、すごいや魔法みたいだ」

「その通りです! まさに魔法です。資本家が皆肥えているのは代わりに金が働いているからなんですよ」

 

 ラミニが指を足に見立て、机の上を走る仕草をしてみせる。その指をフレッドが舌舐めずりしながら目で追う。


「じ、実際どのくらい儲かるの?」

「毎月投資した金額の四十パーセントをお支払いします」

「よ、四十! なら、一万フロル渡したら、月に……えっと、えーと、うーん、あれ? 一、二、三……」

「四千フロルです。年間では四万八千フロルの儲けです」

「そりゃ凄い!」


 それはフレッドにとっての青天の霹靂、価値観が一変した瞬間だった。それだけのお金が勝手に手に入るなら、金銭絡みの悩み(つまりは大半の悩み)に煩わされる必要がなくなるのだ。ということは……遊び放題寝放題、タルトタタンも食い放題である。正に魔術的発明、奇跡、エウレカ!


「それで、どうしますか。ムッシュ……あー」

「フレッド、フレッド・ロスだよ」

「ああ、失礼。ムッシュ・ロス、貴方も一つ投資してみませんか?」

「もちろん!」


 考えるまでもなく、即答である。


「おお! 素晴らしいご決断です。まあ、一眼お見かけした時から、貴方が理知的で目敏い方だと私めは見抜いていました」

「えへへ、そうなんだよ、僕は理知的で目敏いんだよ」


 フレッドはアホ面に下品な笑みを浮かべ、自信満々に胸を逸らした。その様はシニカルな風刺画から切り出したかのように滑稽である。


「では、元本の方はどのくらいに」

「ガンポン?」

「投資する金額です。最低百万フロルからになります」

「ひゃ、百万フロル? ……そ、そんなに必要なの? 今手元に五百フロルしかないんだけど……」


「おや」とラミニの顔が曇るのを見て、たちまち冷や汗が溢れ出した。


「申し訳ございませんが、元手がないのでしたら投資は不可能です……」

「そ、そんな! 酷いよ!」


 フレッドは思わず机に手を突いて立ち上がり、叫んだ。目の前のご馳走様を取り上げられて落ち着いてられる程の忍耐は当然彼にはないのだ。


「そう言われましても無理な物は無理ですね」

「ええ、そんなぁ……何とかならないの?」

「うーん……無礼な質問で恐縮ですが、へそくりは貯めておりませんか?」

「へそくり?」


 パーティーの資金は全てアリーヌが管理している。もしかしたら彼女が突然の出費に備えて幾許かの資金を隠していてもおかしくはない。


「あ、あるかな?」

「私の経験上ですと、引き出しの一番下が怪しいかと」


 ラミニが視線で机の右下最下部を示した。そこでは滅多に引き出されることのない引き出しが拗ねたように鎮座している。

 フレッドが困ったような視線をラミニ向けると、彼女は小さな微笑を浮かべ頷いた。動作こそお淑やかで最小限であるが、それは相手に「やれ」と指図する上でこの上なく強力な命令に他ならない。


 フレッドは汗ばむ指を慎重に引き出しの窪みに入れ、一気に引いた。すると木が擦れる不快な音と共に引き出しは開き、開くなり長い間暗所に閉じ込められ不機嫌そうに顔を歪めたガバニス将軍の肖像画と目が合った。


「わぁ……」


 感嘆を口から漏らしながら、慎重にその一万フロル紙幣の束を手に取り、将軍の立派な口髭を指の腹で撫でた。髭は当然、ザラザラとしている。


「探してみるものですね」


 フレッドは紙幣を眺めたまま静かに頷いた。その胸中に渦巻いていたのは大いなる喜びと、ちょっとした怒りである。アリーヌは貧しい貧しいと言いながらこれだけの大金を隠していたいたのだ。そもそもこんな大金いつ、誰から貰ったのか。謎は絶えない。


 ――だが何より


「これで投資できるかな?」


 フレッドが尋ねるとラミニが掌を差し出し、フレッドはそこに札束を乗せた。彼女は手を閉じて札を軽く握りしめるとそれだけで


「百万ちょうどですね」


 と豪語した。


「よかった!」

「はい、よかったです。契約書がありますので熟読した上でサインを頂きます」


 ラミニは札束を懐に仕舞うと、代わりに分厚い紙束を取り出してフレッドの前に叩き付けた。フレッドは文面を一瞥するなり激しい嘔吐感、頭痛に襲われ、目を瞑りながらサイン欄だけを埋めた。


