バラバラ−5
ふと気付くと、あたしの意識は真っ暗だった。
あれ?
違和感。
なんで真っ暗なんだ?
少しの焦りを感じてガバッと起きると、そこが暗い教室である事をあたしは理解した。
それから思い出す。
そうだ、あたしは教室で一人考え事をしていたのだ。それで、いつの間にかそのまま眠ってしまっていたのか。
かるい喪失感を覚える。
しまったなー。時間を無駄に過ごしちゃった。
まぁ、どうせ、慌てなくちゃいけない事なんて何もないけども。
……、
このまま、考え事を続行する訳にもいかないな。今日はもう帰るか。というか、帰らないと駄目だよな。こんなに真っ暗だし。でも、暗くて嫌だなー、なんか。
そして、その時にあたしは、何気なくドアの方を向いたのだ。
教室の前方の出入り口。
ん?何かおかしい。
そして、それを見た時、あたしは“変なもの”がそこに在る事に気が付いたのだ。
ドアにはガラス板が嵌められていて、教室からそのまま廊下を見る事できる。そして、そこには、暗い廊下の闇に浮かび、“顔”があった。
神経質そうな男の“顔”が。
あたしは驚愕する。
しかし、次の瞬間にその顔は消えた。スッと闇に消え入った。
何?
恐怖を感じる前に、まずあたしは戸惑いを覚えた。
その顔は、あたしが一年生の頃にトイレで見た、あの“顔”にとてもよく似ているように思えた。
何なの?
額から汗をかく。
一つの間を置いて、恐怖感が沸き上がってくる。そして、それと同時だった。微かなその音を、あたしの耳は拾ったのだ。
トタ、トタ、トタ、トタ、
足音。
それは教室の前の廊下を、前から後ろに向かって進んでいるように思えた。後ろのドア、出入り口の前で止まる。
あたしはその時それでも、その事実を何処かで否定していた。“この先”はないだろう、そう思っていた。これから、ドアが開くなんて事がある訳がない。
でも、
ガラッ!
ドアは開いた。
あたしは凝固した。
手が見えたのだ。“手”が、ドアを開け、空中を浮遊していた。そして、その下にはもちろん“足”があった。
トタ、トタ、トタ、
そして、その“手”と“足”は、後ろの出入り口から入ってくると、それから、あたしがいる方に向かって進み始めた。
真っ直ぐに、あたしに向かって迫ってくる。
逃げなくちゃ
そう思った。
しかし、あたしの体は動かなかった。
どんどんと“手”と“足”はあたしに向かって迫って来る。
こういう時は、少しでも動けば後は一気に動くんだ。
動け!
そう念じる。
しかし、それでも体は動かなかった。
トタ、トタ、
トタ、トタ、
迫ってくる。
し…、深呼吸を。
息が上手く吸えない。ぎこちなく吐き出す。それでも、なんとか指が微かに動かせたのをあたしは感じる事ができた。
ガタタッ
次の瞬間、あたしは椅子を倒し、机を押し退け、勢いよく駆け出していた。
教室の前方の出入り口へ、と。
思いっきりドアを開け、そのまま速度が落ちないように体を動かし、廊下へと駆ける。
その時、
ブンッ
首筋に何かの気配が掠めるのを感じた。
それが何なのか、後ろを見ないでもあたしには分かった。“顔”だ。きっと。
あと、残った部品は“顔”だけだ。何かいるとすれば“顔”だけだ。
“手”と“足”に、あたしを追い立てさせ、自分はドアの前で待ち伏せしていたんだ。
“顔”は。
思考能力がある。
あたしはゾッとした。
『食べてやる』
そして、そう思った瞬間だった。そう声が聞えた。
直ぐ近くで。
追ってきている?しかも、全然、引き離す事ができていない!
