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不死者のタナトフォビア〜ある英雄譚の終わり〜  作者: 小坂 輝光
1章 悪しき者は追う人もないのに逃げる
1/31

1. マルティアへようこそ!

1フロル=現代の1円です

 男は汗が滲んだ手で、何とか寝室の扉をこじ開けた。部屋は薄暗く、小窓から差し込む黄昏は最奥のベッドのみを淡く照らしている。


 乱暴に壁に掛かった火の付いた燭台を掴み、素早くベッド横のキャビネットの前に滑り込む。燭台の淡い光を頼りに、二段目の引き出しからなんとか引っ張り出した古めかしいマッチロック式の拳銃を引っ張り出し、それを唯一の出入り口に向けた。


――それが向かって来ている。


 扉の向こうが徐々に騒がしくなり始めた。用心棒達の怒号や慌ただしい足音が鳴り響き、少しすると悲鳴がそれに取って代わった。音はゆっくりと、そして確実に、この部屋に向かって移動している。


 数秒、もしくは数分か。とにかく気の遠くなりそうな沈黙の後、突然、扉に何かがぶつかる激しい音が響いた。音は一度で止まず、規則的に何度も何度も執拗に鳴り響いている。手でドアを叩いているのでないのは明らかだ。これはもっと重たい、そう、例えば人の頭を叩きつける音に違いない。


 手元の銃がカタカタと音を立て、男は自分の手の震えに気が付いた。気付けば金色の拳銃を手の中で十字架のように強く握り締めていた。


 不意に音が鳴り止むと誰かが啜り泣く声がする。酷く惨めなその泣き声が自分のものであるとは信じられない。

 扉が開く乾いた音が聞こえたのは、そのすぐ後のことだった。


 先程まで廊下を昼間のように照らしていた明かりは消え、扉のあったところに、ぽっかりと黒い穴が空いたように見える。

 その穴から、黒い革手袋に覆われた左手が室内に向かって伸びてきた。きっとあの、冷たそうな黒い革手袋の中には何も入っちゃいない。


 暗闇の中で赤く濁った双眸が光った。


「この……この……」


 震えを必死に殺しながら、銃口を闇に向ける。


「し、死神め!」


 乾いた銃声が鳴り、蝋燭の火が揺れる。その後に残ったのは、長い静寂だった。


 ◆◆◆◆


 ――帝暦1895年、この年がどんなだったか知りたいなら身近な歴史博士に聞いてみるといい。彼らはきっと口を揃えて『歴史の転換期』と答えるだろうよ。どういう意味かって? それはね、面白味がないってのをできるだけ尊大で気の利いた言い回しにしようとすると出てくる言葉だよ。

 まあ、無理もない。この年の二十年後には()()の世界大戦が起きるし、この年の二十五前までは人間は銃と大砲と……ほんの少しばかりの魔法を使って魔物と戦争してた訳だしね。95年はつまらん90年代の、更にど真ん中、フカフカの白パンで挟まれた萎びたキュウリって訳さ。魅力に乏しい。

 ……でも、実際にあの年を生きた身としては楽しかったと思うよ。電信機やら冷凍庫が普及して、生活は随分楽になった。不便で高価な魔道具が廃れたのもこの時代だったね。

 反対に古い物も残ってたんだ。一部の街じゃまだ、魔術師が帯刀やら帯杖して歩き回ってたし、冒険者だって見かけたよ。冒険者だよ? 今じゃ昔話にしたって陳腐な彼ら彼女が、春先の汚い雪みたいに消えるのを静かに待ってたんだ。……それに見劣りしてるだけで歴史的に重要な出来事も多々あったんだよ。まあ……随分と悲惨で陰惨な酷い出来事がね。

 

 ◇◆◇◆


『ありえん話だが、もし、貴方が言うように『死神(ラ・モール)』とやらが実在していて、噂が全て本当ならば、そいつは五年で二千人殺したことになるでしょうな』――パリシア市警察署長。記者の質問に対して。


「つぎー」


 衛兵は抑揚のない低い声を出す。割に声はよく響いて、15平米の審査室と、その左右、外界へと伸びる通路に反響した。すると、次の通行希望者が入室してくる。今度は青年だ。


