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疑念

作者: こころ

『いつまで僕を無視するつもり……わかっているはずだ。もう、見ないふりはできないって……』

「おーい、ちょっと聞いてる? 大丈夫……?」

「あぁ、ごめんなさい。ちょっと眩暈が」

我に返り、頭を振った。このところよくぼーっとしてしまう。

先輩の桃果は、話をちゃんと聞いていなかった私に、眉をひそめながらも心配してくれる。

「ストーカーの件、まだ続いているの? 警察に相談したら」

「前にしました。でも、それらしい人はいなかったって。誰かもわからないんじゃ、対処のしようもなくて」

「でも家の中まで違和感あるんでしょ、杏子、最近ちゃんと寝れてるの? あまり気を張りつめすぎないで。なにかあったら相談して」

桃果は私の肩に手をおき、そっと微笑んだ。

「ありがとうございます。それより、何の話でしたっけ」

「もう、だからこの前一緒にアウトレットに行った話よ、思いっきり発散して、楽しかったねー、って話」

「そうでしたね、お金も思いっきり飛んでいきましたけど」

「また行きたいねーって」

「あのとき買ったバッグ今日から使ってます。淡いレモンの色で、リーフのアクセサリーが付いている……」

「ああ! あれ可愛くて、杏子によく似合ってた」

私たちは複合ビルの一階にあるカフェで、ランチをとっていた。

駅に近く、お昼時とあって、カフェの前を働きアリのようなサラリーマンが行きかう。

店内も、タブレットに目線を合わせたまま、口だけを動かす人や、スマホに体ごと吸い込まれそうな人で埋まっている。

「で、ストーカーじゃなくて、あっちのほうは、最近どうなの」

「あっちって?」

「恋愛でしょ、彼と別れてから新しい出会いは?」

「ないですよ。もうこりごり。私には独りが合うんです。先輩のほうこそ。私に聞くばっかりで、自分のことはほとんど話さないんだから」

「私は……変わらないよ、面白くないでしょ」

桃果はちょっと肩をすくめる。なにげない仕草が、年齢より若くみえる。

「立花先生なんかどうですか」

「ないないない、絶対ない」

私の冗談に半ば本気で応じる桃果を、クスっと笑う。


ランチから戻るため、エレベーターに乗りこみ上階へ。

五階がメディカルエリアとなっており、複数の診療所が入っている。

私たちがそのうちの一つ、心療内科の木製扉を開けると、もう待合に数人座っている。

早足で通路へむかうと、立花が奥から歩いてきた。

「午後からもよろしく。あ、哀川さん、吉村さん変更になったから」

立花は狭い通路を少しもよけず、私の体を巻き込むようにして言った。

桃果はどことなく冷めた流し目で自室へ入っていく。

「わかりました……」

見上げると、ニヤリと笑い、くるりと踵を返して奥の診察室へ戻っていった。

軽い溜息をつき、自室のカウンセリングルームの扉を引く。

吉村が今日は来ないことに、ホッとする。彼は強迫神経症だが、私に妙な執着心を持っていて厄介な患者だ。

ふと目を上げると、カーテンが揺らいだように見えた。窓ガラスはそもそも固定されており、風が入ることはない。

目を凝らすと、誰かが立っているようにみえる。カーテンの内側で、外を眺めているようだ。患者が勝手に入ってきたのか……。