“顔”が明かにあたしを狙っている事に、そして、全速力で走っているのにも拘らず、“顔”を引き離す事ができていない事に、あたしは危機感を覚えた。
そして、その時、危機感で必死になって走っているあたしの視界に階段が映った。
あたしは考える。
あたしが逃げるルートは二つある。一つは、階段で下へ進むルート、もう一つはこのまま廊下を走って行くルート。
逃げる事を考えるのなら、本来は下へ降りる事を考えるべきだろう。この学校から逃げ出すのには、最終的にはどうしたって下を目指す事をしなければいけないのだから。しかし、今は、“顔”を全然引き離す事ができていない。階段を降りれば、移動速度は確実に下がる。それで追い付かれて捕まってしまうかもしれない。相手は飛んでいるのだ。階段はハンデにならない。
あたしは、“顔”を引き離してから階段を降りるべきだと判断して、そのまま廊下を駆けた。
汗をかく。
しばらく駆けると、背後から“顔”の気配がなくなった。もちろん、“手”の気配も、“足”の気配もない。
何とかなるかもしれない。
あたしはそう思った。
視界はどんどんと流れ、コの字型の校舎の、反対側にある階段が見えて来た。
あと、ちょっとだ!
逃げ切れるかもしれない!
しかし、あたしは直ぐにその考えが甘い事を知った。
階段に近付くと、下から、
トタ、トタ、トタ、
足音が昇って来るのが聞こえてきたのだ。
それは、間違いなく“足”の気配だった。あたしは、回り込まれていたんだ!
あの“足”はこんなにも速かったのだ。
背後からは、“顔”が迫っているはずだった。迷っている暇はない。
あたしは、咄嗟の判断で、そのまま廊下の突き当たりまで走り、そこにあるベランダに出る為の引き戸を開けて外に出、それから直ぐにそれを閉めた。
閉めるのと同時に、暗闇から真っ白な手が現われ、戸を掴む。
この学校の校舎には、廊下の突き当たりに、展望台のような場所が、わずかなスペースだがある。あたしはそこへ逃げ込んだのだ。
“手”は戸を開けようと、思いきり戸を引いた。あたしは当然、それを押さえる。当たり前の事だけど、外から鍵はかけられない。このまま押さえているしかない。
ガタガタガタ、
“手”の力はとても強かった。戸が軋んで揺れる。
あたしは、必死に押さえる。
その引き戸の上半分は、全てガラス張りになっている為、廊下の様子がよく見えた。
暗闇に浮かぶ“手”。
“足”もその傍に在った。
そして、最後のバラバラの部品、“顔”が、闇にボゥッと浮かぶ。
“顔”はあたしの事を凝視している。
神経質そうな青白い顔。
口が動いていた。
パクパクパク
それが何を言っているのか、あたしには分かった。
『食べてやる』
そう言っているのだ。
手を離したら、あたしは殺されてしまうかもしれない。
あたしの感じている恐怖は更に増した。
必死に戸を押さえる。
しかし、“手”の、否、バラバラたちの力はとても強かった。しかも、衰えない。
誰か助けて!
あたしは心の中でそう祈った。
そして、その時だった。
『大変そうだね』
頭上で、声が聞こえた。
え?
あたしは、壁を見上げる。
すると、そこには、なんと祭主くんが立っていた。
そう、立っていたのだ。
あの、祭主くんが。
真っ白な皮膚を暗闇に映えさせて、闇に溶け込んでいるかのような、真っ黒い衣装を身に纏って。
壁に、垂直に立っていた。
ど、どういう事?
あたしは戸惑う。
『大変そうだね、山中理恵さん』
祭主くんは、もう一度あたしに向かってそう言った。
「さ、祭主くん?!なんで?どういう事?」
祭主くんは何も答えなかった。無表情であたしの事を見ている。
ガタッ!ガタッ!
戸は、今にも開きそうだった。
『その“バラバラ”たちは、君が連れて来たんだよ。山中理恵さん』
祭主くんは、必死に戸を押さえているあたしに向かって、そう語りかけて来た。
淡々とした口調で。
「どういう事よー!」
あたしは叫ぶ。
『君は、昼休みに、生物実験室の前の流しを何度も歩いて往復し、“足”を連れて来てしまったんだ』
確かにあたしは、昼休みに生物実験室の前の流しに行き、何度も歩いて往復した。下井先生の怪談が気になったからだ。
『しかし、“足”だけでは何も怖れる必要はない。“足”は、ただ相手に付き纏う事しかできないし、第一、“足”にはドアだとか戸だとかいったモノは開けられないからね』
バラバラたちの力が更に強くなった。
ガタッガタッガタリッ!