 トレーを手にした青年は薄暗く淀んだ部屋の雰囲気に驚いたのか入り口で一度立ち止まったが、衛兵が机を二度人差し指で小突いてやると、すぐに対面の椅子まで歩いてきた。訪問者と衛兵の間はガラス窓で遮られており、さながら懺悔室のようだ。


「名前と滞在目的を」


 何万回もした質問だ。時折変えてみようかと思うが、そんな権限も勇気も衛兵にはない。


「フィ……フレッド! フレッド・ロスです。目的は……えーと……その……移住です」


 男が椅子に尻を付け切るよりも少し早く、そう名乗った。


「……フレッド・ロスね、聞いたことがある名前だな?」

「ええと、昔見た英雄譚に載っていた冒険者から取ったんですよ」

「まるで君が決めたかのような言い方だな?」

「も、もちろん、親が決めました」

「ふぅん……年齢は?」

「二十歳です」

「二十歳だと? ……そうか」


 『十四から十五歳に見える。少し大きいパッチリとした黒目、鼻筋の通った人相の良い童顔、耳に掛かるくらいの黒髪、純白のシャツ、首元に赤いループタイ、黒いベスト、袖山が丸まった大きなフロックコート、左手だけを黒い革手袋で覆っている。喋り方はアホっぽくて酷いパリシア訛り、視線は一点に定まらない。貧乏揺すり、挙動不審』


 どうでもいい会話をしながら、右手だけを思春期の青年のように忙しなく動かし相手の特徴をメモする。これがなきゃ間抜けなマルティア市警は鶏泥棒だって満足に捕まえられないのだから重要な手順だ。


「手荷物を」


 衛兵が言うと、青年が事前に手荷物を載せたトレーをガラス板の下に空いた隙間から差し出した。それから彼はわざわざ上着のポケットからベストのポケットまで全て引っ張り出して見せたが、ボディチェックは事前に済ませてあるから無意味だ。


 ガラスの隙間から伸びた腕がトレーを乱暴に引っ張る。そして、衛兵は目を丸くした。


「身分証、短杖が二本、懐中時計、五百フロル硬貨一枚……これだけ? 目録によると手持ちの鞄もないようだが?」

「ええ、鞄はちょっと……投げちゃって」

「な、投げた?」

「あ! でも、ポスターはありますよ!」


 青年がトレーの上の乱雑に折り畳まれた紙を指す。衛兵がそれを摘んで広げると、途端に青い海が視界に広がった。カモメが優雅に太陽と共に海の上を舞うポスターだ。中心には芸術的なタッチで大きく『マルティアへようこそ!』と印字されている。


「おお、移住推進局の友人が泣いて喜ぶよ」


 衛兵は改めて青年を見る。彼は挙動不審で移住をするには不自然な程に持ち物が少ない。しかも高名な冒険者と同姓同名だ。仮にこの先にあるのが自分の家だとして彼は招き入れない。

 だが市議会に言わせれば、それが何であれ、会話ができ簡単な文字が読め尚且つ好ましい国の国籍を持っていれば歓迎されるべきなのだ。……ただ一点の問題を除いて。


「持ち金が少な過ぎるな」

「え?」

「これじゃマルティアには入れない」

「そんな」


 青年が露骨に慌て、目を白黒させた。


「い、いや、鞄を途中で投げちゃって……」

「だから投げたってなんだ……」

「残りのお金も、馬車の移動費で全部……あとは、これしか」


 青年が手の甲を見せながらガラスの下から左手を差し込んだ。その上に衛兵が手を重ねると青年が手を避け、ザラザラとした紙幣が衛兵の手に収まる。指の腹で数えると五万フロルある。賄賂だ。


「……よし、通っていい。一週間以内に住民登録をするように」

「ハハ、これで完全にすっからかんです……」

「ああ、初めから提出してたら普通に通れたのに」

「え!?」

「……マルティアにようこそ、ムッシュ」


 ◇◆◇◆


 ――関所の外に一歩足を踏み出した。フレッドはこの瞬間を何度も想像したが、思っていたような、全身が羽のように軽くなり、肺に透明な空気が満ちるような劇的な変化はなかった。だが、それでも彼は間違いなく生まれ変わったのだ。


 カラッとした太陽が彼を照らす。関所との明暗差に顔を顰めながら、フレッドは辺りを見渡した。


 フレンシア南部特有の明るい色調の建物がずらりと並び、通りを大勢の人々や馬車、トラムが行き来している。その光景はありふれた文明を切り取ったもので、さして珍しいものではないが、今のフレッドには新鮮に見える。

