霊安室の囁き-2
………。
山中理恵さんの、久しぶり会った私に対する第一声は、「わぁ!大人っぽくなったわねぇ」だった。
高校時代に比べれば、という意味だろう。
きっと。
(何故なら、今だって私は子供っぽいと言われ続けているのだから)
それは嫌味な意味の発言では、もちろんない。私が子供っぽいと言われている事を気にしていないと知っているからこそ平気で口にしたのだ。私のキャラクターには普通の挨拶よりも、むしろこんな感じの方が良い。
駅で私達は待ち合わせをした。それから、軽く昼食が取れるような店に移動をして、話をするつもりだった。
「いい怪談聞けた?」
しばらくの会話の後で、山中さんは、ちょっと悪ふざけっぽく笑いながら、私に向かってそう言って来た。やっぱり、私の代名詞は、“怪談”であるらしい。しかし、そう言われると、私も高校時代のノリが戻って来る。
「うん! 聞けたわよ」
実際、先日、病院見学の時に聞いて来たばかりだ。でも、それは半ば冗談のような会話のやり取りだった。怪談が聞けていてもいなくても関係なかった。
「懐かしいわねぇ…」
私達はそれで昔の何かがこみ上げて来るのを感じ合うと、それから声を出して笑い合った。
昼食を、ゆっくりと時間をかけて取りながら、私は最近の自分の事を山中さんに話してみた。もちろん、例の志望動機について、の事をメインにして。
話し終わった後で、尋ねてみる。
「山中さんは、一体どうして、幼児虐待問題専門のカウンセラーになりたいと思ったの?」
山中さんは、ホット・コーヒーとアップル・パイを頼んでいて、目の前にはそれらが並んでいる。そして、それらにはほとんど手をつけず、スプーンでコーヒーを掻き混ぜながら言った。
「うーん…… 何でかしらね?」
私はその発言に驚く。
「分からないの?」
「分からない、と言えば分からないわ。私は、今の道を選択したその気持ちが、一体何から発生したものなのか、明確には分かっていない」
「だって…」
私はそれを聞いて反論をする。
「高校時代に、あれだけはっきりと進路を決めていたじゃない」
それを聞くと、山中さんはあっさりとそれを認めた。
「そうね。私ははっきりと自分の進むべき道を決めていた」
「だったら、理由だってはっきりしているはずじゃ…」
しかし、私がそう言いかけるとそれを手で制して言ったのだ。
「人の心理って、とっても複雑なものでしょう? だから、簡単に何々の動機で何をした、とか言い切れないと思うの。表面上、自分に言い聞かせをする事なら、幾らでもできるわよ? 子供が可哀想だと思ったからだ、とか、社会を少しでもよくしたい、とか。でも、それが私の本当の理由なのかは分からないと思う。もしかしたら、私の中にはもっととっても醜い感情が渦巻いていて、その所為でそんな事を行いたいって思っているのかもしれない」
毅然としてそう語る彼女に、私は何も言う事ができなかった。
「例えば、私は悔しさを感じる」
「悔しさ?」
「うん、悔しさ。可哀想とか、哀しいとか、そういった優しい感情よりも、社会の中でそんな事が起こっているという事実を、悔しいと感じる。だから、なんとか解決をしてやろうって、思ってしまう。そして、その悔しさの正体が一体なんなのか、私には分からないでいる」
その後で、しばらく山中さんは黙った。私も何も言わなかった。だから、沈黙の間がそこに生じた。
決して重苦しい雰囲気ではない。しかし、軽い雰囲気でもなかった。
「さっきの、田中さんの志望動機の話で思ったのだけど…」
突然、山中さんは口を開いた。
「田中さんは少し経済の事について思い違いをしていると思うの」
思い違い?
