お手玉ひとつ、文通。
北風がカラカラと乾いた音立て、道の落ち葉を搔き回す冬の頃、高い熱を出した私は、気まぐれな風が音立て吹き、咲き誇る花々を痛みつけ散り染めにする春になっても、ぐすぐすと身体がすぐれぬままでいた。
それは皐月になっても変わらない。榎が芽吹き、燕が燕尾を着込みツイ、ツイ、滑空の孤を空に地に、描く季節になっても。
気管支を少しばかり痛めたのか、埃や冷たい風の流れを吸い込めば、ゲホゲホと激しく咳き込み、ところ構わずハンケチを強く当て、口も鼻も塞ぐ有様。感染ると思われ、あから様に避ける人々。ソレは館に仕える召使い達もそう。
両親と年離れた妹と、未だに『坊っちゃん』と呼ぶ乳母やだけは違っていたけれど。
これでは将来に差し障ると慌てた、都会生まれの両親がさる筋を頼り、療養話をようようまとめる。
埃っぽい街中の館から、空気の良い静かな田舎の屋敷へと、乳母を伴い静養に出された。
数日前、ようよう汽車と車を乗り継ぎ、辿り着いた私達。用意されていた離れに通された。張り詰めていたのが一度に解けたのか、それ程長くない旅だったのにもか関わらす、鉛の様に重く硬い疲れが来た為に、どこもかしこも悲鳴を上げててしまう。
水無月だというのに、ヒタヒタと足元から忍び込む冷気が街より強く感じる夜になると、咳き込みが一層酷くなる。併せて幾らか熱も出ていた。なのでしばらくの間、通された離れから出ず、寝込むことになってしまった。
こんな事で静養になるのか?医者を生業にしているらしい、屋敷の主の診察を深夜に受けた後、ハトロン紙に包まれた粉薬が処方された。ソレを白湯で飲み下しながら、前とは比べ物にならない、自分の身体が情けなくなる。
「疲れが出たのだろう。休めば良くなる」
「はい、すみません……、手間をおかけして」
「気にしない。医者と言っても、僕は世のため人のために学んた訳じゃないらね。確かにこの集落の診療所で働いてはいるが……、君の病には気鬱がいけない。楽に過ごしなさい」
鷹揚に話す主の彼は、ゆるりで立ち上がる。足が少しばかり不自由なのか、歩みが片びっこだった。同じ年だと聞いている彼は、私より年上の雰囲気を持っていた。
ケロロケロロ、ルルルル、ケロロケロロ、ルルルルル……。
……、どこからか聴こえる鳴き声。夢を見た。街の館に居る妹の夢だ。
「お兄さま、大丈夫ですか?」
伏せっている私を案じ覗き込む、黒水晶の様な澄んだ瞳。大丈夫だと言いたかったのだが、口の中はニチャニチャと嫌な熱がこもり、唇はサカサカに乾き上側と下側が引っ付いている私は、声すら出せず、目で合図を送るだけ。
しかもその時の私の目玉ときたら、煮えた魚の様に白く固まっていたと思う。両親に下がる様、促された妹。薄らと視界に入ってくる妹の顔。緋色の友禅を着込み蝶々の精みたいな彼女が、ホロホロ涙を零しながら寝付けぬ私に何か感じたのか、子守唄をひと節残す。
『雪洞灯りが、空ひとつ、月の灯りは優しくて、かあさん、いい子いい子と、坊やの頭を撫でている、おやすみなさい、ねんねんころり、かわいい子……』
透き通る様な声が。それに導かれる様にその時眠った私。
何処からか、途切れとぎれに流れてくる歌声。熱が高いのだろうか。妹の澄んだ声が聴こえた気がした。優しく冷えた物に、ふわりと包まれる気がした。
再びソレに導かれる様に、コトンと眠りに落ちた。
ぐっすりと眠れたのか良かったのか、彼の見立て通りに、二日程過ぎたら熱も下がり、しつこい咳き込みも幾分、マシになった。