 海に面した都市であるマルティアはフレンシア王国の一部でありながらも、独自の憲法と議会を持つ自治領だ。主要な産業は海運と金融、近年では経済発展著しく、世界で最も先進的な地域である。


 フレッドは背後の白い壁(ミュール・ブロン)を見た。マルティアの外周は十メートル程の高さの壁に囲われているのだ。初めて見た時は驚いた。ここまで乗せてもらった御者によると昨年計画され半年で建設されたらしい。「今は1895年ですよ? 魔物もいないのに迷惑な話です」と、彼が言っていたのを思い出す。

 

 正面に視線戻すと、足元に敷かれた道は左右と真正面、三つの方向に伸びていた。左右の道は壁沿いにマルティア市を囲む環状道路であり、正面の道はおそらく街の中央まで伸びる目抜通りの一つだ。この二種類の通りがマルティアの道先案内人である。


「困ったら直進だよね」


 フレッドは呟くと、潮の香りがする空気を吸ってから眼前にどこまでも続く長い大通りに歩を進めた。特に理由や目的もある訳ではない。むしろそれを探す為に歩くのだ。


 ◇◆◇◆

 

 絶壁のように左右に建物が(そび)える道を歩くのは、さながら谷底を行くかのような気分だった。最初の三十分は高揚感に満ちていて左右に何があるのかも気にしていなかったが、余裕ができるとやっぱり周りが気になり出す。


 いざ見てみると、通り過ぎる建物の大半が『○○証券』やら『○○銀行』の看板を掲げていた。道行く人々も裕福そうな男達ばかりなのを見るに、フレッドが喜びそうな物はない。外観を眺めることはあっても中に入れないのなら木立を歩くのと変わらない。何か自分が喜びそうなものはないのだろうか。


 『コルディエ銀行オップル通り店』『クレイマン保険』『コルディエ=アルマンソー証券』『東バーティア会社マルティア事務所』――


『ボンバの食料品店』


 泳いでいた視線と足が同時にピタリと止まった。ボンバの意味は知らないが、食料品店はよく知っている。


 途端に腹が思い出したかのように鳴る。考えてみれば馬車の中では碌な食事を取っていなかった。


 フレッドは建物の隙間を埋めるためだけ建てられたような、その小さな店に近づいていく。


 ショーウィンドには馴染みのある花柄のビスケット缶やお菓子の袋が飾られていた。自分の知ってる食品を遠い南で見つけたことに嬉しくなって、フレッドはワクワクしながら扉を引いた。


 ――カラン。


 と、ドアベルが鳴った後、一拍置いて「いらっしゃい」と声が聞こえた。それは先程の衛兵の声によく似ていた。無愛想で熱意に欠く声だ。


 狭く薄暗い店内に他に客は居ないようで、自分より一回り若そうな白髪(はくはつ)の少年がダルそうにカウンターの埃を払っていた。

 ボブヘアーの少年は白いシャツの上に灰色のベストを着て、胸元を黒のリボンタイで閉じており、薄暗く色褪せたような店の雰囲気に溶け込んで見えた。


「どうも」


 とだけ挨拶してフレッドは壁一面を埋めている棚の方を見た。クッキーは一缶五百フロルで、これを買うと飲み物が買えないので諦めた。フレッドは少し棚を見て回って、安い瓶入りのジュースだけを手に取るとカウンターに向かった。


 カウンター横の光の当たらないショーケースに、美味しそうに見えないパンが二個だけ置いてある。


「丸パンを一つ」

 

 フレッドがパンを指差すと少年は面倒臭そうにパンを紙で包み、カウンターに乱雑に置いた。


「五百五十フロル」


 目も合わせずに少年は呟く。


「ちょっと待ってね」


 五百フロル硬貨をカウンターに置いてから、ポケットを漁ってみた。だが、細々としたゴミが出るだけで、残りの五十フロルは見当たらない。……なら善意で埋め合わせるだけだ。


