16. 我が亡き後に
ワインを微かにに含むと、白葡萄の香りが微かに鼻を抜けるのを感じられた。
「美味しい」
誰に聞かせる訳でもないのに自然と声に出た。それは長い結婚生活で身に付いた習慣だった。世の夫の大半は「美味しい」とか「似合ってる」が頭が処理するより早く口を突いて出るように訓練されているのだ。
ナイフとフォークを手に取って、白いソースが膜のように纏わり付いた鶏肉を切り分ける。フリカッセは確か妻の地元の郷土料理で、彼女も偶に作ってくれる。セザールはそれが特段好きという訳ではないのだが、食べ慣れているので頼んでしまった。
鶏肉を口に入れ、ザラザラとした皮目を噛みながら視線だけを上げる。
見ると、セザールの席から対角の、出入り口に近いテーブルで三人が談笑しながら食事をしている姿がある。会話の内容まで聞こえないが、早朝のツグミの鳴き声みたいに喧しい笑い声だけは聞き取れた。
視線を、赤毛の少女に絞る。彼女は他の二人よりは感情の制御が上手いようで、落ち着いた印象を受ける。彼女は三人の中では一番幼く、妻が結婚した時期に子供を産んでいれば、今はこのくらいふの年なのではないかとセザールは思った。きっと、あの少女なら首をへし折るのも容易いだろう。
だが夕飯時のビストロは客数が多く、四十人程が入れそうな店内の八割近い席が埋まっている。ここで仕事をするのは不可能だ。
少女と一緒に居る二人も観察する。一人は修道服を着た女だ。何故、修道服を着ているのかは不明だがよく笑い、話す姿からして年相応に溌剌とした普通の少女に見える。
一方の男は修道服の女より幼く見える。彼は常に口を半開きにし、声が一際デカく、話す度に尊大で意味の伴わないジェスチャーを頻繁に繰り返している。見るからにアホウだ。
――この二人の情報は事前にコルネリオからは聞かされていない。だが目標が少女である聞いた時点で数名の護衛は予測していた。だから、あの二人を見るに、予想よりは悪くないと言える。
セザールはワイングラスをハンカチで綺麗に拭き、財布からピン札を取り出し、テーブルに置いた。そして鞄を手に持って、帽子を目深に被り立ち上がる。仕事が困難な以上、この場に留まる意味はない。
顔を伏せ、聞き耳を立てながら出入口に近い三人のテーブルに自然体で近付いていく。
「で、このチケット三人分貰っちゃったんです」
「へえ、いいね。何て劇?」
近付くと、会話が鮮明に聞こえてきた。視線を僅かに持ち上げると、赤いチケットが確認できた。
「『ミシェル・ヴィッテ』よ、革命家がマルティアを独立させる話」
「いいじゃん! 僕そういうの好きだよ! 早く食べて行こう!」
食後に演劇を見にいくのだろうか。それなら好都合だ。劇場は殺し屋にとっては慣れ親しんだ舞台である。
「僕も貰い物があるんだ!」
「え、何ですか?」
「実は――」
テーブルを横切るその時、セザールは一瞬、三人に顔を向けた。そして、目と鼻の先に銃口を突き付けられていることに気が付いた。
「う、うわぁ!?」
全くの不意打ちに、セザールは情けない声を漏らしながら飛び退く。だが更に予想外なことに、銃を取り出した当の本人も、拳銃を掲げたその姿勢のまま驚いてた。
「フ、フレッドさん! な、何をしてるんですか!」
「屋敷で拾った銃をそのまま持ってきてたから……」
「こんな人前で出すなんて、アンタ非常識よ」
「ごめん、なんかテンション上がっちゃって……」
男は見るからに気を落として拳銃を懐にしまい込んだ。フレッド、名前は覚えた。絶対に忘れない。
「ごめんなさい! 平気ですか?」
その場で動けないでいるセザールに、修道服の少女が気付き立ち上がろうとした。慌てて帽子を被り直し、急足でビストロの扉を押し開けた。
◇◆◇◆
『ミシェル・ヴィッテ』は薬物と蒸留酒で覚醒した共和主義者の活躍を、照明と尊大で婉曲な台詞回しで彩られたマルティアで最も有名な英雄劇である。表題のミシェル・ヴィッテは、マルティアを独立(正確には自治権を獲得したに留まったが、マルティア人は独立を疑わず『マルティア共和国』という呼称を好む)させ、初代大統領(公的には市長だが大統領という呼称は広く受け入れらており公の場でも使用される)に就いた男である。