「坊っちゃん。お医者様がお散歩は欠かさず、とのお話ですよ。婆は晴れ間にお庭を拝見してきましたよ、良い所ですねぇ」
運ばれて来た朝食の膳を共に取りながら、のんびりと話す乳母や。
「静かだね」
箱膳の上には、艷やかにぽってりと濃い白粥、椎茸と切り昆布の佃煮、甘い卵焼きにはピリリと辛い、早生の夏大根のすりおろしが、盛り塩の様に形を取っている。和布の味噌汁、漬物の小皿。
ぽつぽつと食べ進める私。
さっさと口に運ぶ乳母や。
「坊っちゃん!お若いのですから、婆よりも沢山食べて下さいよ!独りでお召し上がりになると、とんと箸が進まないので、こうやって婆も一緒に取っているんですから。以前は朝昼晩と必ず、お代わりをされてましたのに……、お粥ですのでせめてもう一杯召しあがって下さいまし」
茶碗一杯の粥を持て余している、私を見て咎める乳母や。懸命に運んでいるのにへらぬ白粥。箸や茶碗に食べても食べても減らぬ、呪いでもかけられてるのではないかと思っている。
「乳母やは美味そうに食べるねぇ……、うーん。頑張ってみるよ」
「勿論、おかずも食べるのですよ。朝から卵焼きがつくなんて、贅沢ですねぇ」
「ええ!お代わりに全部?無理だよ。せめて、どちらかにしてもらえないか?」
情けない提案を出した結果、粥のお代わりを免除してもらう代わりに、箱膳の上の皿をできる限り空にする事になった。ホッとしつつもえらいこっちゃ。お代わりの方が楽だったか、後悔しつつ、懸命に卵焼きやら佃煮を口に運んだ私。食後の茶を出される頃には、すっかり草臥れ果てていた。
「お腹いっぱいで動けないよ」
差し出された粉薬の包を受け取りながらぼやく。
「時間はありますよ、今日は晴れるとの予報だそうです。なので婆はこの後、井戸をお借りして洗濯をします。お休みになられたら、お庭を散歩なさって下さいまし、部屋に籠もって本を読むばかりでは、お元気になられませんよ」
台所が無い離れ。食事の支度のみ母屋で頼んであるらしい。ここに来てからも乳母やは、伏せった私の看病をしながら、離れの廊下を拭いたり、洗濯をしたり、時々に庭掃除や台所を手伝っている様子。
若いときからそうだった。くるくるクルクル、仕事を見つけて独楽鼠の様に働く乳母やは、私のもう一人の母であり、大切な家族。
彼女の為にも、早く元の身体にならなくてはと、そう思う。
元は御殿医だったという先祖が、隠居する為に造らせたというそこは、白い築地に囲まれた敷地に、田舎の野山を切り取った様な庭。引かれた小川に続く池には、綺麗な鯉がいると乳母やが教えてくれた。
平屋建の立派な母屋、仮住まいをしている小さな離れ、裏庭には白い漆喰が美しい蔵と、際に植えられている大きな枇杷の木がある。
蔵の軒先に届く程、育っている枇杷の木は、自由奔放に枝葉を伸ばし、電球型した橙色の夏の果実になる実の花を梢に咲かせていた。
「枇杷の木だ」
皮を剥き食べるソレ。出入りの果物屋が季節になると、持ち込んでいるそれ。売り出す時期は短いですよと、聞いた事がある。
旬にこだわる母は必ず買い求め、少しばかり冷やし、蒼い海の色をした、切子細工の硝子の器にコロンとひとつ、ふたつ。丁寧に皮を剥かれたそれは、食後に出される夏の味。
苺の様な柔らかな食感でもなく、林檎の様にシャキシャキでもなく、蜜柑のように酸味が有るわけででもなく、硬く赤茶色の種をドンと中に包んでいる、橙色した薄ら甘い果肉は目を閉じて齧れば食感は、何処か野菜に似ている感じもする。