「金を稼ぐ事が、重要じゃないって他にも?」
私がそう問い掛けると、コクリと山中さんは頷いた。
「“経済”自体も、本来は醜いものではないの。経済は元々、社会の中の人々が、住み良く生活をする為にあるシステムだもの。ただ、そこに歪みが生じてしまうと、何かしら問題が発生をする事になる」
そう語る山中さんの瞳は、とても真摯なものだった。悔しさを、さっき彼女自身が言っていた悔しさを、今彼女は感じているのかもしれない。
「看護師さんの過労問題も、歪んだ経済構造によって起こったものだと思う。看護師さんが疲労状態ならば患者が危険になる。普通に考えるのなら、そんな病院は危ないから患者が減って潰れてしまうのだろうけど、市場経済のシステムが麻痺していて、消費者に危険だという事実が伝わらなければ生き残ってしまう。いえ、むしろそれでも患者の数が変わらなければ、病院側は、労働者を、つまりこの場合は看護師さんを、より酷使すればより多くの利益を得られると考え、それを行うようになる。病院の情報を、消費者に伝えるシステムを持っているか持っていないかで、これだけの差が生じてしまうのよ。経済が、社会に悪影響を及ぼすか及ぼさないかはそれで決まる」
彼女が言い終わるのを待って、私は言葉を発した。
「つまり、経済のシステムを変える事によって、看護医療は良くも悪くもなるって事なの?」
「その通りよ。もちろん、医療だけじゃない。これは、その他の様々な分野で言える事なの。だから、経済は無視も軽視もしてはいけないのよ。社会に良い影響を与える事ができた組織や人に、金が多くいくってシステムにしなければ、社会はどんどんと悪い方向に進んで行ってしまう可能性がある。エゴで醜いものって、それから目を背けるのは、現実を見ないのと同じだと思う。確かに、経済が動くのにはエゴがある。でも、だからこそ、そのエゴを逆に利用してやるべきなんだと思うのよ」
エゴを逆に利用する?
……山中さんは、もしかしたら、経済どころか、エゴ自体すらも、醜いものだとは思っていないのかもしれない。
それを聞いて、私はそう思った。
「医療体制の問題だったら、他にも色々と聞くわよね。権力構造や、それによって引き起こる患者に対する粗野な扱い。患者の事を中心に考えるよりも、権力に従う事を重要視するあまり、医療に不備が出て来る。その権力構造は、どうやってでき上がっていると思う?それは、経済も含めたシステムの問題からなのよ」
システムの問題……。
その言葉は誰かから昔に聞いたような気がする。
高校時代。
下井先生の授業?
『北朝鮮と韓国に、その差を生じさせたのは、一体なんだったのか? それは、それぞれの社会システムです。同じ文化を持った社会が、システムの差異によって、あそこまで変わってしまうのです。社会システム、というものには、それほどのまでの影響力があるのです。人間社会で発生する問題には、ほとんど常に、システムの問題が付き纏う』
山中さんの話を聞きながら、自然と私は、下井先生のそんな授業中での発言を思い出していた。
それで、私は言った。
「下井先生の授業で、似たような言葉を聞いたような気がするわ……」
それを聞くと、山中さんはとても嬉しそうな顔をした。
にっこりと微笑みながら、
「うん。あの先生の影響は、強く受けてるわよ、私」
そしてそう言って、更に続けた。
「あの先生の授業で、集団から個人へ。個人から集団へ。という相互影響で社会は成り立っていて、個から集団へ影響が伝わらなくちゃ、社会は発展しないってのがあったでしょう? それどころか、崩壊してしまうってのが」
しかし、私はそれを憶えてはいなかった。首を傾げる。だけども、それに構わず山中さんは語り続けた。
「さっきの説明は、当にそれだったのよ。消費者に病院の情報が伝わらなくて、それが反映されなければ、どんどんと悪い方向へ進んで行ってしまう」
……下井先生は、今の教育制度に対する不満をぶちまけた事があった。その時はピンと来なかったけど、この今の山中さんの姿を見ていて、私はなんとなくその意味が分かったような気になった。
こういう能力は、テスト勉強じゃ身に付ける事はできない。
………。
