バラバラ−2
あたしの高校の先生に、一人、とても変わった人がいる。
下井という先生なのだけど、何しろ授業スタイルがとてもマイペースなのだ。受験を意識しないというか、社会常識を意識しないというか。
もちろん、一応私立で進学校でもあるあたしの学校が、そんな授業スタイルを許すはずもなく、この先生は一度はクビになりかけてしまった。ところが、どんな幸運が偶然したのかは知らない、この先生、二年の理系のクラスの片隅に、なんとか生き残ってしまったのだ。
この先生の教科担当は文系(科目名は、一応社会となっているけど、この先生の授業が“社会”であるのかどうだかはかなり怪しい)で、だから、理系のクラスならば、どんな授業を行おうと受験には影響しないだろう、という事を学校側が考えたからだと思う。
傍から見れば、この配属は確実に左遷なのだろうけど、当の下井先生は、全く落ち込んだ様子を見せず、それどころか、却って気楽に好きな授業を行える、と喜んでいるようだった。実際、左遷されてからは、好き勝手に授業を行っている。
そんな訳で、今や、この先生の授業は、学校内の無法地帯と化していたりする。
(でも、こういったタイプの授業は、大学になると普通にある、という話らしいけども)
あたしは理系を選択していて、二年に進級してからは、この先生の授業を毎週受けているのだけど、そんなだから、この先生の授業は、脱線してるのかどうかすらも分からない事が多い。
社会に関わる事なら、ほぼ何でも取り上げるからだ。
そして、その日の授業も、雑談なのか講義なのか分からない、といった内容のものだった。
顔の美醜に関する話。
人間が何かに美醜を感じるのには、二つの要素がある。一つは、生物的要素。人間が生物の特性として持っている美醜に対する感覚。赤ん坊を可愛いと感じる感覚、或いは女性のなめらかなラインの美しさなんかがこれにあたる。もう一つは、文化的要素。後天的特性として、人間が学習をして身に付ける美醜に対する感覚。
「さて、皆さんは何によって、美しい顔とそうでない顔とを認識していると思いますか?」
下井先生は大体そんな感じで、その二つの美醜要素の説明をし終えた後で、そう生徒達に問い掛けをして来た。
ただ、問い掛けると言っても、意見を求めるだとかいった類のそれではないだろうと思う。多分、その問い掛けをして、生徒達に疑問を生じさせるのが目的のものだ。普段、あたし達が疑問にすら思わないで、当たり前に感じている事を、疑問に思わせる為の。
例え、それで何か生徒が答えを考え始めなくても、何かがおかしいのかもしれない、とそう感じてくれさえすればそれで良いのだと思う。
だから下井先生は、あたし達が少しざわつくだけで何も答えなくても、その揺れているあたしたちに対して、にっこりと微笑んだのだろう。
「実は、平均的な顔というモノに対して人は美しいと感じるのですよ」
下井先生がそう言うと、教室内はちょっと騒がしくなった。
「“整っている顔”と、よく言いますがね。人は自分が見慣れているモノに対して親しみを感じるものなのです。だから、自分達が今まで見て来た顔を総じて印象化し、その平均に一番近い顔を美しいと感じる。もちろん、それぞれのパーツやそのバランスが、全て平均的な人など滅多にいないので、“平均的”と言っても、美しい顔がありふれた顔だ、という意味ではないのですがね。まぁ、これなんかは、当に、後天的特性によって身に付く、美醜の感覚な訳ですよ」
多分、平均的な顔立ちを美しいと感じる、という話を、まだ皆よく実感できてないのだと思う。先生の説明が終っても、教室内はざわついたままだった。
「分かりますかね?」
あたしも、なんとなくしか分かっていなかったけど、でも、美人は特徴がないもんだ、なんて話をどこかで聞いた事を思い出していた。
だから、先生の話を受け入れられていない訳じゃなかった。
「つまり、顔の当たり前、が、美しい顔である訳なんですよ。当たり前にこんな顔をしているもんだ、と皆さんが思っている顔を皆さんは美しいと感じる。ある意味では規範ですね。顔の規範。つまり、整った顔立ち。もちろん、これで全ての美的感覚が形作られているという訳じゃないですが、それでも“美しさ”に関する重要な一要素ではあるのです」
下井先生は、教室の戸惑った気配を察すると、続けてそんな説明をした。クラスの皆は、それでもまだ分からないといった様子だったが、どうやら感覚だけは掴めたみたいで、納得しかけている。
教師という立場にいる人から発せられた言葉は、それなりの言霊を持つものだ。理解できなくても納得し、納得をすれば、理解できていなくても、理解できている、と錯覚をしてしまう。
もちろん、あたしだって、完全に理解できていると自信を持っては言えないけども、下井先生のその説明を聞いて思い入るものはあった。
その下井先生の話が、あたしが数日間悩み続けているあの問題に、関係のある話であるように思えたからだ。
規範?