「すみません、待合室でお待ちください」

声をかけると、後ろから事務員が私の名を呼んだ。

「そろそろ患者さん通していいですか」

「あ、はい、この患者さんを待合に……」

事務員に示したほうを振り返ると、そこには誰も立っていなかった。

目をしばたたかせる。見間違い……? まさか。確かにそこに――。

事務員が怪訝な顔をむける。はっとして、何でもないふうに手を振る。

「いえ。どうぞ、通してください」

しっかりしなきゃ。私はプロなんだから。

髪をくくり上げながら椅子に座ると、最初の患者が付き添いの息子と入ってきた。

車椅子に座る年配の男性は、こちらを見ようとしない。こんにちは、と呼びかけても反応はない。

付き添いの息子は、隣に腰かけると、薄っすらと微笑んで窓の外に目をやった。

立ち上がり、男性の隣に屈み目線を合わせる。鬱陶しそうに顔をそむけた。

「調子はどうですか」

「そんな叫ばんでも聞こえとるがな」

やや大きめの声で尋ねると、そう吐き捨てられた。首をのばし息子を見やると、相変わらず窓の外へ不気味な笑みを向けている。

はぁ、と小さく息を吐く。これも、いつものことだ。

「クイズを出しますからね、力を抜いて答えてみてください」

紙を出し、説明すると、子どもやないねん、と払いのけられる。

紙を拾おうとしたそのとき、後頭部にごつん、と鈍い痛みがはしる。

驚いて振り向けば、机に置いていた私のマグカップが転がっている。

「はよ飯作らんかい」

大声で叫ぶ男性のとなりで、息子は冷笑を浮かべる。


「ねぇ、効果がなかったらお金返してもらえるかしら。だって、ねぇ、こうやって話聞くだけでしょ、そんなの誰でもできるわよ」

カウンセリング中ずっと文句を言いつづけていた患者が、疲れたのか、今日はもう帰るわ、と席を立つ。

今日はこれで終わりだ。患者は通路に出ると、立花に出くわしたのか、さっきとは打って変わって丁寧に礼を言いながら帰っていった。

「哀川さん、よかったら夕食一緒にどう」

立花がさらりと尋ねる。既婚者であることをまったく意に介していない。

「ありがとうございます、でも、遠慮しておきます。ちょっと具合がよくなくて……」

「大丈夫? こっちの部屋のほうが日当たりいいから、代わる?」

桃果がいる部屋の壁をコツコツ指で叩き、私の顔を覗き込む。

「いえ、平気です――」

「お疲れさまでしたー。杏子、下まで一緒にいく?」

壁に追いやられていた私に助け船が顔を出した。見慣れた光景、と言わんばかりに桃果は腰に手をあてる。

「はい、行きます。では、また明日」

眉間にしわを寄せた立花の脇をすり抜け、桃果のあとを追いかけた。

建物内の店は閉まりつつあるものの、人は客層を変えて点在している。

階下でなにやら騒ぎが起きているようだ。人だかりができていた。

「なになに、なんかあったのかな。え、警察とかいるよ、杏子」

野次馬根性まるだしの桃果の袖を引っ張る。見物に加わったところで、私たちにできることはなにもない。

「先輩、やめましょう。早く帰りましょう」

「ちょっと待ってて」

桃果はスマホを手に行ってしまった。疲れのたまった溜息を吐き出し、パン屋で明日の朝食を探す。今日の夕飯を正面のデパ地下で探すつもりでいたが、横断歩道を渡るのも億劫に感じ断念する。

