18. マーダー・オブ
全身が鉛のように重い。足を前に動かす度に膝が軋んでいた。荒い呼吸をして脂汗を滲ませるその様は、さながら鈍重な発動機のようである。
「おい、おい、待てっ」
笛のような音と共に必死に絞り出した声は、白い壁のような背中には届かない。
「ボドワン様、お急ぎを。組合長は時間がありません」
後ろ手を組んだ前を歩く男が、足を止めずに首だけを横に向けた。丸い眼鏡を掛けた男は、不気味な程に流暢で淀みのないフレンシア語を話した。
「わ、わかった、から、ペ、ペース、」
二人は長い長い廊下を歩いていた。ギルド本部を横断する廊下には、その最果てまで赤い絨毯が敷かれている。
世界の果てのような廊下の奥に見える赤ダニのような朱色の扉が、ギルドマスターが君臨する執務室がある。右足に障害がある彼は、十二万フロルの王座に腰を下ろし大半の時間を過ごしているのだ。
階段が一つしかない以上、彼と会うにはこの廊下を踏破する他ない。言うならばこれは、哀れなる謁見者に主従を弁えさせる為の通過儀礼なのだ。
「よくぞ頑張りましたね、汗臭さが気になりますが、ギルドマスターは寛容なお人です。どうぞ、そのままお入りください」
「あ、ああ……」
肩で息をするボドワンを無視して、男が扉を開いた。仕方なくボドワンは、姿勢を伸ばして油っぽい前髪を整えた。
扉が開いた途端、強烈な日差しと煙草臭に五感を刺激され、思わず顔を顰める。目を細め覗き込むと、狭い部屋の最奥で、後光を受けて黒い影となったギルドマスター……モルガンが椅子に背を預けていた。
「おお、私の可愛いボドワン。遠い遠い南からご苦労だった。早く顔を見せてくれよ」
後光を受け、黒い輪郭となった顔の中でギョロリとした大きな目だけが鮮明に浮かび上がっていた。小柄な男である。頭髪をポマードでかっちりと固め、赤いネクタイにブラウンのベストとフロックコートを羽織っている。
ボドワンは唾の塊を飲み下し、部屋の中に足を踏み入れた。机の前まで歩み、モルガンの対面に腰を下ろす。同時にボドワンを案内してきた男が傍に立つ。
途端に尻に猛烈な違和感を覚えた。ケツを潤滑剤なしで犯されているかのように痛むのだ。この座り心地は正に人間工学に対する冒涜に他ならない。苦しい、今すぐに悲鳴を上げて立ち上がりたい。
歯を食いしばりながら視線を上げるとモルガンの嗜虐的な笑みが見えた。この男はわかっている。わかっていて、こんな硬い椅子を用意したのだ。そうやって苦しむ相手の反応を飴玉のようにじっくり味わうのが好きなのだ。
「それでボドワン君。君は何故この場に呼ばれたのか理解しているかな?」
モルガンは椅子のことには触れずに、そう切り出した。ボドワンにしても本望だ。今日はその為にこの場に来たのだから。
「ルーユの件に決まってんだろ? あそこで俺の部下は殆ど死んで、生き残ったのも使い物にならなくなった」
「ああ、あれは酷い事件だったな、正しく虐殺だ」
モルガンがしみじみと二度頷いた。
「……あのガキを殺すには新しい手下が必要だ。融通してくれねえか?」
「その通り、手下が必要だ」
モルガンは、今度は深く一度だけ頷いた。事態の重要性に対して、それはあまりにも軽い反応に思えた。
「アンタも承知していると思うが、俺がしくじったのは、あのロランって野郎が裏切ったせいだ。補償するのはアンタの義務だ、そうだろ?」
今一度、今回の責任が誰にあるのかを明確にする為に言うと、モルガンは片眉を上げ、視線を立ったままの男に向けた。
「そうなのかね、ギヨーム?」
「ええ、我々の戦略ミスという意味で一定の責任はこちらにあるかと。ですがそれ以前に、お客人との間に認識に齟齬があるかと」
「齟齬?」
ボドワンが顔を顰めると、モルガンは思い出しかのように「ああ!」と声を上げ、視線をこちらに戻す。
「そうだった。君は二つ勘違いをしているんだよ、ボドワン君」
モルガンが指で二を作る。
「まず、君達を襲ったのはロランじゃない、別の奴だ」
「何だと」
「フィリップ・ルヴィエだよ」
モルガンがその名を発した途端、場が静まり返る。数秒の間、沈黙を噛み締めた後、ボドワンは吹き出した。
「フィ、フィリップ・ルヴィエ? ハハハッ、冗談にしては陳腐な名だな」
「組合長は至って真面目に申し上げています」
頭上から嗜めるような声が降ってきた。視線を上げると鋭い視線とぶつかった。逸らすように前を向き直すと、モルガンも笑っていなかった。
「君が遭遇したのは間違いなくフィリップだ」
「……冗談だろ? あんなのアホな噂に過ぎねえ」
「この世は、竜が空を舞い、クラーケンが船を握り潰す世界だ。死神が居たって不思議じゃない」
モルガンの声からは少しの嘘も感じられない。全身が冷たくなる感覚があった。自分はあの死神と対面していたのだ。
「ま、それは重要じゃない。大事なのは二つ目の勘違いだよ」
ボドワンを置き去りにしてモルガンが手を叩く。次の瞬間、突然、首元を鷲掴みにされ、顔面を机に叩き付けられた。鈍い痛みが顔中に広がり、鼻の奥が痺れた。
顔を机に押し付けられたまま、髪の毛を引っ張られて顔を上に向けさせられる。