「……そのー、五十フロル足りなくてさ、おまけしてくれない?」

「五百五十フロル」


 僅かに口角を上げ卑屈に微笑んでみたが、少年は冷血な徴税人のように変わらぬトーンで返した。


「頼むよ。お腹空いてるんだよ」

「五百五十フロルだ」


 次は手を組んで懇願する。それで、ようやく少年と視線が合った。が、その視線はナイフのように鋭く、彼の出来損ないの口よりも雄弁に「ダメだ」と言ってくる。


「な、ならさ、こうしようよ。あとで五十フロル払うから」

「金がないならとっと消えろ」


 少年は何一つ間違っていない。それはフレッドにも理解できる。だが、あまりにも血も涙もないではないか。たかが五十フロル分くらい腹を減らしている相手に優しくしようという気はないのか? ……このまま引き下がるようではどうにも気が済まない。

 

「あのさ、五十フロルくらいでグチグチ言わないでよ。僕は五百フロルは出すって言ってるんだよ? 全額恵んでもらう訳じゃない。ちょっとくらいオマケしてよ」

「うるせぇよ、貧乏人」


 フレッドはカウンターに掌を叩き付けた。予想以上に手が痛んで予想外に少年が驚いていない。


「さっきからなんだよ! オマケしてよ!」

「払うか帰るか、両方嫌なら叩き出すぞ」

「ハハッ、やれるもんならやってみろ! 僕が優しそうだからって甘く見るなよ! この店番の小僧が!」

「それが答えか?」


 頭が沸々と沸騰して、理性の蓋は今にも吹き飛びそうだ。残念ながら手加減はできない。十字を切る順番だけ思い出しておこう。


「これが答えだ!!」


 フレッドの無慈悲な右ストレートが少年に襲い掛かる――


 ◇◆◇◆


「ああー! マジか!」


フレッドは鼻を右手で押さえ、店の扉を身体で押し開けた。勢いよく吹き出す鼻血が右手の隙間からボタボタと溢れる。


 背後を振り返ると、少年が血に塗れた拳を振り上げて静かに追いかけてくる。それに驚いて足がもつれ、道端に転けた。

 

「ちょ、ちょ、ちょっとタイム!」


 両の掌を相手に向ける。


 少年は間近に寄ると両膝に手を付いて、フレッドの顔を覗き込んだ。


「は、話し合おう! ぼ、暴力はよくないよ!」

「お前は二つ勘違いしてるぜ。まず俺は店番じゃなくてこの店の店主だ。それにお前は俺をガキだと思ってんだろうが、俺は二十八だ。理解したか?」

「わかった! わかった! 僕が悪かったよ!」

「俺は半分エルフの血が入ってるせいでテメェみたいな間抜け野郎によくナメられる。今回は見逃すが次はないからな?」

「はい! はい! すみません!」


 ◇◆◇◆


「痛み分けか……」

 

 公園のベンチに腰掛け、フレッドはしみじみ呟く。記憶が曖昧だが確か、あの卑劣な白チビから不意打ちを食らったような気がする。仮に次会ったら絶対に負けない自信がある。


『マルティアへようこそ!』


 大切にしていたポスターを広げる。ポスターをしばらく見つめてから真っ二つに切り裂いた。それを丸めて鼻に詰める。


 街の一角に作られた長閑な公園は、親子連れや犬の散歩する人々で賑わっていた。そんな中でベンチで寛ぐ自分は、そう違和感がないはずだと、フレッドは思った。


 ぼうっとしていたら鳥の囀りが聞こえてきそうな、この平穏が、フレッドはずっと欲しかった。それは実際に手に入れてみると退屈で眠いだけで、そしてこの上なく心地よい。王都パリシアで生活していた頃には絶対に得られなかった感覚だ。


 一度大きく欠伸をすると、酸素と一緒に睡魔が全身に巡るのがわかる。息を吸えば吸うほど、身体は重く、意識は軽くなる。


 少しだけ寝よう。どうせ取られて困る物もないし、時間はたっぷりあるのだ。

 

 ◇◆◇◆


「――もしもし、もしもーし? あれれ?」


 間近で女性の声がしてフレッドはゆっくりと目を開けた。橙色に染まった空と、屈んで自分を覗く人影が視界に入った。


「わっ! 起きた!」


 女性の双眸が大きく見開かれ、フレッドは無意識に視線を合わせる。夕暮れの濃い光を浴びた翠眼が宝石のように輝き、畑の麦穂を思わせる金色の髪は風に靡、心地よい匂いを振り撒いている。


