(1/5)汚れきった五徳と離婚届。夫はいない。
神崎凛子 33歳
神崎祐一 30歳
2001年 会社で出会う
2004年 結婚
2009年 結婚5年目の話です。
ガリッガリガリガリッ。
激しい音を立ててアタシは五徳の汚れを削り落としていた。
手が滑ってカッターが親指ギリギリをかすめた。ヒヤリ、とする。 危ない、危ない。刃物を使っているのだから慎重にならなければ。
しかしそれは難しかった。そんな注意が出来なくなるほど腹を立てていたのだ。
ガリガリッガリガリッガリガリガリッッ。
祐一め、祐一め。
離婚届なんざ置いて、出て行きやがって。
◇
散々な出張だった。
新しいシステムを子会社が入れるので、課長のアタシはSEを一人引き連れて徳島まで飛んだのだ。全国に入れるシステムの先駆け第一号。大事なプロジェクトだった。
5日間徳島で稼動までを見届け帰る予定だったのに、現地に行ってみたら受け入れ態勢が何もできてなかったのだ。
なにせシステム用コンピューターを置くスペースすらない。机や椅子を片つけるところから始めなければならなかった。ホコリまみれになって3日間。結局これでは何も進まないということになり一旦東京に帰ることとなった。
ガックリきて、夫の祐一に「2日早いけど今日帰る」と朝方メールした。いつもだったら返信がすぐにくるのにその日はなしのつぶてだった。
『なんか変だな』とは思ったが疲れてもいたし、とにかくビール飲んで寝るぞ。明日は日曜だ嬉しいな(怒)と靴音も高くマンションに入ってドアを開けたのだ。
真っ暗い。
おかしい。もう9時だ。いつもなら家にいるのに。てか遊び歩いてんじゃないだろな、人ががっくり帰ってきたときにさあ。
靴を乱暴に脱ぎ捨ててキッチンの電気をつけた途端、アタシは凍りついた。
綺麗に整頓されたダイニングテーブルの上にポツン、と離婚届が置いてあったのだ。
◇
最初は「ドッキリカメラか?」と周りを見渡した。慌ててテーブルに駆け寄った。
間違いなく離婚届だ。
祐一の名前とキチンとした押し方の「神崎」というハンコが見えた。
どう見ても祐一の字。
当人はどこにもいない。
アタシは椅子を引っ張り出してそのままへたり込んだ。
◇
晴天の霹靂とはこういうことをいうのだな、とぼんやりした。
訳がわからない。現実感が沸いてこない。なんの夢だ? これ?
見ているうちに腹が立ってきた。離婚届置いて出て行きやがるとはどういうことだ。
祐一のくせに生意気だ!
バッグから携帯を取り出した。怒りで握り締めた手が白くなった。祐一の携帯にかけた。
その瞬間、アタシは祐一の決意が固いことを思い知らされたのだ。
◇
ちゃららっらっらっら~ら らっらっら~ らら らっらっらっらっら~♪
『オースザンナ』の呑気極まりない呼び出し音が鳴り響いた。家の中で。
音が聞こえた方へ走っていくと祐一の机の上だった。携帯を、置いていきやがったのだ。
…………アタシに探し出されたくないということだ…………。
これならばすぐ足がつく実家や友達の家にはいないに違いない。
じゃあどこへ行ったんだ?どこへ?
北国だ、と突然思った。
◇
あの馬鹿。深刻なムードのときは北へ北へ向かったりするんだ。津軽あたりにうっかり辿り着いて海でも見ながらコートの襟を立てたりしてるに違いない。そして『津軽海峡冬景色』を歌う。
てめぇが歌っても全然雰囲気がないんだよ! 音痴で間伸びた声なんだから!
アタシは頭をかきむしった。津軽ったって広いぞ。だいたい秋田かもしれないし岩手かもしれないじゃないか。捜しようがない。
敵前逃亡ってわけか祐一。てめぇ、どういうつもりだ。
そうは言ってもアタシの前なんかで離婚届を出したら散々怒鳴られて切れられて丸め込まれて終りだよな。
チクショウ祐一。いい手だ。
怒鳴る相手がいないなら、アタシは一人で考えるしかない。
とにかく落ち着かなければ。アタシはコーヒーを入れるためにやかんに水を入れ、ガスをつけた。そしてぼんやりとやかんの置かれていない方の五徳を見つめた。
五徳というのはガス台に設置されている鉄製の黒い鍋置きのこと。突起が5つ出ていてガスバーナーと鍋が直接触れるのを防いでいる。
『あれ?』っと思った。
なんかデコボコしてんぞこの五徳。ガス台から五徳をはずし照明にかざしてびっくり。
なんじゃあ、こりゃあ。焦げがこびりついてモリモリしている。
結婚してから1度も掃除をしていなかった。つまり5年放ったらかしにしていたことになる。焦げは完全に馴染み五徳の一部のようになっていた。
見ているうちに次第にイライラしてきた。
削ってやる、と思った。お前ら3っつともガリガリ削ってピカピカにしてやる。
書斎に行ってカッターナイフを取ってきた。コーヒー(インスタント)を入れてとりあえず五徳を1つ持ってきた。新聞をテーブルに敷く。
コーヒーを一口飲む。五徳の側面(輪っか状になっている)にカッターを当て、右手を滑らせた。
ガリガリガリッ。
まっ茶色の何かが新聞の上に派手に落ちた。なんじゃこりゃあ……。五徳をみるとそこだけ少し凹んでいる。ってことはだよ。五徳全体に汚れがコーティングされているってことか?
アタシはそのままガリガリ削りながら輪っかを一蹴した。側面だけが黒光りし始めた。
これが、本来の五徳の色。
5年前新品だった五徳は今、食べ物のカスや油に支配されて、全く別のものとなっていたのだ。
【次回】うすらぼんやりした馬面の新人