「ありがとうございます、これで契約成立です」


 ラミニは満足気な笑みをフレッドに向けると、契約書を回収して立ち上がった。


「後日、契約書の控えを送付します。それではまた」


 帽子のツバを掴んで軽い会釈をした彼女は、足早に扉まで歩き、風のように外に消えていった。


 一人残されたフレッドは肩の力を抜き、深く息を吐いた。同時に凄まじい達成感が体中からフツフツと湧き上がるの感じた。


 何てことだろう。これからは、毎月働かずして四十万フロルが入ってくるのだ。そう改めて考えるあまりにも都合のいい出来すぎた素晴らしい話である。まるで詐欺みたいだ。


 きっと、この話を聞いて二人は涙を流しながら感謝することだろう。フレッドは笑みを浮かべながら、その愉快な風景を想像した。


 ◇◆◇◆


 「フレッドさん! 帰りましたよー!」


 扉が勢いよく開き、アリーヌの溌剌とした声が室内に響く。ソファーに寝そべったフレッドは大きく欠伸をしてから、ゆっくりと上体を起こした。


 「やあ、二人ともお帰り、遅かったね」

 「またイザベラさんが新聞スタンドの前で動かなくなっちゃったんですよ。それよりサンドイッチ買ってきましたよ」


 アリーヌが嬉しそうに紙袋を掲げた。それはいつも利用している安くて美味いパン屋の紙袋だ。

 

 二人が、フレッドの対面のソファーに腰掛ける。アリーヌはニコニコとしていたが、イザベラは何やら難しそうな顔して考え込んでいる。


「またルーユの件が新聞に載ってないか見てたの?」

「ええ、あれだけの騒動を新聞社が一つも取り上げないのは変でしょ?」

「ハハ、新聞に載りたい気持ちはわかるけど、フレンシアじゃ毎日いろんなことが起きてるんだから載ってなくても変じゃないよ」


 フレッドはテーブルにイザベラが置いた新聞を手に取り、目を通した。

 見出しは政治問題やら外国の経済がどうとやら、フレッドの興味を唆る物はなく目は紙面上を優雅に滑っていく。それはいつも通りなのだが、今日は珍しく、ある記事の前でピタリと視線が止まった。


『投資詐欺が急増、怪しい儲け話にご注意を』


 自分には関係ない話だ。だが、それが何故か気になる。


「投資詐欺ですか?」


 黒パンをはむはむと頬張りながらアリーヌが丸い目をフレッドに向けた。どうやら文字を読むときに自然に声に出していたようだ。


「最近増えてるみたいね、架空の会社を作ってそこに出資を募るとか。配当金が高いから欲に目が眩んで騙されるみたいよ」

「へえ、そんなのに騙される何てバカだね」


 フレッドは声を上げて笑った。大いに笑った。それは内心の不安を隠す為である。


「騙される人が愚かなじゃありません。騙す人の方が愚か者です」

「そうかしら? この記事だと年利二十パーセントの投資案件に騙されたって書いてるわよ。二十パーセント何て誰が見たって詐欺じゃない」

「え?」


 フレッドが疑問符を挟み、二人が同時に彼を見る。視線を集めたフレッドは頰を引き攣らせながら二人を交互に見返した。


「年に二十パーセントはあり得ないの?」

「は? 当たり前でしょ? そんなに配当してたら会社が潰れるわよ」

「…………じゃ、じゃあ月に40パーセントは?」

「無理に決まってるでしょ?」


 「無理」という言葉がフレッドの耳から頭の中に入り込み言語中枢にぶつかると、空っぽな頭の中に衝撃音が反響した。


「フレッドさん……顔色悪いですよ?」

 「あああ……」

 「え? 何ですか?」

 「あああああああああああ!」


 気付けばフレッドは、悲鳴にとも雄叫びともつかない高声を上げながら立ち上がっていた。


「ど、どうしたんですか!」


 アリーヌの心配するような声に、説明を返す余裕もない。フレッドは掛けられる声を全て無視して扉に向かって突進した。


「どこ行くんですか!」

「散歩!」


 アリーヌに怒鳴り返しながら、フレッドは開いた扉の隙間に体を滑り込ませた。

 

 ◇◆◇◆


 チャーノフは書類にじっくりと目を通してから、欄にサインを書いた。こう日に何枚も契約書を書いているとついつい内容を精査することを忘れそうになるが、絶対に怠ってはならない。ふとした見落としが社の損失に繋がるのだ。神がそうであるように、悪魔も細部に仕掛けを施すのだ。


 チャーノフはペンを置き、深く椅子にもたれた。頭は既に昼食のことで一杯であり、どの女性事務員を誘おうかと、内心のカタログを広げていた。途端に口の中が涎で一杯になったが、断じて空腹が原因である。


 その時、扉が乱暴に開いて中年の女性職員が早足で執務室に入ってきた。彼女は顔を赤く染め、額に血管を浮かべており、一目で何か不都合なことが起こったのだと分かった。そして当然悪い知らせは、真っ直ぐにチャーノフの元へやってくる。日頃の研修の賜物だ。

 

