呪いの黒板-1
二年生の頃、私は、山中理恵さんという女生徒と仲が良かった。
初めの内はそれほどでもなかったが、話している内に、何と言うべきなのか、私達の間だけでの共通理解のようなモノが生まれ、そしてその共通理解が発展し展開していく経過で、私達の交友関係も深くなっていった。
私は、多分、とても珍しい部類に入る女の子なのだと思う。今時の女子高生は、きっと、難しい事だとかに思いを巡らしたり、社会問題について考えるなんて事滅多にしないのだろうけど、私は違うのだ。常日頃から様々な事を色々と考えてしまう。だから、他の生徒たちとの間に溝を感じていた。でも、その山中理恵さんという女生徒だけは違っていて、彼女も、私と同じ様に色々と考えてしまう癖を持っていた。
だからだろうと思う。
私達が仲良くなれたのは。
それには、下井先生という変わった授業を行う先生の存在も大きく関係していたろうと思う。この先生は、一般の見解にはあまりない、変わった観点から物事を捉えているようで、だから、その授業内容もとても変わっているのだ。そしてその変わった授業で語られる事は、一考に値するような興味深いモノである場合が多かった。だから、私達はそれらについて色々と話し合った。そしてその事で、私達の会話の内容は、随分と豊富になり、深くもなった。そのお陰で、私達は良い関係を作る事ができたのかもしれない。
三年。
夏。
セミの声。
三年生に進級をして、その山中理恵さん……、理恵とは、別のクラスになってしまった。元々私達二人とも、それほど積極的に人間関係を作るようなタイプではない。だから、人間関係を持続させる事にもそれほど執着をしない。それで、クラスが別になって会う機会が少なくなると、急速に彼女との交流は減っていってしまった。偶に、電話で話すくらいだ。
昼。
学校。
セミの音が煩くて、耳に障る。周囲にいるクラスメート達の騒ぐ声が、遠くに聞こえる。私は顎を手の平に乗せて肘を付き、一人っきりで前を見ていた。教室の風景の何かを見ている訳じゃなくて、ただ単に“前”を見ていた。なんとなく。
この場所にいるのは、私一人だ。
そう思って。
暑さで汗がべっとりと体に纏わりつく。腿がその所為で椅子に貼り付いているのがとても不快だ。
この季節の太陽は、ちょっと無遠慮過ぎやしないか。
と私は思う。
窓際の席にいる私に、そのきつい陽射しは直に容赦なく降り注いでいた。
別に、避けられている訳じゃないし、避けている訳でもない。だから、全く孤立してしまっているという訳でもない。だけど、私の考えている内容に誰も合わせられないだろう事を私は知っていて、皆の話し声が聞こえる中でその事を自覚すると、やっぱり私は独りだと思ってしまう。
私は独りだ。
私が考えている色々な事を話すと、皆はきっと、変な目をして私を見る。
理恵のような人間は中々いない。
“自分”だとか、“成長”の話題で、理恵は私が、“気持ち”だとか“感性”を中心にそれを考えるのが好きだと指摘をした。私はその時確かにそうだと思った。私は感性や感覚といったものを中心にして人間を観るのが好きだ。私はずっとそれを何でなんだろう?と考えて来た。そして、その正体とその意味も考えて来た。
……最近になって、それと関係のありそうな、面白い言葉を見付けた。
女性原理。
偶然に、何か分厚い辞典の中で見付けたのだけど、その説明を読んだ時、私はそれで蒙が啓けたかのような感覚を覚えた。
協調性、温和、感情、気持ち。
そういった事々から物事を捉える概念を、総じて“女性原理”と呼ぶのだそうだ。ただし、もちろんこれは、私がそこに書いてあった事を私なりにそう理解し表現しているだけなので、詳細を言えば違うのかもしれない。
これには“女性”という言葉からも分かるように、対になって、或いは相補的なものとして“男性原理”という概念も一方に存在する。こちらは、闘争性、合理性、規則、秩序、といった事々から物事を捉える概念の事であるらしい。
