夢隠し-1
社会。
下井先生の授業。
その日の下井先生の授業内容は、いつもよりも、少しだけ難しかった。
「社会というものは、個人から集団。集団から個人。というように、個と全体が相互作用する事によって成り立っているのです。ですから、社会からの影響を個人が一方的に受け続けるだけでは、社会は発展をしません。個人が集団に影響を与えなくては、社会は前には進めないのです」
ただ、難しくはあったけど、下井先生はその布石となるような内容を、今までの授業でたくさん喋って来たから、まるで理解できないといった程ではなかった。
少なくとも、わたしには。
凛子との間で作り上げて来た、共通理解。その中にも、その下井先生の授業の影響はもちろん見られる。
「民主主義と社会主義のシステムの差を考えてみて下さい。民主主義は、そのシステムに則り、問題はもちろん多数存在しますが、発展をし続け、一方、社会主義は、そのほとんどが崩壊を迎えたと言っても過言ではないような状況です。何故、これほどまでの差が、この二つに生まれてしまったのか?その理由は一体何処にあるのでしょうか?」
いつになく、下井先生の今日の授業は静かだった。皆、静聴している。随分久しぶりに、社会の授業らしい事を下井先生が言っているからかもしれない。
――民主主義と、社会主義の差?
わたしは、下井先生の説明を聞きながら、考えていた。
民主主義は市場原理を積極的に有効活用し、社会主義はそれをしてこなかった、という事になるだろうか?
今まで、習って来た一般的な見解ならば、恐らくそんな感じで良いと思う。
しかし、下井先生がそう言うとはわたしには思えなかった。下井先生ならば、もっと違う捉え方をしていて、違った事を言ってくれそうだ。果たして、これから下井先生が何と言うのか、わたしは、非常に興味がそそられた。
下井先生の言葉が続く。
「民主主義は、選挙システムや、或いは市場原理を活用する事によって、個人の影響を集団へ、つまり社会へ伝える事を、積極的に行ってきました。それに対して、社会主義は、個人の影響を社会全体に伝える事をしていません。社会が発展をする為には、個人から集団へ影響を伝えなくてはいけないのに、それを行ってこなかったのです。これでは、崩壊してしまうのは当たり前でしょう。熱力学第二法則というモノがあるのですが、これは、放っておけば、物事は崩壊に向って進んでいってしまい、その逆はない、という法則なのです。個から集団へ影響を伝え、社会を発展させなくては、社会が崩壊するのは必然なのです」
その説明をした後、下井先生はしばしの沈黙をつくった。
ちょっと困った顔をしている。
恐らく、自分が飛ばし過ぎて、難しい内容を急いで語り過ぎた事に気付いたのだろう。
これでは、みんなが付いて来られない。
えっ………、と。
わたしは、その沈黙の間を利用して考えていた。
つまり、先生は、民主主義のシステム。選挙や、通貨による資本主義経済は、個人から集団へ、影響を伝える効果がある、と、そう主張しているのだろうか?
「簡単に説明しましょう。
例えば、トップに立つ人間が、何か圧政を行っていたとします。すると、人々には不満が溜まり、やがて、それが限界を迎えれば、反乱が起き、そしてシステム全体が崩壊をしてしまいます。ところが、民主主義の場合、人々に不満が溜まれば、選挙によって、直ぐにトップは変わってしまうのです。すると、生活が変わり、人々の不満は解消をします。だから、大きな反乱などは起き難い。そして、それによって、システム全体は崩壊に至らず保たれるのです。変革を、急激にではなく、常に少しずつ行っているのが、民主主義なのですね。そして、もう一つ、通貨の流通が大きな特徴としてあります。資本主義経済の事を詳しく述べると、難しい説明になってしまうので割愛しますが、“通貨”というものが、投票券に例えられる場合もある事は述べておきましょう。“通貨”を遣って、あなたたちがその商品を消費すれば、当然、それは社会全体へと伝わり、影響を与えるのです。私達がお金を遣ってその商品を求めれば、どんどんと、その商品は生産をされる事になります。逆に、その商品を求めなければ、生産される事はなくなっていく。つまり、個人は、通貨を遣う事によって社会へ影響を与える事ができるのです。例えば、だからあなた達が、環境問題に配慮した商品を需要し消費するのであれば、社会の環境問題は改善していくのです」
それが、簡単な説明であったかどうは別にして、わたしは、そのお陰でなんとなくイメージできた。
つまり、自分達を、少しずつ壊し、新しく創り直して進んでいく、その為のシステムを内包しているのが民主主義な訳か。………。言論の自由があって、様々な事が主張され易いのも、それに一役かっているのかもしれない。
つまり、自分を壊せないと、自分の存在を疑えないと、“自分”というものは、成長する事ができないのだ。
これは、もしかしたら、社会も個人も同じなのかもしれない。
自己否定。
変革を求める心理。
自殺。
以前、わたしが考えていた事と、なんとなく、関係してるようにも思える……。
「ただ、もちろん、それが機能しないような状況下になったのなら、民主主義のメリットはなくなってしまいます。選挙というものが無意味になり、個人から集団への影響がなくなってしまったのなら、民主主義の世の中だって酷い事が起きます。いえ、それだけじゃないかもしれません。システムとしての欠陥を、様々な民主国家が抱えている事は事実でしょう。それは克服していかなくてはならない」
そして、もちろん、それを克服する力になる事ができるのは、わたし達個人だけである訳か。
わたしはそれを聞きながら思う。
でも、わたし達は、本当にその力を持てるのだろうか? 集団の影響に曝されて、そのままなのなら、それは個人とは言えない。“自分”がない人だって、この世の中にはいっぱいいる。社会へわたし達が影響を与える為には、その前にどうしたって、“自分”が必要だ。
では、どうすれば、わたし達は、“自分”を持てるのだろう?
