首吊りの木-1
押さえるコードは、DmとD。
それを交互に弾く。
デンデンデレレ、デンデデンデンデ
デンデンデレレ、デンデデンデンデ
(こんな感じで)
それを四回繰り返した後で、終りをちょっとだけ印象的にし、次へ繋げる。
使うコードは、やはりDmとD。
(Dm)健やかさぁに (D)
(Dm)誘われてぇ (D)
(Dm)緑の森へ (D)
(Dm)入ってぇく (D)
この曲の作り始めの頃、わたしは、そのメロディから緑の森をイメージした。木々の緑の隙間から、日の光が零れてくる風景。そして、その中を無音で進んでいく。そんな感じを。
だから、当初わたしは、歌詞で何とかそのイメージを表現したく、その内容をこんな風にしていた。
(Dm)車の中を (D)
(Dm)寝そべって (D)
(Dm)緑の森を (D)
(Dm)駆けて行くぅ (D)
車の中で寝そべっていれば、漏れてくる日の光を見つめながら、森の中を進んで行く事が可能だ。
そんな事を考えたのだ。
だけど、それからその考えが馬鹿馬鹿しいものである事に気が付いた。
現実をベースにして、それが実現できる状況設定なんて考えなくて良いのだ。これは、歌で詩で、つまりは印象の世界の文章なのだから。
相手にそのイメージを伝えられれば、現実には有り得ない状況でも全然問題にはならない。否、むしろ逆に良い効果を与えられる場合だってある。
わたしはそう思い直して、歌詞を前者のものに変えた。
正直な話をいえば、やっぱり“車の中”というのが気に食わなかったのかもしれない。
この曲の雰囲気には似合わない。
(と言っても、どんな曲なのかは文字で読んでいる方々には分からないだろうけど。でも、それは仕方ない、文字で音楽を完璧に表現する事なんて、そもそもできるはずないのだから)
この後は、もう一回DmとDのコードを使った同じメロディに、森の緑を突き抜けた光が体に降り注ぐ、というような感じの歌詞を入れ、次に、AとEmのコードを使って、曲調をがらりと変化させ、暗い感じの、ズンズンと進んでいくイメージにする。そして、その暗さの後に、また元の曲調に戻し、という事を繰り返す。最後の方では、湖なんかを登場させて、冷たい水を顔に浴びたりする。
………。
わたしのやっているこの作業が、果たして作曲と呼んで良いモノなのかどうか、わたしには分からない。
(ただ、作曲じゃなければ何なのか、と問われればこれも分からないから、やはり作曲で良いのかもしれない。ただし、恐ろしく稚拙なレベルの、)
何故なら、わたしはとんでなもない素人で、それを判別できるほどの音楽の知識を持ち合わせてはいないからだ。
使っている楽器はギターなのだけど、実は、つい最近始めたばかりで、コードというものが何なのか、という事すら未だによく分かっていない。
何しろ、本当に素人過ぎて、だから練習をする曲さえなかった、というのが、作曲を始めたそもそもの切っ掛けだったのだから。
音楽などに、今まで慣れ親しんだ事がまるでなく、しかも教えてくれる人もいないという状況下だったので、ギターのコードの押さえ方をまずは練習し始めたのだけど、そのコードを練習できる曲を探す事ができず、仕方なしに自分で適当に弾いていたのが、いつの間にか作曲へと発展していたのだ。
ただし、それを行い始めたお陰で、わたしのギターの上達は、恐らく遅くなっているだろうと思う。
演奏する事よりも、その作曲という作業の方が面白くなってしまった所為だ。
新しいコードを覚えようとする度に、新しい曲を作り、それを勝手に練習する。すると、ギターの本を読む必要もなくなるから、まともに読んだりはしなくなる。すると、基本が疎かになる。基本を疎かにしていて、きちんと成長するはずはない。
つまり、今のわたしのギターは、自己流の滅茶苦茶で、人に聴かせるようなレベルのものではないのだ。
ただ、わたしはそれで別に良いと思っている。
元々、ただ楽しむ為のみに始めたものだ。
人に聴かせる目的もないし、だから苦しんでまで巧くなるつもりはない。
そうじゃなければ、そもそもギターなんて、いや、音楽なんて始めなかったとも思うし。
わたしは、元々は、演奏というモノを毛嫌いする人間だった。良い思い出がない。まるでない。音楽の成績など、いつも最悪だったし、演奏の練習をさせられると、報酬なしの、精神的に酷く辛い強制労働をやらされている気分になった。