「わあ、今何時ですか?」


 フレッドの寝起きで回らない上に少し呆けた頭は、そんな意味のない質問をした。


「夕方の五時ですよ」


 女性が唇の端に笑みを浮かべる。彼女の顔の輪郭は少し丸く、まだ幼げで、全体的に柔らかい印象を受ける。その時に気付いたが、彼女は黒い修道服に身を包んでいた。だがウィンプルは被っておらず、髪は出したままだ。つまり……半分だけシスターなのだろうか。


「何の用ですか? えっと……シスター?」

「あ、いや、その、ずっと寝ていたので大丈夫かなと……」


 彼女は笑顔を浮かべたまま、少し困ったように口元を歪める。彼女自身、何故自分が声を掛けたのか分かっていないかのような曖昧な反応だ。


「アリーヌです」


 急に名乗りながら彼女は手を差し出した。


「フィ……フレッド・ロス」


 訳も分からずにフレッドは差し出されたその手を握った。柔らかい手からは温かい人肌の温度が伝わってくる。


「よろしくお願いします。フレッドさん」

「シスターって呼べばいいのかな」

「いいえ、アリーヌって呼んで下さい。私はシスターじゃないですから」

「ん? そっか、よろしくアリーヌ」


 少し引っ掛かりはしたが、面倒なのでそのまま飲み込んだ。


「ところでフレッドさん、どうして公園に?」

「え? どうしてって……公園に居るのに理由がいる?」

「鼻に紙を突っ込んで大口開けて寝てるなら、理由が欲しいところです」

「あ、失礼」


 フレッドは紙を引き抜いて、ポケットに放り込み、一拍置いてから軽やかに立ち上がり伸びをした。


 大きく欠伸をすると、ようやく頭まで血が巡る感覚があった。そして緩やかに駆動を始めた脳味噌は、ようやく今の、何とも言えない気まずさを認識した。


 二人は二メートルほどの距離を空け、正対し見つめ合っていた。恋人か抱き合う、又は宿敵が撃ち合う直前のような間だ。


「ハハ……」


 耐えられず薄ら笑いで顔が歪む。だが対面の彼女は変わらず彫刻のように整った顔に何の色も浮かべず、こちらを凝視している。


「えっと……」

「フレッドさん」

「え?」


 不意に朗々と名を呼ばれ、思わず身を竦ませた。その後の僅かな沈黙はフレッドを、量刑を待つ、しみったれの悪党の気分にさせた。


「お腹、空いてませんか?」

「え?」


 ◇◆◇◆


「いやー、もうお腹一杯だよ! こんなに食べたのは久しぶり!」


 フレッドは手にしたナプキンを放って、椅子にもたれかかった。眼前にはソースがこびり付いた皿が、テーブル一杯に並べられている。対面ではアリーヌが満足気に微笑んでいる。

 彼女に連れられ辿り着いたのは、公園から然程離れていない大衆料理屋だった。二人はその店のテラス席で向かい合っていり。


「本当によく食べましたね。よっぽどお腹空いていたんですね」


 アリーヌが関心と喜びが混じった笑みを浮かべる。


「うん、丸一日何も食べてなかったからね」

「お金がないんですよね?」

「そうなんだよ、全部使うか……投げちゃって」

「投げた?」

「ハハ、気にしないで」

「変な人ですね」


 アリーヌが小さく笑って、フレッドも釣られて微笑んだ。当初はあまりにも親切な彼女に警戒していた彼だったが、話をしている内にすぐに打ち解けた。


 現在、十八歳の彼女は五年前に母親を亡くし、親戚の手によって修道院に入れられたらしい。だが、


「あの場所で一生を終えたくないって急に思ったんです」


 そう考え、つい数日前に修道院を飛び出したそうだ。だから彼女は修道服を着ていてもシスターではないのだ。


 どことなく似た境遇の彼女に気を許したフレッドは、レモン入りの水を潤滑油代わりに、王都から来たことや魔法使いであることなど、喋る必要のない身の上話を滔々と語った。もちろん内容は縁をなぞるようなものばかりで、核心部分は伏せた……と思う。


「フレッドさん、私達、境遇が少し似てると思いません?」

「え、」


 アリーヌは改まって、椅子に座り直し、膝の上で手を組んだ。


「私もフレッドさんも昔の生活を捨てて、ここで新しい生活を始めようとしています」

「うん、まあ、うん」

 