わたしは、今まで“自分”がなければ駄目だ、それは絶対に必要なんだ、とさんざん結論出してきた。しかし、どうすれば“自分”を持てるのかまでは全然考えて来なかった。だから、その為にはどうすれば良いのか、……分からない。
下井先生の説明は続いた。
「この日本社会を考えるのなら、集団主義社会である事のデメリットがネックになる場合が問題として考えられます。集団主義社会の特性の一つに、“共感”する事を重要視するというものがありますね。それぞれ個人個人が皆で、“同じ”になろうとするのです。“同じ”にです。何か、大きな変革を社会に齎すような主張は、――今までと“同じ”では社会は何にも変わらないので当然ですが――、周囲とは異なった主張をする存在によってしか為される事はありません。ですが、集団主義の“共感”し“同じ”になろうとするその特性は、その異なった存在を潰してしまうのです」
例えば、わたしがこの今喋っている下井先生の話を疑いもせずにそのまま信じる場合、それは果たして、“自分”の考えであると言えるだろうか?
……そういえば、権威や何かの効果で、学者だとかの話をそのまま信じる場合、それはしっかりとした自分の考え方にはならず直ぐに変わってしまい、自分でさんざん悩んだ挙げ句に出した結論は、しっかりと自分の考え方になるのだと、確かそんな事を、凛子が以前に教えてくれた。
ならば。
“自分”の考えであると言える、考え方。それを持つ為には、まずは疑わなくちゃいけないのじゃないか?
自分を成長させる為には、“自分”という存在を疑わなくちゃいけない。さっき、自分で、わたしはそう結論出しもしていたじゃないか。
「つまり、日本社会の、その集団主義という特性は、社会を、自らの力で進歩発展させる能力を奪っているのです。実際に、日本における思想や概念という抽象的なモノは、全て海外からの輸入で、真似たモノだと言われています。恐ろしい事に、これだけの長い歴史を持つにも拘らず、日本社会は独自の思想と呼べる物を作り上げては来なかったのですね。そして近年でも、その特徴は変わりません。優秀な人物が、日本国内では全く評価をされず、海外で評価をされ、初めて日本社会で評価される、といったケースが今までに一体どれくらいあったでしょうか? 無名な人間がノーベル賞を受賞してしまうといった、恥ずべき事態だって起こったではありませんか。実質的には、ノーベル賞を受賞する以前も以後も、その人の功績はなんら変わる事はなかったはずです。であるにも拘らず、ノーベル賞を受賞した途端に、皆で喜び称え始める。“共感”する事を重要視する日本社会には、個人を評価する能力がないのです。だから、そんな事だって起こってしまう。周囲が評価をして、その評価を真似、初めてその人を評価し始める。これでは、独自の思想が生まれ難いのも当然です。独自の考えを主張する者は、評価を受ける前に異物として潰されてしまうのですから」
下井先生の長い説明を聞いて、一端、わたしは自分の思考を停止して、それを整理してみた。
評価、する事すら、“共感”で決定をしてしまうのか。明かな実績がある場合でも、それを。
個人を評価できないから、集団へ個人の影響を伝える事ができない。その為、自ら進歩をする能力がなく、他の社会を真似する事でしか自らの社会を変化発展させる事ができない。
この日本社会は。
……これは、正しいのだろうか?
以前にわたしは、戦前は鬼畜米英だとか一億総玉砕だとか叫んでいた日本人が、戦後になると、手の平を返して直ぐに、アメリカ様〜となった、その戦前戦後の態度の余りの変化から、日本社会は“自分”がない人間の集まりじゃないか、――あの、カメレオンに本当の色はあるのか?と例えた話だ――と思った訳だけど、その考えは、この下井先生の説明と一致する…。
な。
(正しいのかもしれない)
と、そしてそう考えてから思った。
……これは、下井先生の言った主張を確かめているんだ。わたしが。つまり、下井先生の考えを疑っているんだ。わたしは。
そうして、下井先生の考え方をわたしは、自分のものにしようとしているのだろうか?
