(2/5)うすらボンヤリとした馬面の新人。
『うすらボンヤリとした馬面』それがアタシが神埼祐一にいだいた最初の印象であった。
新入社員として入ってきた祐一は朝礼の挨拶を終えると、何もない机に取り残されてモジモジしていた。大丈夫かね、コイツ、と偉そうに思ったが何、アタシだってまだ3年目だったのだ。
ところでその当時の公明党党首は神崎代表だった。
CMで『そうはイカンザキ!』とこぶしを振り上げる姿が有名であった。
アタシは祐一の前に進み「御手洗凜子です。ヨロシク」と挨拶をした。
「そんで、そうはイカンザキくん。ついて来て」
「へ!?」
祐一はポカンとした顔をした。
「ヘ!? じゃないんだよそうはイカンザキくん。イントラの説明をしてやるからこっちに来て」
はい。すみません、と小さな声を出して祐一がついてきた。あんたの名前が神埼だったら『そうはイカンザキくん』と呼びかけるのがタイムリーでビビットであろう。
エレガントではないかもしれないが、気にするな、そうはイカンザキくん。
しかし神埼祐一は何度アタシが『そうはイカンザキくん』と呼びかけても嫌がる様子もなければ「止めてください」とも言わず「はい、はい」と生真面目に応対するのであった。
神崎祐一。君、うすらボンヤリした顔しているけど、その実、真性のうすらボンヤリだな?
そんでうっかり『カワイイ』とか思っちゃったんだ。 それからアタシはすごい勢いでパワハラを行使し始めた。
神崎君。今日飲みに付き合いなさい。先輩命令です。
神崎君。土曜はアタシの買い物を手伝いなさい。先輩命令です。
神崎君。今度の土日は温泉だから。なに!? 歯医者の予約をした!? キャンセルしろ! そんなの! 先輩命令だよっ。
で、気づいたらあいつはアタシとフランスの教会で指輪の交換をしてたってわけ。
なんてったってうちに結婚の挨拶にきたとき「お嬢さんを僕にください」っていうところをうっかり「先輩を僕にくださいっ」って言っちゃったからね。
アタシは神妙な顔の下で『どんだけ体育会系で行く気だよお前は』って毒づいたもんよ。
◇
だから誰もアタシと祐一が付き合っていることに気づかなかったのだ。
結婚するんで、と発表したときの周りの仰天ぷりといったらなかった。
みんな口々に祐一に詰め寄った。
「神崎君っ。考え直しなさいっ。君一生御手洗さんのしもべになるんだよ!?」
「御手洗さんのどこがいいんだっ。仕事は最高だが女としては男前すぎるだろう!?」
本人が聞いているんですけど、とぴくぴくするアタシの横で祐一がのんびりと口を開いた。
「いやあ……。この人についていけば間違いないなと思って」
全員がぴたりと口を閉ざした。
五徳の突起と突起の間の平らな面にカッターを当てながらどんどんムカツイてきた。
誰がお前なんかと好きで結婚するものか。苗字の『御手洗・みたらい』を『おてあらいさん』って言われるのにウンザリしただけだよ。お前は苗字のおまけだよ。けっ。
茶色いカスは後から後から削れてくる。
それにしても……。
どうして祐一はアタシと離婚したいなんて思ったんだろう。
◇
やっぱアレかな……とトップバッターに思いついたのが人事問題。
うちの会社は同じ部で結婚をしたら、どちらか一方が別の部署に異動することになっている。
仕事とプライベートはわけなさいよ、ということだ。
今までは100%女が異動になっていた。会社の温情とやらで残業の少ない部署に移らされるわけだ。大時代的な。
ところが、創立以来始めて祐一は男なのに異動になったのだ。
システム営業部にいたのに、総務部。
畑違いもいいところだ。
理由は誰の目にも明らかだった。アタシは仕事が頭抜けて出来て、祐一は仕事が頭抜けて出来なかったのだ。
怠け者とか不誠実とかいうことではない。うっかり者なのだ。人が良くって天然でボンヤリさんだったのだ。それで男なのに残業のほとんどない総務部へ異動になった。陰で散々笑われたに違いない(アタシが怖いのでアタシの耳には届かないが)