そうこうしていると、桃果が満足気に戻ってきた。

「大事件よ、杏子も見ればいいのに。人生で目撃する機会もそうないわ」

「不謹慎ですよ。もう行きましょ」

外にでると、肌に触れる生ぬるい風が、立花の息を思い起こさせ、身震いする。

「ほんとに具合悪そうだね。平気?」

「は、はい……」

「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど、立花先生になんか言われた?」

目顔で尋ねる桃果に、「え」と顔をむける。さっき言い寄られていたことを気にかけてくれたのだろうか。

「いえ、何もなかったらそれでいいの」

「……はい。ありがとうございます」

桃果はなにか言いかけたが、言葉をのみ、「じゃ、また」と去っていった。

立体駐車場から車を出し、賑やかな駅前を回り込むようにして通り過ぎ、新しいマンションが多く建ちならぶ通りをはしる。

診療所から住んでいるアパートまではさほど遠くはないが、歩くにはかなり体力がいった。

すっかり暗くなり、交通量も多くない。あともう少し、というところで、急に視界が霞みはじめた。

目の前がぼやける。雨も降っていないのに――。

街灯の白い光がにじみ、意識が遠のいていく。危ない。このままじゃ。

なんとか車を路肩に寄せ、頭をおさえる。チカチカチカチカとハザードランプの音が脳に響く。

顔を上げ、背もたれに身をあずけ、薄っすらと目を開けると、サイドミラー越しに誰かが近づいていた。男か、女かも暗くてわからない。他に人通りはない。

『あいつ誰だ? お前なんのつもりだ』

声が聞こえる――。徐々に近づく人影は大きくなるが、眩暈に似た症状のせいで判別できない。

消えた、そう思ったら、助手席の窓ガラスが、コンコン、と鳴った。

こちらを覗いている……。しかし記憶はそこで途切れた。


「なにこれ……」

「どうしたの――え、ちょっとなに、なにがあったの」

昨日から頭痛が続いているというのに、診療所の自室に着いて扉を引いたとたん、別の箇所も痛みだした。

机にファイルが投げ出され、棚の中もぐちゃぐちゃ、あげく植木鉢まで倒されていた。

桃果が肩越しに、あんぐり口を開けて覗き込む。

「誰の仕業よ、泥棒? 金目のものとか置いてた?」

「いえ。そんなものは……先輩は大丈夫でしたか」

「私のところは特に変わったところはないけど」

そこへ立花がご機嫌な様子でコーヒー片手にやってきた。私たちの異様な雰囲気を察して、一直線にむかってくる。

「どうしたんだい、なにかあった――」

ちらりと私の部屋に目をやった立花の顔が、みるみる青ざめていく。

「なんだこれは、どういうことだ」

「私に言われても。今朝着いたらこのありさまで、ね」

桃果は両の手のひらを立花に振りつつ、こちらに目配せする。

「はい。確かに昨日も鍵をかけて、事務に預けたはず……」

「僕が一番最後に帰ったんだ。君達、まさか入り口の鍵を盗ったのか」

「ちょっと、私達を疑う気ですか、今日だって先生がここ開けたんでしょ」

桃果が挑戦的な声をだす。立花はポケットの鍵を取り出してから、奥へ引っ込み、キーケースを持って戻ってくる。パチッと開けると、鍵はそろっていた。

「これは予備だ……。入り口の鍵は僕しか――」

桃果の冷たい目とかち合い、「何が言いたい」と怒鳴った。

「哀川さん、まさかデータを抜き取られたりしていないだろうね。患者の個人情報だ」

「え、ええと、ファイルは重要なものではないですし、パソコンもロックがかかっていますから……」

そう言いながらパソコンに向かい、パスワードを入力する。立花から与えられたアルファベットに、自分で決めた数字を四つ。

データファイルを開いた瞬間、一気に冷や汗が首筋を伝った。

閲覧履歴が二時間前になっている。

「どうなんだ、ここは君の持ち場なんだ、哀川さん」

「先生、彼女は部屋を荒らされた側なんですから」

立花と桃果の声も遠く聞こえる。

いったい誰が……。臨床心理士の証明書も額縁ごと床に落ちていた。


「顔色、あまりよくないですね。大丈夫ですか」

「私の心配はしなくていいですから。今は吉村さんのための時間です」

目ざとい吉村は私を覗き込む。これではどちらが患者かわからない。

「新しい職場はどうですか。気持ちの面でなにか変化は」

「絶好調ですよ、これも杏子先生のおかげです。あの、ちょっといいですか」

さらりと下の名前で呼んだうえ、「下着、透けてますよ」と他に誰もいないというのに、片手を口元に立てて、小声で言う。

これはインナーで透けるブラウスを合わせたファッション、桃果とアウトレットでセールにつられて購入したものだ。だが、着てくるんじゃなかったと後悔する。白衣の襟を合わせ、少し睨み気味にあてつける。