ならば、人は、それが崩れたモノに対してはどう感じるのだろう?
つまり、この場合だと、規範の外にある顔に対しては。
「さて。自己認識の、規範にあった顔を美しいと感じるのだとすると、醜いと感じる顔がどんな顔なのかは簡単に予想がつきますね? そうです。認識の、規範から外れた顔を、人は醜いと感じるのです」
あたしは、その下井先生の言葉を聞いて、少し胸に痛みを感じた。
分かっていた事ではあったけど、結局、何かを美しいと感じるのも醜いと感じるのも自分の中の感覚でしかない。あたしが決めている事なんだ。そんな主観の自分勝手な感覚で、他人を拒絶するなんて…、
なんだか、自分がとても傲慢な生き物であるように思えた。
しかし、あたしがそんな事を悩んでいると、続けて下井先生はこう語ったのだ。
「ただ、これは規範から外れたモノに対する一つの感覚でしかありませんがね。規範から外れたものに対して、人が感じるのは、何も醜いという感覚だけではありません。例えば、滑稽さを感じる場合だってあります。犬や猫よりも、人間に近いサルの顔を滑稽に感じるのはこれですね。サルの顔は、我々の顔とある程度は同じである訳ですが、人の顔に近いからこそ、我々はサルの顔に人間の顔を観てしまうのです。そして、人の顔の規範をもって観れば、サルの顔はその規範を崩しているのです。だから、人はサルの顔を滑稽に感じる。犬や猫の場合は、人の顔の規範から遠過ぎるのでそれがない。だから、哺乳類の生得的な性質によって可愛いと感じるのです。因みに、より格式高い規範が壊れる場合に、滑稽さを感じる事が多いようですね…。
さて、そしてですね、滑稽さの場合は、その心理にまだ対象を拒絶するといった要素が残っている訳ですが…、だから、笑われると人は怒ったりします、…実は、人には規範から外れた対象を、拒絶する感覚だけがある訳じゃないのですよ」
下井先生の言葉の端々から、あたしは、あたしが今自分が悩んでいる問題との関連性を感じとって、ますます真剣に聞入っていた。
そして、だから、その言葉で驚いてしまった。
――え?
拒絶する感覚だけがある訳じゃない?
「むしろ、規範から外れたものを受け入れようとする方向で、心理が動くといった場合もあるのですよ。その典型的な例が、斬新なモノを喜ぶといった感覚でしょうか。規範から外れた新しいもの受け入れようとするのです。人に拘らず、生命というものは、自己を保持しようとする性質だけではなく、自己を変化させようとする性質も持っているのですが、新しいモノを喜ぶというのは、その性質の一つの現われではないのかと考えられます」
――規範から外れたモノを受け入れる。
あたしは、先生の説明の中で、その言葉に特に引き込まれた。
人がそういった性質を持っているというのなら、あたしの中にも当然、それがあるはずだ。なら、あたしの中のその性質を刺激する事ができたなら、あたしが今抱えている悩みは解決できるのじゃないだろうか?