陽射しがさんさんと降り注ぐ、表の庭から逃げてきた私は、幾分ひんやりとする裏庭の蔵前の枇杷の木の下で、蔵の壁を背負い立っていた。休みがてら、裏銀の葉の間からチロチロ姿を見せている、地味な花を見ていると。
ぽ、と……。
「え?なに?ええ?」
風が吹いたわけでもない。鳥が居たわけでもなく、蔵には二階に座敷でも有るのだろうか。黒鋼の格子がはめられた、四角い窓に入り込む様に枝を伸ばし枝葉が入る様なそこから、緋色のお手玉がひとつ落ちてきた。
慌てて手を差し出す。柔らかい緋色がひとつ、落ちてきた。
「何処から?」
ト……、スン。音立て、椀のように丸くした手の中に入り収まる、お手玉。
……、スッ。目の先にある蔵の窓に動く色。
妹が好きでよく着ている、そしてお手玉と同じ、緋色の袖口が引くように動いたのが、チラリと見えた気がした。
持って帰ったお手玉をひとつ。文机の上にそれを置いた。
「お帰りなさいませ。うふふ、婆はお台所をお借りして、甘夏で寒天寄せを作ってみましたよ、坊っちゃんお好きでしょう、おや、お手玉」
三時、お茶と共に、涼やかな寒天寄せを運んできた乳母やが目ざとく見つける。
菓子皿の上に紅葉の青葉を一枚、その上に果肉を閉じ込めた四角い菓子が、ちょこんと座っている。
「うん。枇杷の木の下に落ちててね、拾ってきた。ああ、きれいだね、美味しそうだ」
「ありがとうございます。裏庭にありますね。枇杷。私は初めて花を拝見しましたよ。奥様が必ずお買い求めになられますね、枇杷の実。かの子様もお好きですね」
「うん。そうだね。なんだろう。葉書を書きたいな。このお手玉を描こうか、それとも枇杷の実を描こうか。用意出来る?」
かの子様がお好き。この言葉を聞き里心が頭を持ち上げた。ツ……、と胸を衝く。そういえばここに来てから、知らせを送っていない。元気でいるからと、思ってくれているだろうが、絵葉書を送ればきっと。
妹が受け取り喜ぶ顔が浮かぶ。
頼んでみますね。と請け負った乳母やは、いそいそと母屋へ向かった。夕飯の膳と共に、使い古しですがと届けられた水彩画の道具。新しいペンとインクと葉書が数枚。有り難く借りる事にする。
ケロロケロロ、ルルルル。ケロロ、ケロロ、ルルルルルル。
蛙と言えばゲコゲコだと思っていた私は、開け放たれた縁側から聴こえる、池に住んでいるという、カエルの声に驚きを隠せない。いつくか種類がある様だが、ここのソレは声高く澄んだ小鳥の様な鳴き声。
「ゲコゲコじゃないんだ」
「蛙にもいつくか種類が御座いますからね、婆の里ではウシガエルが、グフゥ、グフゥと鳴いてましたよ」
他愛の無い話をしながら夕飯をつつく。
――、生姜をあしらった茗荷ご飯、豆腐の吸い物には木の芽がぷかりと浮かんでいる。蕗と厚揚げの煮物。この近くの渓流で捕れたらしい、岩魚が塩にまぶされ焼かれている。漬物に真っ赤に熟れた李が水菓子。
「蒸しているけれど、街から比べたら随分、涼しいね、身体が楽だよ」
本当に正直なものだった。やりたい事が出来たのが良かったのか。すこぶる調子が良かった。妹が好きな緋色に出逢ってから、全身の強張りが解けた気がしていた。流石にお代わりとまでは行かないが、生姜が効いて、さっぱりとした茗荷ご飯は難なく食べ切れそうだ。
「それは何よりです。婆も美味しゅうございます。坊っちゃんのおかげでご馳走三昧の日ですよ、少しばかり超肥えた気がします。困りましたね。奥様に怒られますので、坊っちゃんも丸々と太って下さいましよ」
ケロロケロロ、ルルルル。ケロロ、ケロロ、ルルルルルル。