いや、今だってきっと音楽の授業は嫌いだろう。高校になって芸術の授業が選択性になり、わたしは絵画を選んだから、それを経験しないで済んでいるけど。
(という事は、人によってはあの音楽の授業は、むしろ逆効果なのかもしれない)
そんなわたしが、ギターを始めたのだから、本当に世の中分からない。自分でも驚いている。
切っ掛けは、母親だった。
母親が、近所のお兄さんから、自分ではやりもしない癖に、無料だからという理由だけで、ギターとその弾き方の本を貰って来てしまったのだ。そして、勝手に「あなた、やってみない?」と、わたしの部屋にギターを置いていってしまった。
ギターは、アコースティック・ギターだった。
そしてわたしは、触れるつもりなど皆目なかったのに、何を血迷ったのか、折角あるのだからと、好奇心で、一番簡単なEm7というコードを押さえて弾いてみてしまったのだ。
すると、音が出た。
綺麗な音だった。(と思う)
それは、当たり前の現象なのだけど、わたしにはその事が何となく嬉しかったのだ。楽器については、本当に相性が悪いと諦めていたから、普通に音が出ただけで嬉しかったのかもしれない。
そして、わたしはそれ以来、少しずつギターをやり始めたのだ。
演奏ではなくて、作曲を楽しんでいるのだけど、それでも楽器を始めた事に変わりはないだろう。
………これも、一つの例なんじゃないかと思う。
わたしは、音楽をやらない自分からやれる自分へと変化したのだ。つまり、人は変化をする。長々と説明して来たけど、わたしはその事が言いたかったのだ。
昼休みのお弁当を食べている最中、わたしは人の“変化”について、友人の鈴谷凛子と話し合っていた。
わたしがギターを始めた事を話しているのは、家族以外ではこの凛子だけなのだけど、それで、この話を人の“変化”の一例として、わたしは彼女にしてみたのだ。
凛子は頷きながら、
「そうね。そうだと思う」
と言って、ポテトを口に入れた。
「でも、それって、成長だと思う?」
そしてポテトを食べながら、凛子はわたしに向かってそう問い掛けて来た。「確かに、変化ではあるけどさ」
「うーん。どうだろう? 成長で…、良い気がするけど…」
わたしはそう答える。それから、
「凛子がポテトを食べられるようになったのは、成長よね?」
そう逆に尋ねてみた。
凛子は、なんとジャガイモが嫌いだったらしいのだ。それが、恐ろしく不味い料理屋に入り、出て来た料理で唯一まともに食えたのがジャガイモで、それ以来平気になったとか。
人はこういう風に、ある切っ掛けで一気に変化をする場合もあるのだ。
ただ、こういったパターンは極稀な幸運だと思うけど。
「そうね。だから、理恵。あなたがニンジンを食べられるようになるのも成長なのよ? 残してないで食べなさいね」
わたしの質問の、ちょっとだけ意地の悪いニュアンスを感じ取ったのか、凛子はそう仕返しをして来た。
「あはは」
わたしはそんな声を上げる。
だから、大抵の場合は、ストレスに抗って、少しずつそれを克服…、つまり、自分自身を変化させなくてはいけない。
例えば、ニンジン嫌いな自分を変化させる為には、嫌いなニンジンを食べ続ける、といった事をしなくてはいけないだとか………。
『これは体に良くて、美味しい食べ物なんだ。だから、食べるべきものなんだ』、そう自己暗示をしながら、わたしは弁当にあったニンジンを口に入れて飲み込んだ。
……、
…………やっぱり、不味い。
どうやら、人生は、そんなに甘いものではないらしい。
わたしたちが、そんな事を話し合い始めたのは、ある男子の話題が出たからだった。
その男子は、中学の頃のわたしの同級生なのだけど、ちょっと変わり者で偏屈な人だった。
その頃(今もだけど)、男子生徒のほとんどは、襟のカラーを外し、制服の第一ボタンを開けていた(どちらも、校則で禁止されていた)。ところが、その偏屈な男子生徒だけは、いつも制服の第一ボタンを閉めていたのだ。
ただ、カラーは外していたけど。
何故なのか、と尋ねてみたら、その男子生徒は自分はその必要を感じないからだ、と答えた。じゃあ、何でカラーは外しているの、と訊いたら、カラーはうざったいからだ、と答えて来た。
「でも、みんなやってるじゃない」
第一ボタンを外す事を。
なんで一人だけ?