ただし、女性原理、男性原理という名前が冠せられているからといって、生物学的な意味での性別がこれにそのまま当て嵌まる訳では決してない。女性だからといって、女性原理を強く持っているとは限らないのだ。では、私の場合はどうなのか?私はそれを考えてみた。この二つの内のどちらか、と言うのであれば、私の思考自体は恐らく合理性を追及するものだろうから、“男性原理”になるのだろうと思う。しかし、私がその思考で常に扱おうとしていたもの、重要であると考えていたものは、きっと、“女性原理”だったのだろう。
私は、男性原理観点から、女性原理を観ていた。
山中理恵さん、そういえば、彼女はどちらかと言うと、男性原理を観ていたように思う。
ただ、そこまで分かっても、決して全てを理解した訳ではない事に、私はその後で気が付いた。否、それどころか、ほとんど理解してなんかいやしない。
女性原理というモノが何なのか、その正体について私は全く分かっていなかった。それが一体何から生じるモノなのか、生得的な脳の作りか、後天的影響か、それも分からない。否、そもそも、そんなモノが本当に存在するのかどうかすらも分かっていない。
権利、という言葉がある。
本来ならば、そんなモノは存在しないが、人間社会は自分達の都合によりそれを創りだし、存在するモノとして扱い、そして使用し役立てている。これは何も、権利、だけじゃない。通貨だってそうだし、社会倫理だってそうだ。ならば、“女性原理”だって、それに類するモノである可能性がある。そんなモノは本当は存在せず、私達が創り出してしまっているだけのモノ、という可能性が。
文化の生み出した、文化の中だけでの事実。
だから、私は“女性原理・男性原理”を知ったその時から、それを中心に皆を観るようになった。それが本当に存在するのかどうかを確認する為、皆をよく観察するようになったのだ。
人の言動の訳、行動の基にしているモノ、何を中心にしているか。ある人は明かに協調や共感をする為に発言をし、ある人は自己主張や挑戦の為に言葉を発していた。その差異がどの程度認められるか。はっきりと、“女性原理・男性原理”を識別して観察できるかどうか。
その結果として、私は、“女性原理・男性原理”はしっかりと存在するモノだと認識するに至った。
そう。
確かに、人々の特性として、それはあるように思えたのだ。
……二年の頃ならば、こういった結論を出した時、いつも傍には理恵がいた。彼女に、私はその事を語っていただろう。
しかし今は、私の胸中にしまっておくしかない。
セミの音。周囲の声。遠い。遠くに聞こえる。
誰にも話せない。
意識的に避けている訳でも、避けられている訳でもない。でも、そういった、クラスの皆を観察するような視線で、まるで実験対象のように彼らを観てしまっている私は、無意識の内に彼らとの関わり合いを避け、そして、そんな態度を敏感に感じ取っている彼らに私は、無意識の内に避けられているのかもしれなかった。
そして、赤裸々に自分の考えを話せないのであれば、その溝は埋まらない。埋まりそうにないように、私には思えた。
理解されないから孤独なのか。理解してもらおうと思っていないから、孤独なのか……。
しばらく、前を見ながら誰とも口を聞かず、じっと座っていると、女生徒の二人が、私の所にまでやって来た。
どうも、彼女達は何か言い争いをしていたらしく、その言い争いの決着が上手く付かなくなってしまった為、それを第三者である私の手に委ねるべく、そうしてやって来たらしい。
「聞いてよ、鈴谷さん」
高科さんという、中背の女生徒がまずはそう言った。
その通りだ。取り敢えずは、聞いてみない事にはしょうがない。
「うん。なにかしら?」
私がそう言うと今度は、競うように、背の高いもう一人、雨宮さんという女生徒が口を開いて説明を始めた。
「こないだね、皆で旅行に行ったのよ、その時にね……」