「ですから」と、アリーヌの視線に熱が宿る。


「互いに助け合えると思うんですよ。私の家に来ませんか?」

「君の家?」

「はい。フレッドさん、お金がないんですよね? ということは今晩泊まる宿も決まってないのでは?」

「そ、そうだけど」

「なら、私の家に泊まる方が野宿よりマシだと思います」


 想定外の提案だった。ありがたい申し出ではあるが、出会ったばかりの少女が見ず知らずの男を家に誘うのは、親切の度が過ぎているような気がする。


「さ、流石に家に行く訳にはいかないよ」

「いえいえ、遠慮しないでください」

「でも、ほら、男が女の子の家に上がるのは……」

「気にしないでください。私が来て欲しいからフレッドさんを招待してるんです」


 僅かではあるが、アリーヌの語調が強くなる。彼女もそれに気付いたのか、小さく咳払いしてから、コップに少しだけ残った水を一気に飲み干した。


 それから「それに」と声量を調整するような弱々しい声を出した。


「フレッドさんに、相談に乗ってもらいたいことがあるんです」

「相談って、何さ?」

「この場で話すのは……」


 言いつつアリーヌは目を逸らした。一見恥じらう乙女のようなその仕草は、実のところこれ以上の話し合いを拒否する強気な交渉術に他ならない。


 取り付く島がなくなったフレッドは進むか下がるか、つまり倫理か情理のどちらかを捨てるしかない。


「うーん、わかった行くよ」


 せめてもの抵抗として、できうる限り顔を歪め、喉奥から絞り出すような濁った声で答えた。


 ◇◆◇◆

 

 二人を乗せたトラムが、彼女の家に近づくに連れ、街並みからは華やかさと明かりが失われていき、潮の香りは生臭さに変わった。マルティアの地理に詳しくないフレッドでも街の中心から離れつつあることがわかった。やがて簡素な住宅街近くでトラムを降り、暫く歩いた頃には日は落ち切っていた。


「ここです」


 アリーヌが指し示したのは、他の家の例に漏れず、簡素で質素な白い煉瓦の平家だ。塀に囲まれた小さな庭が付いている分、ほんの少しばかり周りの家より豪華には見える。


 少しの間、手元で鍵をガシャガシャと鳴らしながらもたついた後、ガチャリと小気味のよい音がする。


「どうぞ上がって下さい」


 扉を背中で押しながらアリーヌが手招きする。言われるままにフレッドは家に上がり込んだ。家に入って最初に目に付いたのは木製のテーブルに椅子。それとテーブルの上の花瓶だった。目に付いたというよりも、目に付く物がそれ以外なかった。奥の部屋にもベッドとクローゼット、それに暖炉だけ。生活感がまるでない。外観が質素であるなら内装は貧相だと言えるだろう。

 その上、家具が少なく広々としているはずなのに外観に比べて室内が狭いような、妙な圧迫感がある。


「今はまだ家具を買い揃えてる途中何ですよ」


 フレッドが訝しんでいるのに気付いたのか、アリーヌがそう説明した。


「座って下さい」


 フレッドは促され、木製の椅子に腰を下ろす。頭上には裸電球が一つぶら下がっていて、目に悪そうな琥珀色の光で周囲を照らしている。


「今、お茶を出しますから」


 そう言って彼女は台所の棚を開けた。しばらく中を探って、別の棚を開けた。そしてまたしばらく探って別の棚を、更に別の棚を……


「あ! あった! ありましたよフレッドさん!」


 二つのカップを手にしたアリーヌが嬉しそうに振り返った。ボーっと彼女を凝視していたフレッドは、思わず目を逸らした。


「あれ? どうかしました?」

「い、いや、別に。ほら、人の家に上がることなんて滅多にないからさ、ソワソワしちゃって」

「そうですか」


 気のない返事をしてから、アリーヌはカップを満たす物探しを再開した。その間にフレッドの心には不安が満ちつつある。この家に上がってから、どうにも漠然と違和感がある。


「あれー、お茶が有りませんね。コーヒーは……ないか」

「気にしないでいいよ。レモン水でお腹タプタプだからさ」

「本当ですか?」


 振り返って首を傾げたアリーヌに頷き返すと、彼女はカップをテーブルに置いて、フレッドの対面に座った。


「フレッドさん、さっそく本題に入ってもいいですかね?」

「う、うん」


 アリーヌが畏まったような声を出す。自然とフレッドも散漫だった意識が集中し、背筋が伸びる。


「相談というのは、折り入ってフレッドさんに提案があるんです」

「提案?」

「さっきも話した通り、私達、新しい生活を始めようとして、境遇が似ていると思うんです」

「そうだね、僕もそう思う」

「ですよね!」


 アリーヌが身を乗り出した。弾みでテーブルが揺れ、空のカップがコケた。


「フレッドさん、私と冒険者パーティーを組みませんか!」

「ほわ!?」


 フレッドは口をあんぐりと開けたまま固まった。『冒険者』その単語をこの街で、しかも彼女の口から聞くとは思わなかった。

 