疑う。
どう足掻いたって、自分の中に発生するその何かは、最初は、周囲からの影響によって発生している。たくさんの人間達や、様々な事象からの影響を受けて、その関わり合いの中でわたしが形成されていくのは、まず疑いようもない事実だ。
ならば、“自分”だと思っているそれは、本当は“自分”じゃないのかもしれない。結局、周囲の投影なのかも。
そうか。
だから、疑う必要があるんだ。
否、
或いは、それは、こういう事なのかもしれない。
“自分”を成長させる為には、“自分”を疑わなくちゃいけない。それと同じ様に、“自分”を創り出す為にも、“自分”を疑わなくちゃいけない。
或いは、この二つは、全く同じ事を言っているのかもしれないけど……。少なくとも、関係がある事は事実だ。
「この日本社会の特性は、通常の状態でもかなり問題ですが、場合によっては危険ですらあります。何故なら、海外の真似をしても解決できない、日本社会独自の問題も在るからです。その場合日本は、どうしても、自らの力で進歩しなくてはならない訳ですが、この特性を抱えたままでは、それはできません」
下井先生の言葉に、わたしは心の中で頷く。
つまり、その、日本社会の特性は何としても克服しなくてはならない訳か。そして、それは、“自分”を形成する事とももちろん繋がって来る。
…この今のわたしの思考は、自分の考えと下井先生の思考が同じだった事で、それに“共感”しているんだ。では、これは、果たして“自分”の考えと言えるだろうか?
“自分”を作る為には、“自分”を疑わなくちゃいけない。
それが正しいのなら、それは違う。
これだって疑わなくちゃいけないんだ。他人の思考が自分の考えと同じで頷いて共感して受け入れたって、それを傲慢に信じ込んじゃいけない。半信半疑で、いつでも、それを壊す心の準備はしていなくちゃ。
「さて。今語った問題は、むしろ民主主義システムの本質的な部分の外にある問題だった訳ですが、民主主義システムの本質的な部分にだって、問題は隠れている可能性が大きいでしょう。個人から集団へ影響を伝えるシステムを、民主主義が持っているとは言いましたが、個人の中の、全ての影響を集団へ伝える事ができている訳ではありません。それと、特に資本主義経済システムの部分。これは問題が隠れているというよりは、或いは、まだそのシステムの本当の意味と特性を理解していないとするべきかもしれませんが、その為に問題が発生し易く、実際に解決すべき問題は山積み状態なのです。
さて。
今の世界は、このように、まだまだたくさんの問題を、抱えています。つまり、だから、社会を前へ進めなくてはいけない。そして、その為には、もちろん、あなた達個人が動かなくてはならないのです」
そして、その為には、わたし達個人が、“自分”を持たなくちゃいけない。
わたしは、下井先生の語りに合わせて、それに応えるように、心の中で、そう言葉を唱えた。
「社会を前へ進めるのは、“個人”である、あなた達である訳なのですから」
そして、その、下井先生の言葉が終るのと同時だった。授業の終了を告げるチャイムが鳴る。
わたしは、そのチャイムが鳴り響いている中で、考えていた。
“自分”をわたし達が持つ方法も、よくは分からないけど、でも、もう一つ疑問がある。
わたし達が“自分”を持てるのだとして、それで、それからはどんな影響を、社会へ与えたら良いのだろう?
どんな影響でも良いという訳でない事はもちろん、分かっている。自分勝手な主張では駄目だろう。でも、わたし達個人の生活を良くする為には、わたし達自身の為の、わたし達に合わせての主張だって必要だ。
では、その境界線は何処にあるのだろう?
否、自分勝手な主張というモノを社会へ向けて展開しても、結局、消えてしまうのだろうか?だから、その境界線は考えなくても良いのだろうか?
違う。そうとばかりも言えない気がする。
自分勝手な主張じゃなくても、社会の考え方から反していれば、否定され、潰されてしまうといった場合も、頻繁にあるし。
日本の戦時下、戦争反対を訴えて社会から蔑視されてしまった人達。社会の為になる主張であっても、社会と異なっていれば、否定されてしまう。
エゴに満ちた間違った主張がされて、間違った考え方が蔓延をして、何か悲惨な出来事が起こる事だっていっぱいある。
関東大震災の時、朝鮮人は虐殺をされてしまった。ファシスト。ナチスのユダヤ人虐殺。その他、諸々の、凄惨な歴史的事実が、それを証明している。
“自分”を持ち、社会を見据える。そして、社会へ影響を与える。
多分、ただそれだけじゃ駄目なんだ。
正しい目で、それを見なくちゃ。
(正しい目?)
でも、正しい目って何だろう?
………。
“分からない”
な。