……その事のあらましは、大体このようなものだった。先日、皆で旅行に行った帰り道、そのメンバーの内の一人が、突然もう一箇所寄りたいと言い始めた。しかし、皆で話し合ったが、そのまま帰りたいと言う者もいて、結論は中々出なかった。結果、寄る組と帰る組とに分かれる事になったのだが、そんな事を言い始めなければ、と、その寄りたいと主張した一人は反感を受ける事になってしまった。しかし、帰った後で、その一人が実は、途中から、そんな事を自分が言い始めなければ、と後悔をし、それを取り消したいと思っていた事を告白をしたのだという。その場の雰囲気に呑まれ、それが言い出せなかっただけだったのだ。
それを聞いた高科さんは、許してあげるつもりになったらしい、それどころか、不器用なその一人を可哀想に思いもした。しかし、雨宮さんの方は、本人がどんな気持ちでいたって関係ない、結局皆に迷惑をかけたのだから一緒だと、そう主張したのだという。
結果、言い争う事になってしまい、どうやら、それでこじれてしまったようだ。
「鈴谷さんなら、冷静に判断が下せると思って、ねぇ、どっちの方が正しいと思う?」
私は、その話を聞きながら考えていた。
「そうねぇ…」
これは、“女性原理・男性原理”だ。
高科さんの方は、相手の“気持ち”を中心に捉え、その是非を決定している。これは女性原理的だと言える。一方、雨宮さんは、実際的な“行動”を中心にして、判断している。こちらは、男性原理的だと言えるだろう。
しかし、私はそう分析しながらも思った。
さて。でも、どうやって、それをこの二人に説明したもんかな……、
溝。
話せないから埋まらない、溝。
理解してもらおうと思わないから……
……もしかしたら、これはチャンスなのかもしれない。
それで、私は、
「うん。つまり、高科さんの方は、相手の“気持ち”を中心に捉えていて、雨宮さんの方は、相手の“行動”を中心に捉えている訳なんだね」
そう語ってみることにした。
ただ、女性原理・男性原理という言葉は敢えて使わないでおいた。この言葉を言ってしまうと、それを説明する事から始めねばならず、却って混乱するだろうと思ったからだ。
それを聞くと、彼女達二人は不思議そうな表情を見せた。
目を丸くしている。
全く予想していなかった返答だったのだろう。
「なら、話し合いが上手くいかないのも当然よ。だって、そもそも判断基準が違うのだから。その基準を揃えないと、いつまで経っても話し合いは平行線のまま」
間ができた。
彼女達は、私の言葉に付いてこられてはいない。
その間で、私はそれを実感した。しかし、最早、そこで説明を止める訳にはいかなかった。だから、説明を続けた。
「物事を判断するのにはね、何か基準が必要なの。そうじゃないと何にも決められないんだな。それは言い換えればね、基準が変わってしまえば、物事の見え方は全く変わってしまうって事でもあるのよ。だから、基準を別にしたままでは、話し合いは成立しないの」
すると、不思議そうな表情のまま、高科さんが口を開いた。
「つまり、わたしは、相手の“気持ち”を判断基準にしていて、雨宮さんは、相手の“行動”を判断基準にしているって事?それで、だから、基準が違う私達の話し合いは上手くいかなかった?」
なんだ、理解できているじゃないか。
私はその言葉で、やや安心をしながら頷いた。
「そう」
「でも、じゃあ、どっちが正しいってどう決めれば良いわけ?」
続けて、高科さんはそう言う。
「うーん、そうね。どちらの基準を優先させるべきなのか、まずはそれを考えるっていうのはどう?」
それに対して、わたしはそう言ってみた。
すると、背の高い雨宮さんが見下ろすような角度、座っている私にとっては、当に頭の上からこう言って来た。
「つまり、“気持ち”を中心に考えるべきなのか、“行動”を中心に考えるべきなのか、それから考えろって事?」
「そう」
私はまた頷く。