「奥さんが出来ると旦那は楽でいいねえ」
本人の口から聞いたわけではないが、面と向かって揶揄する人もいたらしい。
祐一だって男だ。いたくプライドを傷つけられたのではないか。
それにしたって。5年も前の話だろう。なんで今なんだよ、今、と五徳の突起付け根を丁寧にカッターでこすりながらアタシは思った。平面部分と突起は垂直にくっついているのでカッターを動かし辛い。そーっと。小刻みに。
大体総務部は祐一の水に合っていた。親切な男なので呼び出されたらすぐ飛んでいく。
コピー機の紙詰まりも、蛍光灯の付け替えも嫌な顔一つなく片つけてくれる。
女子の間では評判ウナギ登りだったのだ。
利益率だ、売上目標だと追われ放題の古巣よりずっと居心地よかったろうが。
それとも……あれだろうか……。
◇
アタシと祐一はケンカをしたことがない。
なぜならケンカにならないからである。
全てアタシの思い通り、好き勝手、やりたい放題、祐一従うだけ、そういう夫婦だった。
最初の絶対君主制夫婦確立は新婚旅行先だった。
祐一はウットリと言った。
「オーストラリアがいいなあ。カヌーで川を下って、コアラと写真撮って、地平線しか見えない牧草地とかに立ってみたいなあ」
「却下」
「へ……? せんぱ……じゃなかったりんちゃんなんで?」
「お前はアウストラロピテクスか?」
「へ?」
「1週間も休みがとれるのにフランスに行かなくてどうする。自然だったら多摩川堤防にでも行って満喫してこい。草とか牛とかそこら中にあるもん見てどうすんだよ。 ルーブルだよルーブル。エッフェル塔のベルサイユ宮殿のカフェでお茶だのをするに決まってんだろ。ヨーロッパでアタシが行ってないのはそこだけなんだよ」
てなわけで『モナ・リザ』がルーブルにあることすら知らなかった芸術音痴の祐一は、アタシの後ろで見てもちんぷんかんぷんの絵画を鑑賞するはめになった。
家具も全部アタシの見立てだ。祐一の服も全部アタシが買う。祐一の給料はアタシのものでアタシの給料はアタシのものだ。つくづく自分はジャイアンだと思う。
たった一つも自分の意見が通らない生活。
祐一、辛かったんじゃないだろうか?
◇
唯一、祐一が自分の意見らしいことを言ったのは子供のことだった。
結婚2年目。周りも親もそろそろ、そろそろとその話ばかりした。
「凛ちゃん。仕事もいいけどね。早く生まないと後々大変じゃない? 僕男の子と女の子1人づつ欲しいなあ」
子供、大好きなのだ。子供の話をするたびに相好を崩した。
そしてアタシは生返事ばかりをしていた。
もちろん欲しくないわけではなかった。しかし中々踏ん切りがつかなかったのだ。仕事が面白かった。産休とかとってる時間が惜しかった。
結婚3年目を迎えたとき課長になった。創立以来のスピード出世だった。部下を5人抱えて子供のことなんてますます頭から離れていってた。
何も見てこなかった。ただ走ってきた。仕事ばかりをしていた。
子供のことだけじゃない。アタシは祐一のこともすっかり見なくなっていたのではないだろうか?
アタシの脳裏に祐一の切なげな視線が浮かんだ。
アタシを見つめつづける祐一と、仕事を見つめつづけるアタシ。
『後ろを振り返って! 凛ちゃん!!』祐一のそんな声が聞こえた。
僕、いつも凛ちゃんを見ているよ。
アタシは五徳を見つめた。
汚れは、次第に積もっていったのだ。天ぷらを揚げる度に、ミルクを吹きこぼす度に。
油や汁物は五徳の表面をすっかり覆い、蒸発し、固まり、一体となっていった。
毎日毎日少しづつこびり付いて5年経った今元の輝きをすっかり失わせてしまった。
そしてこれが、五徳本来の姿だとアタシは思い込んでいたのだ。
5年前は全然違うものだったのに。
そして、アタシの前に離婚届が突きつけられた。
【次回】あの人は海のような人