「患者に対して、良心的に接する腕の良い医者が評価をされ、その情報が個人個人に伝わって医者を選択する、そしてそれによって、その医者がより多くお金を稼げるようになるってシステムをつくれば、先の権力構造の問題は改善できるわね。もちろん、それだけじゃ解決し切れないだろうけど、だから……」
そこまでを語って、山中さんの弁が止まった。そして、それから彼女は、しばらく私の事をじっと見つめた。私は、少しだけその瞳に竦んでしまう……。それから、山中さんはこう問い掛けて来た。
「ねぇ、社会を変える変えるって世間でよく聞くわよね? じゃ、どういう方法で、どういう状態に変えれば良いのかって、聞いた事がある?」
「聞いた事あるような気もする。でも、よくは思い出せないな…」
私は素直にそう応えた。
すると、山中さんは頷いて再度説明を続けた。
「うん。そうなんだ。世間では変えなきゃいけない。変えなきゃいけないって強く言いはするけど、どんな風に変えるべきなのかは、それほど熱心に議論されてないんじゃないかと思う。結局、述べられているのは、ただの綺麗事だったりね。どうしてなのか?それはきっと、知識がないからじゃないかと私は思うんだ。みんな、社会システムの原理を知らない。どんな事を、どんな風に使えば、どんな結果になるか。これは、学門の世界でも、まだまだ発展途上にある分野だから、仕方ないのかもしれないけど……。だから、ね」
それから、山中さんはまた止まった。
間。
一呼吸。
「私は、それを学習して、なんとか作りだそうと思っているの。幼児虐待問題解決の為には、どんなシステムを作り上げれば良いのか。そして、それを社会に向けて提示するつもりでいるんだ。まだまだ勉強している最中だけど、それには、もちろん現場を体験する事も必要になって来る… 心理学も、教育心理学も、集団心理学も重要だしね」
それを受けて、少し考えてから私は言う。
「それが山中さんの夢なの?」
すると、山中さんは少し照れて応えた。
「夢というか……、なんだろう?」
笑う。
「分からないけど……、でも、してみたいんだな」
そう言う山中さんを見て私は思った。
……それが“夢”というものなんじゃないだろうか?
………。
「さっき、良心的な腕の良い医者が生き残るシステムをつくるって言ったけど、これはね、遺伝アルゴリズムってモノを考慮した発想なんだ。例えば、暑い環境では、暑さに適応していった生物が生き残るし、寒い環境では、寒さに適応していった生物が生き残るでしょう? だから、なら、患者にとって、有益な医者が生き残るシステムでは、患者にとって有益な医者が生き残るはずって事になる」
照れ隠しだかなんだか分からないけど、それから山中さんはそんな説明をして来た。別に山中さんの“夢”について言及するつもりはなかったから、私もそれに話を合わせる。そして、それだけじゃなく、反論を試みてみた。
「でも、その場合、医者が充分な数いなくちゃ駄目よね? どんなに悪い医者でも、もし世間にその医者しかいなかったのなら、選択の余地なんてないもの。良い医者の数が足らなかったら、結局、同じだと思う。その原理はうまく働かない」
山中さんは頷く。
「その通りね。だから、その為には、優秀な医者や看護師を育て、社会に供給するだけの、教育システムが必要になって来るの。ここでも登場するのは“システム”ね。そして、それには経済システムだってもちろん関わって来る…… それを考えてくれる人が、この世の中にはだから必要なのよ」
それを聞いて、私はふと気付く事があった。
そうか、人の命に関わる仕事って言っても、それは他の職業に助けられて、初めて実現できるものだったんだ…
私達の目指している職業は、特別偉い訳じゃないのかもしれない。いや、もちろん、社会の中で、重要な職業である事は確かだけど。でも、命を護るのだったら、警察官だってそうだし、農家や漁師だって、本質的には同じだ。安全で充分な量の食料がなければ、私達は生きられないのだから。それがどんな場面で、どんな風な関わり方をするのか、というだけで。印象での判断では、医者の方が偉く思えるけど……、
……こんな事は当たり前じゃないか。
なんで、私は今まで気付かなかったのだろう?