わたしが次にそう尋ねると、
「みんながやってるから、自分もやらなくちゃいけないって考え方は好きじゃないんだよ。自分に必要があればやる。なければやらない。俺はそれで行くんだ!」
その男子生徒は、少々気を悪くした様子で、やや怒りながらそう返して来た。
わたしは最初、その男子生徒の話を笑い話の類として(別に馬鹿にするニュアンスで、という訳じゃないが)、凛子にしていたのだけど、話している最中に、ずっと前の下井先生の授業を思い出して、
「まぁ、あの男子は、流行なんかで自分を変えたりしない人だったのかもね。ちょっと、流行だとかに、意識的に抗っていた感もあるけども……、」
と、そう繋げたのだ。
そしてそれで、そこから人の“変化”の話題になった。
あの男子生徒が“変化”を拒んでいた事には、どんな意味があるのか。人が“変化”する事は、果たして良い事なのか、悪い事なのか。否、“変化”すると一口に言っても、色々あるだろう。一概に、全て良くて全て悪いとは言えないのではないか。では、どんな場合の“変化”が良い事で、どんな場合の“変化”が悪い事なのか…。
そんな事を話し合った。
そして、“成長”する事も“変化”の一例ではないのか?なんて事も言い始めたのだ。
「こーいう時は、あの方法ね」
凛子は言った。
「あの方法?」
「集合、“変化”の内から、“成長と呼べる変化”を求めるのには、“成長しない変化”を求めて引けば良いってヤツ」
数学である。
今時の若い女の子らしい会話ではないけども、実は、つい最近、授業でこんな内容をやったのだ。
多分、その影響だと思う。
(もっとも、わたし達は、全然今時の若い女の子らしくないけど)
「“論理”は道具よ。ただ学んでいたって無意味。使えるようにならなくちゃいけないし、使わなくちゃ意味がない。例え、テストで良い点が取れたってね」
わたしはもしかしたら、ちょっと呆れた顔をしていたのかもしれない。凛子はわたしの顔を見ると、続けてそんな事を言って来た。
確かに、凛子の言うのは、正論だとは思うけど、実際に使っている人はあまり見た事がないように思う。
まぁ、実はわたしも、他の人達に合わせなくちゃいけない、なんてのはあまり好きじゃないから、そんな事は気にしないけども。
使うべき、なら使おう。
「簡単に分かる、“成長しない変化”の例は、やっぱり安易に流行に流されてしまう人達の“変化”よね?」
凛子の意見を無言の内に聞き入れて、わたしは、取り敢えずはそう言ってみた。
凛子は、わたしの言葉を聞くと、少し間を置いてからそれに答える。
「……うん。そうだと思う」
その一瞬の間、凛子は悩んでいたみたいに見えた。
わたしは、それを不思議に思って尋ねた。
「なに?」
「いや、ちょっとね。その、簡単に流行で変化するのって、本当の意味での変化なのかな?って思って…」
「どういう事?」
凛子は悩みながら口を開いた。
「ねぇ、理恵。カメレオンの本当の色って何色だと思う」
「カメレオンの本当の色?」
カメレオンに、本当の色なんてあるのだろうか? 周囲の色を真似ているだけじゃないか。
わたしはそう疑問に思った。
「わたしはね、カメレオンに本当の色なんてないと思うのよ。生物学的にはどうなのか知らないけど、周囲の色を真似ているだけのカメレオンに、自分の色がある訳ないって思う」
「うん。わたしもそう思うけど」
わたしは凛子に同意をした。
「ならさ、自分を持たない人が変化するのを、果たして“自分”が変化したって言えると思う?」
自分を持ってない?