「どちらを中心にして考えたら、この場合結果は良くなるのかしら? あなた達にとって」
その私の言葉を聞くと、二人とも黙った。そして、しばらくが経ってから、高科さんがこう口を開いた。
「取り敢えず、皆の間にできた悪い空気を静める為には“気持ち”を中心に考えなくちゃ駄目だと思う。彼を許して上げなくちゃ、この空気は変わらないわ」
私は微笑みながら黙って頷く。
しかし、そこに反論をするように、雨宮さんが言った。
「でも、また皆で旅行に行って、同じような行動を執られても堪らないわ。このまま許しても駄目だと思う。皆に迷惑をかけたのは事実なんだし」
「そうね、それもその通りかもしれないわね」
私はその主張にも頷く。
「では、どうするべきだと思う?」
そして、それからそう問い掛けてみた。
また、沈黙。
私は、指で机をリズムを取るように軽く叩き、その沈黙の間をはかった。そして、言葉が出ないのを確認すると言葉を発した。
「許す事はどうしてもしなくちゃならない。そうじゃないと、皆の間に漂っている悪い雰囲気は消えないから。でも、だからって、このまま許す訳にもいかない。“行動”でそれを示してもらわなくちゃ。なら、取るべき結論は一つなのじゃないかしら?」
二人は私に注目をしていた。そして、何も言わないでいた。恐らく、私の言葉を待っているのだろう。既に発言する気をなくしているのだな、私に依存している。私はその二人の視線からそれを感じ取ると、少しの間の後に口を開いた。
「これは、飽くまで私の意見だけど、その人にできれば謝ってもらうというのはどう? それが気まずいというのであれば、せめて、これからはもう、旅行の途中にそんな我侭は言わないって約束だけでもしてもらう。後悔していたって事を皆に告白している訳なのだから、それくらいはできるはずでしょう? そして、その上でその人の事を許すの。これでどう?」
つまりは、女性原理も男性原理も両方活かすべきなのだ。それらは、本来相補的なものであって、相反するものでは決してないのだから。
二人は私の言葉を受け取ると、「ああ、なるほど」といった顔をした。
私は微笑みながら、こんな言葉を追加した。
「相手の“気持ち”を中心に考える事も、相手の“行動”を中心に考える事も、どちらも重要なのよ。だから、その二つをぶつけ合うのじゃなくて、共存させてやる道を選択するのが一番なんじゃないかと思うんだな。私は」
問題行動を執ってしまった相手に謝ってもらって、そして、もう二度とそんな行動は執らないと約束をしてもらう。これは、“気持ち”で相手を許しているその上に、ルールでの決定を持ち込み、解決をする、といった発想だ。
考えてみれば簡単で、誰にでも至れる結論であるはずだ。でも、場合によっては、それに目隠しがされてしまって、そんな事も分からなくなってしまう時がある。例えば、彼女達みたいに、話し合いがこじれてしまった時だとか。その興奮に流されて。
私がそれだけの事を言い終えると彼女達は納得をしたみたいで、私に礼を言うと、それからまた離れていった。
私はそれで、再び独りきりになる。
そして、独りきりになった後で思う。
今の彼女達は、私の事をどう思ったのだろう?と。お礼は言われた。でも、彼女達の中に受け入れてもらえている気はしない。多分、私は彼女達の外にいる。ある程度、私が他の人から認められている事は確かなのかもしれない。それが傲慢に歪んだ誤った判断じゃなければ、正しい認識であるはずだ。だから、こんな風に相談事を持ちかけられたりもする。しかし、否、だからこそ、私は彼女達にとって、外にいる存在なのかもしれない。
私は、普通の女の子が言わないような言葉を口にする。口にしてしまっている。彼女達は、それに感心をしながらも、そんな私を偏見の目をもって観ているのじゃないだろうか? 変な目で見ているのじゃないだろうか?
考えすぎかもしれない。
でも、
……少なくとも、“同じ”だとは思われていない。