「上司に作業が遅いと叱られたとか。気分の落ち込みはありますか」

「そりゃ落ち込みますよ」

一瞬、顔が歪んだが、すぐに私を舐めまわすような視線を送り、ニカッと笑った。

「でも、こうして杏子先生に会えることを楽しみに頑張ってます」

「そうですか……」

なるべく冷めた言い方をしたが、吉村はまったく気にする様子はない。

こんな調子で実のある会話がないまま、時間がきた。

吉村が「じゃあまた今度」と馴れ馴れしく出ていこうとすると、立花とぶつかりそうになった。

見るからに嫌悪感に満ちた目で吉村を見下ろしながら、私にチラシを差し出す。

「哀川さん、悪いんだけど、次の自助会、代わりに行ってくれないか」

「え、私……、自助会って社会復帰した患者さんの相談会ですよね」

「そうそう、実はその日学会なんだよ、すっかり忘れちゃってて」

苦笑して頬を人差し指でかく。吉村は私と立花を交互に見やり、弾んだ声で割り込んでくる。

「そのイベント、僕も参加します、杏子先生が来てくれるんですね、そりゃ楽しみだ」

自分でも頬が引きつっているのがわかる。だが目の前の二人はお互いにしか興味がないらしく、気にもとめない。

「大丈夫、いい大人が昼飯つくりながら、うだうだ言うだけの会だから」

「杏子先生なら薬を出すだけじゃなく、お話をちゃんと聞いてもらえるので安心ですね」

二人がマウントの取り合いをしているのを横目に、その場から離れるため、待合に患者を呼びにいく。


「それではまた二週間後に」

「はい、どうもありがとう」

比較的穏やかで扱いやすい患者を見送りながら、何とはなしに待合を覗くと、桃果が誰かと揉めている姿が見えた。

様子を窺おうと数歩近づいたところで、全身が硬直する。

とっさに脇により、柱の陰に隠れる。

どうしてこんなところに。それも、桃果と話しているのか……。

桃果の向かいに立つ男は、がっしりとして背が高く、ちらちら患者を観察する目つきは、とても精神を病んだ人間のものではない。

あれは、浩二、私の元カレだ。

気づかれないよう、受付のファイルを引っ掴み、読んでいるフリをする。

「もう、どうして待っててくれないの、もしバレたらどうするの」

「だからぁ、連絡したっつったろ。車の鍵家に置いてきちまったんだからしかたねぇだろ」

「なんで私の家に置いてきちゃうのよ」

「桃果が合鍵くれねぇからだろ」

これはどういうこと……。確かに浩二とは別れたんだ、誰と付き合おうが自由だろう。だけど――。

「もう、わかった、とにかく出て、ここ病院なのよ」

「どうでもいいし。つか暇か、こいつら。てか、あいつもいんだろ。会わせろよ」

「なんで。終わった女なんてどうでもいいでしょ」

「うける。妬いてんの、ほら、顔出てるし、悪い女」

「ったく、もう、早く出なさい」

桃果が浩二の尻をはたいて出口へ促す。ファイルを元の位置に戻し、訝る事務員を尻目に待合に背を向けた。

自室の引き戸を力なく引く。軽い眩暈がする。またか。

『諦めたらどうだ』

ビクッとして振り返る。通路に影がみえる。誰かがこちらに声をかけているのか。

「すみません、順番ですので」

影に答えて、自室に入り、引き戸から手を放す。ゆらゆらとカーテンが揺れる。待合の冷房がここまで入ってきた、のか。

視界が霞んだ。植木の緑と、やたらに白い壁の色が目に染みる。テーブルを手探りで掴む。

『俺のほうがもっとうまくやれる。お前は見ているといい』

なんとか椅子に腰かけ、頭を抱えた。ガンガンと響くのだ。

「具合が悪そうだな。休んだほうがいいんじゃないのか」

黒い影が向かいに座っている。誰。患者さんなのか。

『眠るといい。もう、目覚めなくていいぞ』

視界はゆっくりと暗転する。


近頃、よく記憶がとんでいる気がする。まさか自分に限って。そう思いたいが、はっと意識が戻るとさっきまでいた場所とは違うところにいる。そんなことが増えた。

そんなときは決まってパニックになる。それまでどこにいたのか、何をしていたのか、思い出せない。時間が飛びとびになっている。

ちぎったレタスをざるに落とし入れながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、隣から快活な声がとんできた。

「杏子先生、先生はそんなことしなくていいですから。ほら座って」

吉村に無理やり連れていかれたテーブルには、色とりどりの折り紙が置かれている。隣の席では、私と同じ心理士の名札をつけた女性が、うつむき加減の涙声で話す女性に頷きかけていた。

皆、エプロン姿の中、私だけが白衣だ。服装のことなどなにも聞いていない、はずだ。

心理士の女性がちらっと私のほうに目をやり、上半身だけをねじってこちらに向けた。

「すみません、立花先生のところの方ですか」

「ああ、はい。そうですけど……」

「こちらの方、初参加なんですけど、不安感が強いとおっしゃって。お医者様ですよね」

白衣の襟元から裾までさっと視線を動かし尋ねる。「いえ……」と首を左右に振ると、女性の目がすっと冷めた。

「なんだ。医者じゃないの、なんで白衣なんか着てるの、まどろっこしい。立花先生は?」

突如としてため口になった女性が顎を突き出す。

「すみません。私は臨時で、先生は学会があるとかで……」

「ええ、だって元はと言えば立花先生が始めたのに。講演会で息巻いて、あれだけ地域に寄り添うとか言ってたのに」

「はぁ」と力なく答える私に女性は、「もう帰っていいわよ、心理士なら足りてるから」と小声で素っ気なく耳打ちした。それから泣いている女性に向き直ると、眉を八の字にして頷き始めた。