そう考えたからだ。
あたしは、下井先生の次の説明を待った。
「その他にも、好奇心なんかも規範の外を望む心理の一例であると考えて良いでしょうね。“分からない”を究明する事に対して快感が働く。いえ、或いは好奇心だけじゃなくて、“分からない”自体を楽しむ心理もあるかもしれませんが。例えば、怪談話や不思議話といったものがありますよね? これを人が楽しめるのは、“分からない”を楽しむ心理が人にあるからなのかもしれません」
だが、その次に出て来た下井先生の説明は、あたしにとって期待外れのものだった。
あたしの悩んでいる問題とは関係がないように思える。
だが、続けて下井先生はこんな補足説明をしてきたのだ。
「あ、もちろん、この話は最初の顔の美醜の話とは違いますよ。分化されて、別の心理になっている。ただ、根本的な部分では同じ性質から発生していますがね」
根本的な部分では同じ?
「根本的な部分では、それらの心理は未分化で同じなのです」
それから下井先生は、それこそ本当に脱線話なのかもしれないが、実際にその心理を感じて欲しい、だとか言って、この学校の怪談話をし始めた。
この先生は、学校というのは一つの小社会であって、その学校という社会の文化の特性を考え知る事は、“社会”という授業科目に適している、と常日頃から主張していて、授業でこの学校に関する話をする事が度々あるのだ。
実生活で、“社会”について実感学習できる貴重な機会だ、と言って。
それで、この学校の簡単な歴史みたいな事をやった時もあった。
(まぁ、自分の学校の話を聴くというのは、それなりに面白いのだけど)
そして、今回みたいに怪談話をする事も多いのだ。
“フォークロア”は、文化を考える上で重要だ、というのがどうやらその理由らしい。
今回、話し始めたのは、足の怪の話だった。
生物実験室の前の流し、この場所には、夜になると“足”が現われる。
他には何もない“足”だけが。
そして、その足が、ずっと校舎内をつけ回して来る。
理由は何も“分からない”。ただ、ただ、つけ回して来る。いくら逃げても、トタトタと。
確かに怖かった。
理由も何も分からない、という正体不明である事が効果を上げているように思えた。何か危害を加えてくる、とかそんな恐怖ではないのだ。
“分からない”が不安で、その不安が面白いのか…。
そして、あたしはその話を聴きながら考えていた。
根本的な部分では同じ、
それが一体、どういう事なのかということを。
怪談話を面白いと感じるような感覚で、醜いだとか、拒絶する感覚で認識してしまっているモノを受け入れる心理も、人には存在するのだろうか?
しかし、それはなんだか、実感し難かった。
少なくとも、あたしは今まで生きてきて、そんな感覚を味わった事はない。
でも、そういえば、前衛芸術なんかでは、規範から外れたモノが創作される事が多いような気がする。いや、これは何も前衛芸術に限った事ではないかもしれないけど。左右の対称性を崩した日本の美観の方が、西洋のそれよりも美しいとされている、という話を聞いた事がある。芸術が高度になると、規範外を求める心理を刺激する事を目指すようになるのだろうか?
………、
でも、それもなんだか違うような気がした。
あたしが悩んでいる事とは違う。
……。
そういえば、妖怪の顔は、醜いモノだとかひょうきんなモノが多い。
つまり、これは“規範の外”な訳か。
詳しくは知らないけど、その妖怪たちの中には、怖がられるばかりではなく、崇められる存在もいるのだと聞いた。
(実は、これも下井先生の“社会”の授業で知った話なのだけど)
民間信仰に根付いた霊々の中には、醜い姿やひょうきんな姿をしたモノが少なくないのだと。
でも、これも、いまいちピンと来ない。
その心理も、あたしが欲している心の動きではないように思える。
いや、待てよ。
あたしはそこまでを考えて、その発想から別の可能性を連想した。
異形のモノ、不思議な存在、そういった存在と仲良くなるという話も、世界中にいっぱいある。
現代だって、例を上げればそんな話は、枚挙にいとまがないだろう。
そして、そういった話から感じられる感覚は、普通に友情を描いた物語から感じられるモノとはまた別のものだ。
これは、もしかしたら、あたしが求めている感覚に近いのかもしれない。
しかし、あたしのその思考はそこから先へは発展しなかった。
具体的に、それがどんな感覚なのかは掴みようがなかったし、だからそれが、本当にあたしの求めている心の動きであるのかどうか分からなかったからだ。それに、何をすれば、あたしの中のその感覚を刺激できるのかも分からない。
結局、下井先生のその授業が終っても答えは見つからず、あたしは依然悩み続けたままだった。