劇は有名であるが故に、現在では人々から飽きられ、劇作家の筆が止まったその時だけ、救世主のように舞い戻ってくる。
案内所で尋ねたところ、幸いなことに今晩『ミシェル・ヴィッテ』を公演する劇場はマルティアで一つだけだった。華々しいオペラ通りから離れた小劇場である。
狭く薄暗いエントランスの掲示板には素人音楽団による演奏会や、学生主催の演劇公演の予定が疎に貼り付けられていた。
「ちょっと、お客さん」
声を掛けられ右斜め後ろを振り返ると、切符売り場の男性職員が仕切りガラス越しにこちらを凝視していた。睨むような、値踏みするような、とにかく客に向けていい視線ではない。
「ボックス席に空きはありますか?」
その場で後ろ手に鞄を持ちながらセザールが尋ねると、職員は顔を僅かに弛緩させ、動きを完全に止めた。
「ボックス席を一つお願いしたいのですが」
改めて、今度は少し声音を強くして尋ねると、職員は「は、はい」と弾かれたかのように動き出した。
「も、もちろん空いてますよ」
もちろんというのは言ってもよいのだろうか。
カルトンに金を載せると売り子は慌ただしく引き出しを上から下へと開けては漁り、ようやく見つけた高級感のあるチケットをセザールの前に差し出した。
「楽しんで!」
向けられた笑顔は引き攣っていて声には芯がない。セザールは簡単に礼を告げ、チケット売り場を後にした。
◇◆◇◆
エントランス脇の、かつて訪れた徴兵事務所を思い起こす、薄暗く狭い階段を上る。二階に上がって眼前に現れたのはホールの外周を囲う長い廊下だった。
廊下は、白い壁に幾何学模様がどこまでも変わり映えなく描かれており、等間隔に設置されたランプと扉も合間って平衡感覚を見失いそうだ。
セザールはチケットに書かれた部屋番と扉の番号を見比べながら、廊下をゆっくりと歩き出した。ボックス席は中央の空間ん隔てて、左右に十席程用意されており、セザールの部屋は左翼側の、正面に最も近い右端の部屋だ。
こうやって部屋を探して廊下を歩いていると妻を考えずにはいられない。彼女は演劇が大好きだ。小難しい物から笑える物までマルティア中の劇という劇を網羅している。対してセザールは、あまり演劇が得意ではない。目の前で大仰な演技をされると、どうにも話にのめり込むより先に気恥ずかしさが来てしまうのだ。
そんな自分が、仕事とはいえ妻を差し置いて劇場の特等席に座るのは、少し忍びない。
「許してくれよ、レナ」
チケットに書かれた扉の前で立ち止まり、独りごつ。
扉を開けた向こうはカーテンが閉じられており暗く、仄かにラベンダーが香っていた。赤い内装の半個室には座り心地のよさそうな座椅子が二つ並び、コート掛けや姿見鏡まで備え付けられている。
鞄を椅子に置き、最奥のカーテンを開く。すると劇場という名の巨大な絵画。と、見紛うような広大な光景が光と共に広がった。
楕円形の劇場は下層の赤い座席が絨毯のように広がっている。天井には巨大な天使の絵が描かれ、シャンデリアが吊り下げられていた。どれも場末の劇場とは思えない心を奪われるような壮大な光景だった。そしてそれら全てが、小さな舞台を引き立てるためだけに存在していることが奇妙だ。
懐中時計を見ると既に上演五分前だ。下層の客席には疎ながら客の姿がある。ビストロで少女が手にしていたチケットは一階席の物だった。その為に、一階を一望できるボックス席が必要だった。
一階の座席に端から端まで視線を巡らせる……見つけた。例の三人は座席の中央付近で横並びに座っていた。例の少女が中心で左が男、右が女だ。位置も距離も問題ない。
一通り位置関係を確認し終えたセザールは踵を返し、姿見の前に立った。上着の皺を手で伸ばし、ネクタイを真っ直ぐに整える。そして鏡に顔を近付けて目尻を伸ばす。昼の仕事でもやり慣れたその儀式は、殺しの仕事においては別の意味を持っている。