『くだらねぇ』

ドキッとして反対側に顔をむける。吉村の声かと思ったが、姿はない。

誰かの声に背中を押されたわけではないが、もう帰ることにする。私がいても意味はない。

白衣をくしゃくしゃに丸め、愛用の黄色いバッグを持って、陽があたるエントランスの自動扉をくぐろうとすると、吉村の声が後ろから追ってきた。手にクッキーをのせた皿を持っている。

「もう帰っちゃうんですか」

「ええ。私にできることはないみたいですので」

「そんなことないですよ。僕は杏子先生のおかげで、こうしてまた陽にあたれるんです」

「大袈裟ですよ、私以外にもカウンセラーの方はたくさんいらっしゃいますから」

また頭痛が始まった。早く家に帰らないと。誰かに背後から覆い被さられる気がして、腕をさする。

「僕は……」

なにか言いかける吉村に会釈し、踵を返す。外の空気が気怠く包みこむ。

「あなたがす……」

背後の声は蝉の声にかき消された。


蜃気楼が視界を滲ませる。車で来なかったことに今更後悔する。やたらと白けた街道をうつむき加減で歩き、バス停へ。

さっきから風がない。背中に視線を感じる。でも、きっと気のせいだ。

バス停に着いたタイミングでちょうどバスが滑り込んできた。

もたれかかるように車体をなぞり、ステップを上がる。休日の昼過ぎは乗客も少ない。空いた席に腰を下ろし、窓に頭をもたせかける。ベビーカーを押す女性が、周りをくるくる回る少年に、話しかける。その横を腕にジャケットを掛けた男性が早足で通り過ぎる。

バスは、一度閉まりかけた扉を再び開けて、またすぐに閉めると動き出した。その間もずっと、流れる窓外に身を任せていた。

――気づかないうちにうたた寝をしていたようだ。ふと目が覚めると、最寄り駅に着いていた。慌ててバッグを持ち運転手に謝って降りる。

寝ぼけ眼で、マンションのエントランスをくぐる。

今日はもう家の中で過ごそう、とエレベーターをおり、廊下に足をむけると、向こうから誰かが歩いてくる。こんなに暑いのに黒いシャツに黒いパンツとは。ここの住人かな。

カードキーで扉を開けたそのとき、「出てこいよ」とちょうど隣にきた黒い人物が、私が歩いてきた方向へ声を上げた。

驚いてまじまじと見てしまった。顔は中性的で、女性のようだが男性かもしれない。「逃げたな」そう言うと手すりから身を乗り出し、下を覗いている。誰かが階段を急いで下る音がする。

「見ろ、性懲りもなく……」

不審に思いながらも、階下を見やる――見たことのある背中が大慌てでマンション前の歩道を左に折れた。

「あれって……」

「立花だな」

声に向き直ると、呆れた表情が私に微笑みかけた。

「あなたは……」

「ん、クロだけど」

「え、クロ……。えっと、どちら様ですか」

「どちら様って、自分が依頼してきたんだろう」

まん丸の目がまるで捨てられた子犬のようにみえる。依頼、なにか頼んだのか、クロに。そういえば、どこかで会ったような……。

「覚えてないのか?」

「すみません」

クロは眉をひそめると、「そうか」と呟き、玄関の扉を親指でしめした。「入っていいか」と幼馴染のような気さくさで尋ねるので、「どうぞ」とつい口にした。

クロは部屋に入るなり、ベルトポーチから無線機のようなものを取り出した。片手に掲げ、室内をうろうろとする。

「あの、なにしていらっしゃるんですか」

「立花が仕掛けた盗聴器探してるのさ」

そういえば、立花はあんなところでなにを――。盗聴器? 私の家に?