「支配人。お客様がお見えです」

「お客様だって? そんな予定はなかったはずだが……」

「はい。ですが、早急に会いたいと……」

「ダメだ。追い返してくれ。私はこれからランチだ。どうかね君も?」

「そう言ったのですが……」

「言ったのですが、なんだね?」

 

 女性職員が大きな溜息を吐く。その瞬間、彼女の背後から黒い影が伸びた。


 「やあ、チャーノフさん! 久しぶり! 聞きたいことがあるんだ!」


 ◇◆◇◆


 チャーノフが個室内の、大窓やドアの覗き窓に付いたカーテンを閉める間、フレッドはフカフカとした来客用の椅子の感触を楽しんでいた。


「それで、何の用でしょうか」


 チャーノフが対面の椅子に腰掛け、腕を組んだ。彼の声はいつもより低く、口元は引き結ばれている。


「あのさ、チャーノフさんはどうして支配人って呼ばれてるの? 社長とは違うの?」

「それが要件ですかね?」

「世間話だよ。どうしてそんなに機嫌が悪いのさ」

「私は貴方と、貴方のお連れ様を出禁にしたはずです」

「またまた、僕らを気にして家を用意してくれたくせに。素直じゃないね」

「『厄介払い』という言葉はご存知ない?」


 フレッドはムッとしながらも、咳払いをして本題を切り出した。


「チャーノフさんって、この街の物件を一杯管理してるんでしょ?」

「……ええ。マルティアの物件の九割は我が社の管理下にあります」

 

「て、ことはだよ」とフレッドは指を鳴らす。


「この街で、誰がどこに住んでいるか分かるってことでしょ?」

 

 瞬時に何か悪い物を察したチャーノフは、臭い物を嗅いだかのように顔を顰めてしまった。それを見てフレッドは卓上のペンを手に取り、その辺の紙に何やら絵を描き始めた。


「え、ムッシュ、何をして……」


 当初は怪訝にその様を眺めていたチャーノフは見る間に紙面に精巧な人の顔が出来上がるに連れ、その顔を青くした。


「ラミニって女の人なんだけど、知ってる?」

 

 紙をチャーノフに見せながらフレッドが目を細める。「いいえ」と激しく首を横に振る彼の額には脂汗が浮かんでいる。単に手掛かりを得るために彼を訪ねたのだが、これは思ったよりも大きな収穫があるかもしれない。


 「それにしても!」


 チャーノフが急に素っ頓狂な声を上げ、手を叩いた。


「これは実に上手な似顔絵ですね! 一体誰がこれを? 息遣いすら聞こえてきそうだ!」

「ありがとう。実は僕ね、結構、絵心あるんだ」

「ええ私もそう思います! そうだ! 今度一枚絵を描いてみてはいかがですか? 出来が良ければパトロンを紹介しますよ!」

「で、この女は誰?」


 フレッドが紙を指差すと、それまで饒舌だったチャーノフが突然停止した。彼は静止したまま、頬だけを少しずつ吊り上げている。


「……ムッシュ・ロス。私も力になりたいのは山々ですが、お客様のプライバシーを守る義務があります」

「そこをなんとか頼むよ。僕と君との仲じゃないか」

「仲って……とにかくダメなものはダメなのです」

「どうしても?」

「はい」

「じゃあ、僕は暴れるよ」

「はい?」


 不意に要領を得ない恐ろしい返答が返ってきた。


「僕はこの事務所内で暴れ回ってありったけ壊せる物を壊すよ。このフカフカのソファーもね。それとチャーノフさんのその素敵な髭の端に火を付ける。ダイナマイトの導火線みたいにね」


 長い沈黙の後、凍り付いていたチャーノフはどうにか「ハハ……」という新人時代にも出たことがない嘘笑いを返した。相手いつもの、頭の足りない無害そうな喋り方のままであったが、それが却って得体の知れない雰囲気を醸し出しているのだ。コイツはきっとマジでやる。

 チャーノフは脅威を前に早々に脳内の分岐器を動かし戦略を切り替えることを決めた。彼女は()()だがよくよく考えれば身を危険に晒して守る程の価値はない。ということで早速ゲロっちまおう。


「その女はリースです」

「……ラミニじゃないの?」

「いえ、それは偽名でしょう。本名はリース。ただの金に汚いペテン師です」

「で、住所はどこかな?」


 チャーノフは溜息を吐いてから、卓上のメモ用紙を手に取り、そこにすらすらと住所を書いて、フレッドの前に叩き付けた。


「ありがとう、チャーノフさん! 今度恩返しさせてよ」

「……結構です」


 答えると、フレッドは「そっか」と笑みを浮かべ、早々に個室を後にした。残されたチャーノフは一人、先ほどより深い溜息を吐いた。


「なんてことだ……これで今日二回目だ」

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