祭主くんは、そんな事は意に解する様子も見せず、無表情のまま淡々と、続きを語った。
『だけど、君は、同昼休み、図書室前の掲示板へ行って画鋲を抜き、“手”の封印を解いてしまった』
確かにあたしは、同じ昼休みの時間、田中さんに連れられて図書室の前まで行き、掲示板に刺さっている画鋲を抜いた。
『しかし、“手”と“足”だけでも、別に怖れる必要はない。何故なら、“手”は、自由に動けたとしても、結局、相手を捕まえる程度の事しかできないからね』
力は更に強くなり、戸はもう半分開きかけていた。
開いた隙間から声が聞こえる。
『食べてやる!』
あたしの腕は、もう限界を迎えていた。
「どうでも良いから、助けてよ!」
祭主くんの顔は、それでも冷たく無表情だった。助けてくれそうな気配すらも見せず、何を考えているのかもまるで分からない。
(!)
………これは“分からない”だ。
“規範の外”?
祭主くんは淡々と語る。
『だけど、君は、放課後、一年生のトイレへと入り、一番奥の個室の扉を開け、“顔”を連れて来てしまった』
そう。確かにあたしは、放課後に一年生のトイレへと行き、一番奥の個室の扉を開けた。
“足”
“手”
“顔”
そして、“祭主くん”
これらは皆、今日あたしが考えを巡らせていた“規範の外”たちだ。あたしの、あたしにとっての“規範の外”たち。
なら、
祭主くんは、一体何の為に現われたの?
ガラララリッ!
遂に、あたしの腕は“バラバラ”たちの戸を引く力に負けてしまった。
戸が完全に開く。
境界線がなくなる。
あたしは一歩だけ後ろに退いた。ベランダの壁に、背中があたる。
バラバラたちが目の前にいた。
もう駄目?
ビュッ!
そして、そう思ったその瞬間だった。突然、壁に垂直に立っていた祭主くんが、あたしとバラバラたちの間に降って来た。
あたしの前に、
ブランッとぶら下がって、逆さで。
え?
あたしはその状況に驚く。
あたしを助けてくれる?
そして、それから祭主くんは言った。
『しかし、“顔”と“手”と“足”が揃ってもまだ足りない。幾ら“顔”が何かを食べても、“胴体”がなければそれは何処にも行かないからね。そんな作業は、全て無意味に終わってしまう。 さぁ!バラバラたち!“胴体”を探しに行くんだ!それじゃなければ、お前達はどう足掻いたって目的を果たせないんだぞ!』
祭主くんがその言葉を言い終わると、“バラバラ”たちは、驚いたような表情を見せた。そしてそれから苦悶の表情を浮かべると、奇妙なうめき声を発する。
ぐぬぉー!
そして、
トタ、トタ、トタ、
“バラバラ”たちの姿は闇に消え、足音が遠ざかっていった。
あたしは感覚が薄れていく中で、その音を聞いていた。
………
……
…
。
目が覚めると、そこは教室だった。
暗くはあるけど、不自然な暗さじゃない。夕闇、といった感じで、朱色がわずかに混ざっている。
あたしは、その現実に別に驚かなかった。
なんとなく、途中からは気付いていたんだ。それが現実の出来事じゃないという事に。
あたしがチラッと予感してしまった事がどんどん実際に起こっていくという、夢特有の現象もあったし、所々で矛盾した、辻褄の合わない事もあった。それが成立してしまう空間は、夢の中しかないだろう。
でも、完全に夢なのかと問われれば、ちょっとはっきりとは分からない…
気もする。
否、夢なのだろうけど。
“祭主くん”が助けてくれた。
あたしにとっての、“境界線の外”が。
あたしは教室のドアを観てみた。もちろん、“顔”などない。
帰らなくちゃな。
あたしは心の中でそう呟くと、ちょっと小走りで学校を出た。
………。