「キミの様子がおかしいからさ、もう少しだけ付き合ってみたんだ。そしたらキミの職場が荒らされるわ、家に侵入されるわ……」

言いながら、ベッド脇のプラグやぬいぐるみの腹から小さい基盤を抜き出す。それから机に置いた黄色のバッグからも反応があった。

「これか。あいつキミに執着しすぎだな」

バッグについた飾りをするりとほどく。お気に入りだったのに――。

「私のカウンセリングルームを荒らしたのも、立花先生なの……」

「いや、あれはキミの先輩だよ。彼女は解雇されたんだ、立花にね、キミの元カレと話していたのを聞いた。パソコンのことなら、おそらく彼女と出掛けたときに、スマホの暗証番号を盗み見られたんだろう。キミ同じ番号に設定しているだろ? あと、彼女のピッキング映像もあるよ」

「どうして映像まで。あなたは何者ですか」

「だから、まぁ、探偵みたいなものだよ。もちろん副業だよ、興信所とかに所属してないから」

クロはポリポリと頭を掻いた。リビングの灰色カーペットに立っていても、なんだかそこにいないような存在感だな。それとも、私がそうなのか……。

「私が……あなたを雇ったの――」

「そうだ。ストーカーに尾行されてるってな。キミの周辺を調査した。といっても、キミのボディーガードみたいなもんさ。変な奴がいないか、キミのあとを追いかけて、職場には、一個、カメラを置かせてもらった。了解は取ったはずだが、覚えてるか」

「いいえ……」

事態がうまくのみ込めない恐怖もあるが、最近感じていた黒い影は、このクロだったのかと思うと、少し安心した。悪い人には出せない雰囲気があった。

木漏れ日がカーテン越しに部屋をまだらにする。立花がストーカー……これからどうすれば――。

不安を見越したのか、ソファに座ったクロは、微かに微笑む。

「心配すんな。しっかり灸をすえておく。それに証拠もあるから、キミが行きたければ警察にもいける」

「桃果先輩は私の部屋でなにを」

「どうやら、不当解雇の証拠を集めたがってたようだな。ほら、立花はキミにご執心だから」

なんだか、すべてがどうでもよくなってきた。クロと自分用にインスタントコーヒーを用意し、ブルーのマグカップをクロに手渡す。「ありがとう」と少年のような声で受け取ったクロは、マグカップをしばらくじっと見ていた。

「少し、気になることがあるんだ――。立花の奴がキミの家のカードキーをマスキングしたのは、調査報告をキミに届けたあとなんだ。夜に、キミの車に届けたろ? あのとき様子がおかしかったから、もう少し調べることにしたんだが――。つまり、それより前の立花の行動には不審なところはなくて……」

クロの声を聞き流しながら、誰かと一緒にいるのも悪くない、なんて思えてきた。そうだ、最近寂しすぎたのかも――。


あれから、立花は目を合わさなくなった。挨拶には頷いて答えるが、必要な連絡にもどこか上の空だ。

桃果は、診療所の都合で退職という扱いになったらしい。別れの際にも、それまでの関係が嘘のように、私には目もくれず、去っていった。

クロからは定期的に安否確認のようなメッセージが届く。もう客じゃないんだから、関係ないのにお節介なところがあるようだ。

本日最後の患者、吉村を見送る。

「杏子先生、元気になられたみたいでホント安心しました、いや、一時期は僕より暗い表情だったから――。それで、あの日の返事は……」

「吉村さん、妄想の症状が出たら、立花先生にご相談してくださいね」

怪訝な顔の吉村は、頭を振ると、にっこり笑い、「またこんど」と、帰っていった。

黄色いバッグを手に車に乗りこむ。クロに、「その飾りはもう付けるな」と言われたけど、気にしない。私のお気に入りなのだ。

今日は星が全く見えない。月も方向が違うために、空は目を閉じたようになにも見えない。

赤信号で止まると、何台かが高速で前を通り過ぎる。相変わらず、交通量はさほど多くないためか、エンジン音が響く。

『フッ、疲れてるな。ストーカーがいなくて寂しいか』

信号が青にかわり、アクセルを踏む。白い街灯が、視界に広がる。

『寂しさなんか、ここは感じない。真っ白で、ずっといたいぐらい心地いいぞ』

車を運転している感覚が、なくなってくる。ふわりと浮いたような気がした。

『だから、俺と代われ』

回転する光景のなかで、視線をわずかに横に向ければ、助手席側の窓ガラスに、自分と同じ姿の誰かが映っていた。

ページを開いていただきありがとうございました!

これからもよろしくお願いいたします。

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