軽口を叩く乳母やは、とても嬉しそうな顔をしている。蛙のコロコロ鳴く声が心地よい。ゆるりと時間を掛け、なんとか食べ切った、箱膳に並べられた器のそれぞれ。
「お風呂の用意をしておきますね」
膳を片付けると、着替えを風呂敷に包み始めた乳母や。風呂は母屋へと出向かないといけない。伏せっていた時は、運ばれた湯で拭浴をしてくれた。風呂に入れる様になったのはここ最近だ。時間は母屋から知らせが来てから。
空が闇の帳を引き、月が灯りを灯し、星が恥ずかしそうにその光の陰に隠れている頃、晴れてる事もあり、ほろほろと気持ち良い空気の中、着替えの包を手にし、敷石を踏んでそちらへ向かう。
心地よい空間。檜の香りが立つそこは、湯の中で立てば届く格子の窓から裏庭が見渡せる。枇杷の実のせいか、すっ込んだ緋色の袖口のせいか、気になる場所となっている。
下足番にありがとうございます。と声を掛けると。ほこほこと温もる身体を冷ましながら離れへと戻る。池のカエルの声が大きく聴こえる。
ケロロケロロ、ルルルル。ケロロ、ケロロ、ルルルルルル。
ソレに重なるかの様に、ほのかな少女の声。
『雪洞灯りが、空ひとつ、月の灯りは優しくて、かあさん、いい子いい子と、坊やの頭を撫でている、おやすみなさい、ねんねんころり、かわいい子……』
「かの子?」
立ち止まりキョロキョロとする。お気楽に鳴くカエルの声に紛れて聴こえる子守唄。よくよく耳をすませて聴くと、妹よりも幼い声の様な気がした。
スッ。引くように動いた緋色の袖口の色が、脳裏に蘇る。
離れは、私が使う縁側に面した部屋があり、縁の突き当りには厠がある。襖向こうには敷台がある玄関の板の間。その脇の乳母やが寝起きしている小部屋の造り。
それぞれに五燭の灯りか付けられているが、夜ふかし等、許されぬ私は風呂から帰ると、少しばかりお茶を頂き、本を読み乳母やと話。
柱時計が九つ打つと、早々に布団を敷かれて追い込まれる。目を閉じれば、眠りに落ちることは容易いのだが、その日は幾ら経っても寝付かれず、布団の中で転々と向きを変えていた。
用をすまそうと厠へと向かう。硝子戸の外、灯りがひとつで内外を照らす。ガラリ……、手を洗う為に戸を開ける。つくばいがひとつ、据えられている。
「てんてん、鞠つき、はじめましょ。むかし、小山のお狐さんが、たぬきに勝負を持ちかけた。てんてん鞠つき、どうなった、クルリクルリと尻尾をまわし、狐は赤いべべ着たおひいさま、てんてん鞠つき、どうなった……」
裏庭に近いからだろうか。
鞠つき歌がハラヒラ。春先に風に乗り舞う薄紅色の花びらの様に、ふわりと吹く夜風に乗り届いてきた。時折、皐月の薫風様な清々しい男の笑い声。
ただ。惹かれる。
緋色の袖口がちらつく。
ここの主の声と重なる。
靴脱ぎ石の上には、雪駄が置かれている事を知っていた。乳母やに見つかればとんでもない!と、叱責を受けるのは重々承知。足音を押さえてそちらへ向かうと、身を出せるだけの隙間を開けた。
外に出て、裏へと回った。
翌朝、傘を挿し診察に訪れた当主。少しばかり後悔している。夜、外に出たのがいけなかったのか、治まっていた咳が少しばかりぶり返していたからだ。明け方、布団の中で、くの字になり咳き込む私を見つけた乳母やが、慌てて母屋へ駆け込んだらしい。
「……、治り際が肝心、この辺りは梅雨寒なんだよ。ホロホロしない」
「気がついてました?覗き見して、ゴホゲホ。すみません、ゴホゴホ」
「この様子だと、ここで過ごすのが長くなりそうだ。晩秋迄に元気にならないと、冬のここはキツイぞ。雪が山と降るからな」