それは敬意だ。せめて乱れのない服装で相手を葬ることがセザールが示せる唯一の敬意なのだ。
その時、不意に鏡に映っていた自分の姿が消えた。明かりが落ち、ようやく舞台が始まるようだ。
セザールが椅子に座るのとほぼ同時に、舞台上に明かりが灯った。
ガス灯の光が、舞台上の陳腐な役者と安っぽい大道具を皮肉のように煌々と照らしていた。舞台の中央には赤いコートを着た役者が立っており、彼は両手を天に伸ばし、声高に叫んだ。
「私は解放者である! 私は人々を……あー、えっと、私は人々をヴァルサール宮の楔から解き放つ為に存在している!」
明らかに練習不足なヴィッテ氏から早々に視線を外し、傍に置いた鞄を手元に引き寄せる。がま口を開けて手を入れると、ひんやりとした鉄の感触を指先に感じた。
「正義は断行されねばならない! 悪意は放逐されねばならない!」
取り出したのは、長い鉄パイプのような物だ。少なくとも傍目にはそうとしか見えない。次に、鞄の中から回転式拳銃を取り出し、銃身を覆うように鉄パイプを取り付けた。仕組みは不明だがこうすると射程が伸びると説明を受けた。最後に肩当てを銃の後部に装着すると、即席のライフル銃が完成した。
「その為の手段が何であれ、それを誰が咎められようか!」
銃床を肩に当て、片目で照準器を覗き込む。もちろん銃口はあの少女に向いている。少女の姿は舞台の光を微かに受け、暗闇の中でも辛うじて視認できた。
「誰にも、何にも私は止められない! それが悪魔であっても――」
撃鉄を起こし引き金を、ゆっくりと絞る。心音が高鳴るのを感じた。だが呼吸は不思議と深くなり心は凪いでいる。
「死神であっても!」
背後でけたたましい鐘の音が聞こえ、セザールは動きを止めた。動揺が小波のように下層に広がっていくのが見える。
「火事だ!」
舞台上の俳優が台本に存在しない台詞を叫ぶと、動揺は一気に膨らんだ。
セザールは照準器から視線を外し、背後を振り返る。そこには暗い空間と、血のように赤い扉があるだけだった。
◇◆◇◆
廊下に出たセザールは正面から向かって来る人々を躱しながら、廊下を進んだ。
――誰かに呼ばれている。
根拠がある訳ではないが、そう感じた。感じた時には足は自然と音の方に向かっていた。警戒はしていた。だが興味があった。恐怖している。しかし期待もしている。
表に出られない感情が胸の中で暴れ回る感覚があった。それが胸を突き破ってこないように、セザールは進むしかない。
廊下を反対側まで歩き切った先に、壁に固定され、カタカタと音を立てながら揺れる警報器を見つけた。警報器には何やら紙が貼られており、そこに乱雑に『↑』と、矢印だけ描かれている。
その紙を引き剥がし、警報器側の、古い上り階段を見上げた。
◆◆◆◆
屋上の扉を開くと、肌を刺すような夜風が吹いた。空には月がなく、街の光が薄っすらとしたグレアになって空に掛かかっている。
視線を正面に向けると、人影があった。大理石の手すりに手を掛け、街を覗き込む男の後ろ姿は暗闇の中でも鮮明に見えた。
セザールは帽子を脱ぎ、屋上に足を踏み入れ、男の真横まで歩んだ。
手すりに手を置き、傍の男と同じように寂れた漁村地区を一望する。
「……貴方も、演劇はお嫌いで?」
尋ねながら、男の左手に視線を向けた。手は薄い革手袋に覆われており、痛々しい想像を嫌でも掻き立てられた。
「私は妻が好きなもので、よく付き合ってはいるのですが……無駄に長い言い回しも、誇大な演技も好きになれない」
「僕は嫌いじゃないよ。芸術全般が好きなんだ」
「ほう、それは素晴らしい。ご自身では何か創作を?」
「うん」と男は肯定して、手すりに置いた左手の指を動かした。
「僕は絵を描くんだ。正確には描いていたかな? 昔は凄く才能があったんだよ、天才だって言われたさ。でも、ほら、左手を大怪我しちゃって描けなくなったんだ」
男の指が大理石を叩く度に、軽やかな音と皮が軋む鈍い音が鳴る。
「それだけ動かせるなら、また描けるのでは?」
「無理だよ。凄く繊細な指使いが必要なんだよ? こんな手じゃできないよ。それに……もう見せたい人も居ないしね」