そんな人がいるのだろうか?
でも、確かに、それは何となく分かる。自分の好みが、他人の影響でコロコロと変わってしまう人に、自分の好みがあるとは思えない。
髪型だって、服装だって、肌の色だって。それから、恐らく、考え方にだって、それは言えると思う。
「極論過ぎるとは思うけど、確かに自分を持たない人に自分を変える事なんてできないと思う」
わたしはちょっと考えた後で、そう答えた。そして、そう答えた後で、自分で気が付いた。
なるほど。だから、苦痛もなく簡単に変化を行えてしまえるのか。流行に弱い人達は……。
“自分”がないから。
先にも述べた通り、よっぽどの幸運がない限り、自己を変化させるという作業は大変なモノだ。ほとんどの場合、ストレスに抗わなくてはいけない。しかし、そもそも“自分”がなければそれに苦痛が伴なうなんて事があるはずがない。
ファッションを、よく自己表現だとか言うけれど、そこに自分がなければ、他人の真似でも何でも良いという事になる。
表現すべき“自己”なんて、そこにはないのだから。
「第二次世界大戦で、日本が敗戦した時さ」
「ん?」
わたしは、連想して思い出した事を自然と口に出していた。
「日本人は、大日本帝国バンザイ!だとか、お国の為なら、一億総玉砕!だとか叫んでいた癖に、アメリカが来るなり、アメリカ様〜ってなった訳でしょう? つまり、これって、考え方が変わっちゃったのよね。簡単に、あっさりと。しかも、物凄い数の人達の考え方が一斉に…」
「うん」
凛子は、わたしの言いたい事が分かったらしい。
寂しそうに頷いた。
「日本人って、“自分”がない人達の集まりなのかな?」
よく集団主義なんて言うけど、これは主義なんて大層なもんじゃない。単に、集団で生活するという人間の生物としての性質を働かして、それに従っているだけだ。だから、それで、皆同じになろうとする。考えてなんていないのだ。
(自分がない、同じになろうとする人の集まり。不定形でドロドロとしたそれは、まるでアメーバーみたいに思える。
……もちろん、
わたしもそのアメーバーに呑み込まれているのだ。
必死に抗いつつも…)
「まぁね。でも、それこそ極論だと思うわよ、理恵。確かに、日本人は独自の思想というものを作り上げてこなかったと言われているわ。日本にある思想だとかは、全て海外からの輸入だってね。でも、その文化の全てが借り物だって訳じゃないのよ。ちゃんと日本独自の文化もあるじゃない。それに、文学の分野では、情念の世界を描く事にかけては、世界でもトップクラスらしいし。それって、日本が文学を“成長”させて来たって事でしょう?」
凛子はわたしの言葉を聞き終えた後で、神妙な顔になり、それだけの事を早口で語った。
その調子に、わたしはちょっと驚いてしまう。
それで、少しの沈黙の間ができた。
「参考文献。『文章読本』、三島由紀夫著」
そして、その後で、凛子はポツリとそう言った。
真面目で、深刻な雰囲気との落差が…
アハハハハハ、と、わたしたちは、声を出して笑った。