いたずらっぽく笑う彼。ホロホロ。との言葉を耳にした乳母やが、般若とはこの顔!と、言わんばかりの表情。
「退屈ならば……、妹の相手をしてくれないか」
アルマイトの洗面器で手を洗いながら、聞きたかった話を始めた。
「妹さん、お手玉落としませんでした?」
「そう。君を見つけたから、落としたそうだ。珍しい事もあるものだな。妹は度がつく恥ずかしがり屋なんだ。祖父母に引き取られた時は、この離れで過ごしていたのだが、大きくなるに連れ、人目が怖いと言い出したそうだ。どうでも蔵の二階に移ると聞かなかったんだと。あそこはハイカラな祖父が道楽で、何処で見たのか洋間を造っていたんだ」
祖父母に引き取られた。ご両親はこの世に居られないのだな、そして現当主は目の前の彼と聞いている。祖父母とやらも……。事情が見え隠れしているが、触れずに問いかけをした。
「私も妹がおりますから、構いませんが……、どうやってお相手を?」
医者の兄は私が先々聞かぬ事に、ホッとした様子を見せたあと、文机の上に用意された、葉書、ペンにインク、水彩画の道具を見やる。
「手紙をやり取りしてほしい、どんな事でもいい。絵でも街の話でも、お願い出来るかな?無理の無い範囲で良いから」
世話になっているので、否の選択は無い。でも嫌悪があるかと聞かれれば、それも否の私の気持ち。時間はあるし、気晴らしになるから良いかもしれないと、恥ずかしがり屋という妹さんのお相手を引き受けた。
最初は……。お手玉にしようかと思ったけど、何となく枇杷の実を描いた。三日ほど過ぎ、シトシトと雨が降リ続く日、顔をのぞかせた兄に手渡した。
『蔵の前でなるなる、ぽとん、と落ちる電球の実』
一言、添えてみた。同じ物をもう一枚作り、乳母やに郵便局へお使いを頼んだ。
数日後、香を焚き染めた染紙に書かれた、丁寧なお返事が届いた。
『でんきゅうの実、パッとあかるい色は、びわの色』
面白い。幼さがある文字で、書かれていたそれ。何を書こうか。気になるのか、そわそわしている乳母やに見せると、まあ、なんて可愛いいと菩薩の顔になった。
夕餉を取りながら乳母やと相談をした。
「びわの色から、始めたいね。連歌みたいにさ、書く事が直ぐに尽きそうだし……」
「そうですね、それかよろしいかと。坊っちゃんは女心がお分かりになってないと、奥様も仰ってる事ですし……、でもお相手は女の子ですよ、ちゃんと分かってますよね。坊っちゃん」
酷い言われ様に苦笑しつつ、先を考える。ふと見上げた五燭の電球。これを描こうかと思い付く。
『びわの色、天井から、下がるよ、ぶうら、ぶうら』
「まあ!なんですか、このトンチンカンは……、変な人と笑われますよ」
「二枚、作ったよ。妹にも出しといてね、こっちも添えて出してね」
かの子様がどうされたかと、おかしく思いになられますけどね。と呆れつつ、一枚は兄に手渡し蔵に。もう一枚は切手を貼られて、近況をしたためた葉書と共に街へと旅立った。
暖かいからだろうか、季節の進みが速い。枇杷の花は、何時の間にか消えてる様に見えた。葉の緑が色濃くなり、庭に植えられている紫陽花が盛りになる。返事はなかなか来なかった。乳母やの言う通り、変な人だと思ったのかもしれない。
「元気そうだね。顔色も良い。妹が悩んでたよ。変なお兄ちゃんだとね」
はい、お返事。手渡された染紙。開いてみると。
『ぶうら、ぶうらと右に左に、やじろべえ』
それから、やじろべえの絵を描いた。
『やじろべえ、かたんとさがって、てをつなぐ』
『手をつなぐ、王子さまとおどる、はいかぶり』