「冒……険者?」

「はい! 冒険者です! きっと私達なら上手くやれますよ!」


 その単語を聞くと必ず、血とカビが混ざった臭いが鼻を抜ける。


「な、な、なんだよそれ!」

「何って、冒険者は冒険者です。知らないとは言わせません!」

「そ、そんなの無理だよ! 魔物は絶滅したのにどうやって稼ぐのさ。ほんと……皆目……見当付かないよ!」

「人助けをするんです!」

  

 アリーヌは両手をテーブルの上に載せて、更に前のめりになる。


「フレッドさん、この街には少数ですがまだ冒険者が居ます。彼らは人助けをした対価としてお金を貰うんです。ペット探しとか、お使いとか色々です。誰かを笑顔にすることで収入を得られるんです。素晴らしいと思いませんか?」

「で、でも僕は……」


 フレッドの知る限り、冒険者はそんな素晴らしい仕事なんかじゃない。少なくとも今は。


「他にやることを決めてるんですか? そうじゃないなら何を悩むことがあるんですか!」


 アリーヌは弾かれたかのように席を離れ、テーブルを回り込んでフレッドの右手を取って引き起こした。


「「私達ならなれます。立派な、尊敬される、本物の冒険者に」

「本物の冒険者……」


 復唱すると、胸の辺りにチクチクとした違和感があった。「本物の、冒険者?」もう一度呟いて、ようやく、そのざわつきが、久しく感じたことのない高揚によるものだと気付いた。


「そうです、フレッドさん」


 息遣いを肌で感じられるほど間近に迫ったアリーヌの、力強く輝く緑色の瞳にフレッドの姿が浮かんでいた。


 それは、まだこの街に来たばかりの、何者でもない男の姿だ。何者でもないが故に、何者にもなれる筈の男だ。……それなら迷う必要などない。


「……アリーヌ」

「はい」

「やろう」


 フレッドは力強く頷いてから、右手を握った彼女の手に、左手を重ねた。


「よろしく、アリーヌ」

「はい、フレッドさん」


 この瞬間が本当の意味での、フレッドの最初の一歩になった。一頻り握手をして、手を離しても、その熱は残って離れない。


「さて」と、アリーヌが手を叩いた。ひと段落というより、腰を据える為にしたような、妙な重みのある声なのが気に掛かった。


「フレッドさん、私達は仲間です。仲間に隠し事は駄目です。分かりますね?」

「え? ああ、うん」

「だがら、フレッドさんに見せたい物があります」


 アリーヌが神妙な面持ちで言う。先程までの前向きな空気は一瞬に立ち消え、この家本来の不気味な圧迫感が蘇ってくる。


「な、何でも言ってよ。僕達は仲間でしょ?」

「フレッドさん……」


 フレッドが笑みを浮かべると、アリーヌの表情が少しだけ柔らかくなった。彼女は決心を固めたように深く頷き、フレッドの手を取って奥の部屋に案内した。


「座って下さい」


 彼女はしっとりとした声で、ベッドに座るように促す。フレッドは従い、白くてフカフカしたベッドに腰を下ろした。


「えっと……アリーヌ?」


 名前を呼んでも、アリーヌは曖昧な笑みを浮かべるだけで答えない。彼女はフレッドに背を向けてゆっくりとクローゼットの方に歩いた。


 そしてクローゼットの横に立ち、こちら向き直る。見せたい物は中にあるようだ。


 彼女は一度深く息を吸ってから、扉を開けた。


 ――ドサッ、という重い音と一緒に色白の男が床に倒れた。男は床に不自然な姿勢のまま寝転んでピクリとも動かない。フレッドも男に釘付けになって動けない。


「フレッドさん……助けて下さい」

 

 凍りついた沈黙の中で、アリーヌの声だけが熱を帯びていた。

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