男は口元に笑みを浮かべた。その笑みは自身を嘲笑ったようにも、哀れんでいるようにも見える。
「私には……見たい人が居る。彼女は才能に溢れていて、私を常に感動させてくれる。だから――」
いつだって思い浮かぶのは妻のことだけだ。彼女は薄汚い人殺しだった自分を受け入れて、新しい生き甲斐をくれた。セザールにとって彼女は人生そのものだ。
「私は生きて帰りたい」
セザールは男の目を見据えた。決して懇願するつもりはない。自分の目的を見失わない為の宣言だ。
「それは無理だよ、君が仕掛けたんだからね」
男は淡々とした口調で呟く。街を見渡すその瞳は赤く濁っている。セザールは溜息を吐き、彼も再び前を見た。
「セザール・オベールです。以後お見知りおきを、ムッシュ」
「フィリップ・ルヴィエだよ」
「ええ、初めは気付きませんでしたが……この屋上で一目お見かけした時にピンときました」
「そっか」
身体を包み込むように、ジクジクと痛い殺気が満ちていく。男の左手が二度、開いては閉じる動作を繰り返した。
――息を止め、上体を逸らした。鼻先を高熱が掠めて目に閃光が焼き付く。
柵を蹴り、宙返りをして相手と距離を取る。着地と共にセザールは上着を払い、ホルスターに手を掛けた。
フィリップが緩慢に振り返り、右手に持った短杖を向ける。セザールも素早く杖を構えた。
杖先に小さな水の球体が形成され、花火のような軽い音と共に放たれる。同時に相手の杖が光った。
水の玉が雷撃と衝突し、周囲に蒸気が満ちた。
濃い霧のベールが全てを覆い隠した。だが動揺はない。この見通しの効かないのは相手も同じだ。それなら条――
背後に気配を感じ、咄嗟に頭を横に傾けた。直後、右横を何か砲弾のような重い物が掠め、右耳が千切れ飛ぶ。
地面を転がって、距離を取る。顔を上げると、右足を振り上げたままのフィリップの姿が、霧に飲まれていく。
「クソ」
千切れた耳を左手で押さえながら、呻く。魔法使いであるにも関わらず、素早く、そして力強い。一撃だけで相手が今までの、誰よりも手強いと理解できた。
耳から左手を離し、手に魔力を集中させた。指と指の間に血と水の混ざり合った球体が四つ、形作られる。
霧の中に球体を放り投げると、破裂音と共に球体が炸裂した。手応えはない。
「またか!」
セザールは素早く身を翻し、回し蹴りを放つ。
相手の首元を狙った一撃は革手袋に覆われた左手に受け止められていた。
「……ワンパターンですね」
「趣味なんだ、背後から刺すのがさ」
布を二枚挟んでいても、相手の手の冷たさに足の感覚が奪われていく。
互いの眼を見つめながら、二人は同時に手に握った杖を向け合う。決して、外さない距離だ。だからこそ、決して仕留め損なわない一撃が必要だ。
『洪水』
詠唱を静かに誦じる。全身の魔力が杖に流れていく。
それまで無秩序に漂っていた霧が一斉にフィリップの身体に纏わりつき、包み込む。杖を宙に向けると、巨大な丸い雲の塊となったそれも宙に浮かんでいく。
息をするだけで全身が千切れそうな程痛み、魔力切れのせいで、頭が破裂しそうな酷い頭痛に襲われた。
震える右手を前に出し、指を鳴らす。すると、雲の塊が一瞬で、巨大な水塊となった。
宙に浮かぶその水塊の中でフィリップが浮かんでいた。
――詠唱は魔術師にとっての切り札だ。呪文と魔力を媒介にし、ある特定の事象を引き起こす。基本的に詠唱魔法は単なる魔力だけの魔法よりも致死的であり、且つ魔力の消費も桁違いに多い。故に必殺の一撃たるのだ。
『洪水』は相手を水の牢獄に閉じ込める詠唱魔法だ。相手は決して外には出られず、ゆっくりと溺死する。
セザールは荒く息を吸いながら、左手の杖に意識を向け続けていた。牢獄は堅牢だが、集中を欠けば容易に決壊しうる。
水の中のフィリップは瞑目し、ピクリとも動かない。しかし油断はできない。相手は『死神』なのだ、これで終わりな訳がない。徹底的に潰さねばならない。