世界は影響を与え合い、関わり合って、関わり合って、関わり合って、そうして、脈動しているんだ。
…。
私が熱心に思考をしている事に、どうやら山中さんは気付いているらしかった。ふと気になって見てみると、私が黙っているのにも拘らず、何の不安もなさそうに私を見守っていた。
そして、私の考えている内容を知っているかのようにこんな事を言った。
「経済システムは色々な社会的機能を活かしている。だから、経済が麻痺をすれば、その社会機能も麻痺してしまう。病院も、もちろん例外じゃない。何割かは確実に機能しない状態に追い込まれる。人がたくさんその所為で苦しむかもしれない。死んでしまうかもしれない。緊急対策は取られるだろうけど、それでどれだけカバーできるかは分からない。食料の供給だって同じ。ストップしてしまうかもしれない。そう考えれば、その為にがんばっている人達は命を護っている。社会を護っているって事になるんだ」
“目を背けるべき事じゃない”
私はそれについて何と言って良いのか分からなかった。経済システムは、人を護ってる? 金稼ぎの為の競い合い“ゲーム”なんかじゃなくて?
いや、そういう側面もあるのだろうけど……。
それから、じっと山中さんの事を私は見続けた。すると、山中さんは何を思ったのか、こんな事を言って来た。
「ねぇ、田中さん。今の私、あなたから見て、どんな風に見えてる?」
「え?」
私には、その発言の意図が分からなかった。それから、山中さんは少しだけ、自嘲気味に笑みを浮べた。
「私ね、時々思うんだ。こんな風に自己主張をがんばってる自分って、実はとっても馬鹿みたいな存在なんじゃないかって。我の強い、傲慢な部分を持った人間なんじゃないかって。周囲から逸脱しているのにも拘らず、無神経にそれをし続けてる……… でもね、どれだけそう、自分自身を疑っても、否定してみても、理論的に考えて、自分のしている事が間違った事だとは思えないんだ。もっと気楽に生きた方が“得”かもしれないのに…… だから、こんな生き方をし続けてしまうの」
馬鹿に見えてない?私
語った後、そんな視線で、やや哀しげに、彼女は私の事を見た。
私は思う。
得?
得って何だろう?
………。
「凄いと思うわ」
それに対して、きっぱりと私はそう言い切った。
するとそれから、山中さんは下を向いた。間を誤魔化すように、コーヒーを飲んだ。そして、呟く。
「……ありがとう」
ありがとう? お礼を言わなくちゃいけないのは私の方なのに…
私はそう思い、なんとかそれを表情で伝えようと努力をする。その努力が実ったのかどうかは分からないけど、それから山中さんはこんな話題を振って来た。
ようやく、アップル・パイを一欠けら分崩して、口に入れながら。
表情を明るくして。
「ちょっとだけ、変な話をするわね。怪談好きの田中さんなら、きっと、少しは楽しめると思うから…」
………。
……それから、山中さんが語ってくれた内容は、奇妙で、そして興味深いものだった。確かに、怪談好きの私が面白いと感じるような内容だ。高校時代、山中さんが様々な事に思い悩んでいると、夢や幻想や妄想の中に、二年生の頃私達と同じクラスだった“祭主君”という、全身から色素が抜け落ちてしまっている男子生徒が現れ、そしてその悩みを解決する為のヒントをくれたというのだ。途中から、この“祭主君”は現実の祭主君とは完全に別の存在になっていったらしい。
もちろん、それらは全て内面的な世界の事だから、本質的には、自己との対話であったのかもしれない。と、彼女はそう語っていた。
「ふふふ。こういうのが好きな、田中さんにとってみれば、半分自慢話になっちゃったかな? こんな体験してみたいでしょう?」
山中さんは話し終えた後でそんな事を言って来た。
確かに、私はそんな体験がしてみたかった。でも、それは、山中さんが言ったような理由じゃない。
自己との対話。
悩みの解決。
……。
それから、軽い雑談をして、私達のしばらくぶりの会合は終りだった。