順調につながった。
「はいかぶりだって、かの子が好きだよね」
乳母やに見せると、そりゃそうですよ。お相手は女の子ですよ、坊っちゃん。と苦笑された。
それからもぽつぽつ、やり取りを続けていたのだが、私のトンチンカンな手紙の返事を書くのが嫌になったのか、いつの間にかやり取りはふっつりと消えた。
そして、しとしとと降る梅雨が明け、代わりに蝉時雨が降る頃。出入りの庭師が育てたらしい朝顔が、取りとりの色の花を涼やかな早朝、螺旋を解き開く頃になると、すっかり咳も治り元気を取り戻した。
そんな折、そろそろ帰るよう、父から電報が届く。折よく、話があると訪れた兄に父の言葉を伝えた。
「うん。そろそろ帰っても大丈夫。この前、街に出た折君のご両親と会ってね、すっかり元気になったとお話したのさ」
「そうでしたか。どうもありがとうございます。お陰様で元気になりました」
「いや、こちらこそ、妹の相手をしてもらって、喜んでいるよ。君の縁でお友達が出来たって、良い妹さんを持っているね」
はい?唐突に出てきた話に面食らう。
「あの?どういう事なのでしょう、かの子が何か?」
怪訝に思い問うと、夏の日差しの様な笑顔を浮かべ答えてくれた。
「おや?知らないのか。秘密だったら、妹に怒られるな。聞かなかった事にしてくれるなら、教えるけど……」
それに同意したのは勿論。
「あの『ぶうらぶうら』妹さんにも出しただろう?その時、妹とやり取りしてるって、知らせたと聞いている。その……、ね。その事で妹さんがね、変な兄ですみませんと、妹に手紙をくれたんだよ」
「かの子がそんな事を」
クックックッ。乳母やの押し殺した笑いが聞こえる。
「うん。それからポツポツ、文通をしているらしい。この前街に出たのは、仕事もあるけど、かの子さんに贈り物をしたいと妹に頼まれてたのさ。ご両親に出会ったのは、妹の事で御礼を述べたかったんだ。何でも舶来品の便箋と封筒を貰ったそうだよ。街の女の子達の間で流行ってるからと、妹に贈ってくれたんだ」
クスクス。妹の笑い声が、蝉時雨に混じり聴こえる気がした。
きっと街に帰ったら……、変なの送ってきて。と笑うだろう。女の子に『ぶうらぶうら』なんて送らないで!と叱られるだろう。
現に乳母やが、必死になり笑いを堪えているのだから。
――、数日後、私は暇を告げた。
その前夜、年の頃は十を確実に、過ぎてはいるだろうか。御高祖頭巾で顔を半分隠した妹さんを連れ、離れに訪れた、少しばかり足が不自由な兄。
「事故でね。両親は亡くなり、僕は足をね、この子ははまだその時、ほんの赤ちゃんだったんだ。年離れて生まれた、可愛いい妹なんだよ」
言いにくそうに短く告げる。それを聞き流す私。知らぬ顔をし、これまでの礼を述べた。
「お世話になり、ありがとうございます。変な事、書いてごめんね。帰ったら妹に叱られてしまうよ」
気になっていた事を、兄の背に隠れる様に座る彼女に話す。
ふるふると首を振ったあとで、小さく、ありがとうございます。と澄んだ少女の声で返事をくれた。
「あと、ごめんなさい、お手玉ね。その、頭に当たったら面白いなって、落としたの……。何故だが、ちっともわかんないけど、落としたかったの。ごめんなさい」
かの子から、私の悪行の数々が知らされて居るのだろう。初対面だが、どことなく打ち解けているような彼女。
いたずらっぽく、はにかむ様な笑顔が頭巾の陰から、チラリと見えた。
文月、チキチキ、チキチキ、スィーッチョン、スィーッチョン……、庭から、夏の虫の鳴く声が聴こえた。
終。