魔力を更に込め、水の中のフィリップを締め上げる。身体が圧力で震え、口の端からは空気の泡が漏れている。このまま、全身の骨を砕く。
セザールは更に魔力を杖に注ぎ込んだ。フィリップの身体は少しずつ捻れていき、その痛みを肩代わりするかのようにセザールの全身も鈍い痛みに蝕まれていく。吹き出す汗で身体は冷え、意識は既に離れつつある。
――ゴキッ。
長い苦闘の末に、骨が砕ける感覚が伝わってきた。遂に終わったのだと直感した。霞んだ視界の中では、男の身体が力なく水の中を漂っている。
「……勝った」
言い聞かせるように呟いてようやく、達成感は深い疲労と共にやってきた、杖を構えたまま、腕で潤んだ瞳を拭い、男の姿を鮮明に捉えようと眼を凝らす。
――セザールは戦慄した。目が、合ったのだ。水の中に浮かんだフィリップは正気に満ちた視線をセザールに向けている。その瞳は嘲笑するかのように歪んでいる。
「そんな――」
セザールが杖に魔力を込めようとしたその時、水塊が眩い光を放った。目が焼かれ、冷たい水を全身に浴びた。そして同時に、足の感覚が消失し、身体は地面に倒れ伏した。遅れて、焼けるように熱を膝に感じた。
◆◆◆◆
意識は不鮮明だ。五感も四肢も、全てをバラバラに分解され、地面にぶち撒けられたかのようだった。
顔を横に向けると、床に張った水を少しずつ赤い血が侵していくのが見えた。その先ではセザールとは切っても切れない間柄である両足が、転がっている。
「誰に雇われたのか教えてくれたら、止血してあげるよ」
頭上から声が降ってきて、セザールは顔を向ける。そこには黒い輪郭が立っていて、セザールを見下ろしている。赤い瞳のそれは間違いなく死の間際に現れる取立て人だ。
「さぁ……知りませんよ」
一度、終わったのだと認めてしまえば気は楽になり、笑みを浮かべる余裕すらあった。全力を尽くした上に、相手も申し分ない。これ以上の終わり方はきっとなかった。ただ、心残りなのは――
「求め過ぎて欲を出すと……碌な結果にならない。昔から言われていることなのに、私は愚かです」
「そんなことないよ、もっと一杯欲しいってのは誰だって思うことでしょ?」
「それで全て失っては世話ないでしょう?」
「まあ……ね」
死神は好物を前に舌舐めずりする訳でもなく、存外にもセザールに寄り添うような態度を見せている。もしかすると彼は人殺しであっても悪人ではないのかもしれない。もしくはもう獲物が逃げることはないと確信しているかだ。
「妻に……伝えて欲しいことがあります。お願いできますか?」
「ああ、いいよ」
「では――」
セザールかフィリップの顔に右手を伸ばすと、フィリップはそれに応えるように膝を屈め、顔を近付ける。
手が頬に触れそうなほど近付いたその時、セザールは右手を振った。小気味よい金属音と共に、袖から小さな拳銃が飛び出す。銃口を相手の額に押し付け、引き鉄を引いた。
閃光が闇を払い、乾いた銃声が夜空に響き渡った。
◆◆◆◆
「――残念だったね」
フィリップがセザールを見下ろした姿勢のまま呟く。セザールは煙を吐く拳銃を眺めながら、口の端に笑みを浮かべた。
「このバケモ――」
頭が破裂し、脳漿か地面に散乱する。『セザール』は霧散し、かつてそれを成していた物はただの床のシミになった。
フィリップは死体を眺めたまま、口元に杖を持ってきて、杖先から立ち昇る煙を吹き消した。
杖をポケットの中に放り入れ、扉の方に踵を返す。手を払ってから、ドアノブを掴み開くと、男が目の前に立っていた。
「い、いや! あの……」
劇場の受付をしていた男だ。彼は青い顔をして、フィリップに怯えた目を向けている。
「わ、私はただ、ひ、人が、人がいい、いないか確認をしに!」
フィリップが前に一歩出ると、男は後退り、背後の壁に背を付けた。
「何も! 何も見ていません!」
目に涙を浮かべ、懇願する声は悲鳴のようで耳障りだ。フィリップが更に前に出ると、男の背中はゆっくりと壁を伝わってずり落ちた。
「お、お願いです! 子供が居るんです! 誰にも言いません!」
フィリップは先程閉まったばかりの杖に手を伸ばした。