視界に入ったモルガンは口の端に笑みを讃えながら、グラスにウイスキーを注いでいた。それを一口に飲み干し、顔をボドワンに近付ける。
「私は、あの小娘を『殺せ』などと命じていない。私は『捕まえろ』と命じたんだ」
「な、何言ってんだ! 指令書には殺せと書いていたぞ」
「やり取りをしていた相手はロランだろ? 私がロランに処理するように命じ、彼が君を下請けに使った訳だからね」
「じゃ、じゃあ! 悪いのはそのロランじゃねえか! 俺のせいじゃねえ!」
「ああ、そうだ。裏切ったのはロランだ。嘆かわしいことに……彼とは今も連絡が付かない」
「やれやれ」とモルガンが首を横に振った。すると、髪を強引に引かれ、上体を強制的に引き起こされた。
「な、なら、俺がそのロランって奴も始末する。ガ、ガキも見つける。だから任せてくれ」
「ふむ、その心意気は感謝する。君は忠実な最高の友人だ」
「ただ」とモルガンは人差し指を立てた。
「今回は少し、冒険をしてしまった。ほら、あれだよ、ボドワン君。我々組合と協会の間には協定があるのを知っているだろ? フレンシアに横線を一本引いて、その北を我々、南を彼らが縄張りにするという協定だよ」
「ああ、知ってる。だからアンタらは俺を頼った、今後も必要だ!」
「……今回の一件はすぐに相手側に露見してね、暗殺者協会のマルセル・ダルトン議長はご立腹だ」
モルガンが肩をすくめてから、机の上で手を組んだ。
「羊飼いは時に、群全体を守る為に一匹を犠牲にする覚悟が必要なんだよ、ボドワン君。我々は友人だ、君も理解してくれるね?」
頭の両側に男の手が添えられた。
「ま、待ってくれ!」
手から力が加えられ頭が締め付けられていく。頭蓋が軋み、悲鳴が口から迸る。何かが弾けて視界が赤く染まっていった。
スイカが割れるように、頭が砕け、血が部屋中に飛び散ったが、ボドワンがそのことを知覚することはなかった。
◆◆◆◆
「ところで組合長、不味いことになりましたね。財閥だけでなく協会に……それにルヴィエのアホまで、このままでは収拾がつきません」
ギヨームは手に付いた汚れを軽く払ってから、丁寧に整えられた前髪を撫でた。
「マルティアで騒ぎを起こすのは得策ではありませんが、このままあの少女を放って置く訳にはいかないでしょう。組合長、どうかこのギヨーム・ベックに対策部隊を組織する許可を」
「待て」
モルガンは机の上で手を組んだまま、鋭い声で呟く。
「何故、殺した?」
「はい?……このクズのことでしたら、事前に貴方様が決定した通りに処理したまでです」
「ああ、私は確かにボドワン君を始末しろと言った。言ったが……この場とは言ってない」
「はあ?」
意味を図りかねてギヨームが首を傾げると、モルガンは両手を広げた。
「ここは私の部屋だ。私はここで飯を食い、仕事をし、女に咥えさせる。その部屋をだ、君は血塗れにしやがった」
「ああ……」
言われて初めてギヨームはそのことに思い至った。自分も部屋も、親愛なるギルドマスターも確かに血塗れだ。ギヨームは普段は冷静でミスはしない。だが今回ばかりは、正直その場ノリでやっちまったのだ。
「す、すみません、直ちにキーラを呼びます」
「ああ、そうしてくれたまえ、それと綺麗な紙とペンもだ、手紙を書きたい」
「どちら宛に?」
「マルセルだよ。君も気付いているだろうがロランを唆したのは奴だ。アイツは自分で起こした火種を使って、我々の『ゲーム』に加わるつもりだろう」
「……どうするおつもりで?」
「争う気はない。我々は友人だからな。チームを組みたい旨を伝えるつもりだ」
モルガンが顔に付いた血を手で拭うと、血は余計に広がって、彼の顔は真っ赤に染まった。
「では……フィリップは?」
「無視でいい。竜が財宝を守っているようなものだ。あの子が付いている以上、少女に誰も手を出せない筈だ。それは手の出しづらい我々からしたら好都合だろう?」
「そのように」
「それと、対策部隊とやらの結成を許可する。セシルと……後はミラでも使え」
「か、感謝します!」
ギヨームは頬が紅潮するのを感じながら、興奮を隠し切れない声で言った。ギヨームにとって、秘書としてモルガンに奉仕し、そして彼に信頼されることが何よりの幸福だ。
「方針も決まったことだし、飯でも行こうか」
「お供します」
ギヨームが頷くとモルガンは子供のように両手を彼に伸ばし、微笑んだ。
「ほら、ギヨーム。おぶりたまえよ」
◇◆◇◆
早朝の陽の光と共に、フレッドは目を覚ました。上体だけを起こし、大きな欠伸をする。
それから立ち上がり、寝巻きを脱いでシャツを着て、ズボンと靴を履き、ループタイを締めた。
最後にベストとフロックコートを羽織って、姿見の前に立った。
そして目尻を指で伸ばす。こうすることで――こうすることで何だ?
フレッドは目尻に触れたまま動きを止めた。今まで人生で一度も行っていない習慣が自分の生活に入り込んだことを不思議に思ったのだ。
鏡の自分に向かって首を傾げてみたが、向こうの自分も困ったような表情を浮かべるだけで答えを知っている様子はない。暫く見つめ合った二人は同時にこのことに興味を失い。扉に向かった。
この先に、今日も新しい一日が待っている。それはきっとまた、素晴らしいものに違いない。




