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圧倒的な暴力

「うそ――」


「〈母なる水底に抱かれるハイドローリック・ウォード〉‼」


 遠くから聞こえてきたミトラのかけ声とともに、マキアを中心として水色の球体が広がった。


 その領域に踏み込んだ幽鬼の動きが、まるで水中に沈み込んだかのように、見えざる抵抗を受けて減速した。


「逃げて! お師さまッ‼」


「逃がさんぞ妖婦(ようふ)めが――〈影の大地は沸き立つ(シャドウ・テレイン)〉」


 統べる幽鬼が床に向けて手をかざすと、足元の影がぞわりと床に広がった。


 影は駆け出したマキアの足を絡め取り、つんのめった彼女は床に倒れ込む羽目になった。


 倒れ込んだマキアの全身にズルズルと巻き付いていく影。


「な、なによこれ――」


 ついに戦慄に顔を歪めたマキア。それが、あらゆる魔法に精通する彼女ですら知らない魔法だったという事実が、彼女の冷静沈着な精神を強く揺るがした。


「〈打ち砕け、かの呪い(シャッター・ヘックス)〉‼」


 オレガノが駆け込みざまに、床に広がった影にメイスを打ちつける。マキアに絡み付いていた影が、まるでガラスを叩いたような音を立てて砕け散った。


 〈シャッター・ヘックス〉によって空中に舞い上がった黒い破片の数々。同時に発生した突風が、それら鋭い破片を一斉に押し流して黒鉄の甲冑に撃ち込んだ。解呪と反撃を兼ねた高度な光魔法だった。


「ぐっ――」


 悪夢の騎士が破片を嫌がって腕をかざした。


 その間にイルバーンがマキアの前に立ち塞がる。


 遮二(しゃに)無二(むに)、統べる幽鬼に斬りつけていく。甲冑騎士も大戦斧を振り回して応じた。


 かの幽鬼は未だにミトラの作り出した行動阻害領域に立っており、その全ての動作には水中にいるかのような抵抗があるはずにもかかわらず、一向に気にした素振りを見せずにイルバーンと斬り合ってみせた。


 一歩も引かない両者。伝統ある大陸武闘会で鳴り物入りに優勝してみせたイルバーンの剣技をもってしても、目の前の暗黒騎士を後退させることができない。


 むしろイルバーンが大戦斧の圧力を前に、堪らず後ろに退いた。そうとしか見えないほどに自然な動きだった――。


 イルバーンの陽動だ。


 幽鬼が追撃のために大戦斧を振り上げて前に出る。その一瞬の隙を狙って、背後から高く跳び上がる人影があった。


「ぶっ潰してやるッ‼」


 ヴォルフが大剣を振り上げて飛び込んできた。


 イルバーンと阿吽(あうん)の呼吸で繰り出された不意打ち。気合いの声と共に悪夢の騎士の頭上に振り下ろされる巨大な刀身には、赤黒い闘気がまとわりついている。ミトラの精霊術を宿した〈ヴルカン・ドライバー〉と呼ばれる一撃必殺の大技だった。


「――チッ……」


 幽鬼が舌打ちを残して素早く飛びのいた。


 ゴパァッと爆散した石材。盛大にまき散らされる瓦礫。惜しくも甲冑を(かす)めて床をめくり上げただけに終わったヴォルフの大剣。


「――敵は不死身ではありませんッ‼ みなさん諦めないで‼」


 ようやく退いた幽鬼に向かって、すかさず叫んだイルバーン。


 これまで猛牛のごとく前に出続けた怪物が、後ろに下がった。小さくともスターチェイサーにとっては偉大な一歩だった。その事実を強調する。


 そうしてメンバーの士気を鼓舞し続けなければ、あっという間にチームが瓦解(がかい)しかねないほどのプレッシャーにスターチェイサーは(さら)されていた。たったひとつのミスが全滅に直結する、薄氷の上を歩むかのごとき戦いだった。


 マキアはリックに肩を借りて後方に退避した。彼女は足を痛めたようだった。片足を引きずっている。


 そんな二人の姿を追う漆黒の兜。


 あの幽鬼は、明らかにマキアをロックオンしていた。


 その狙いは的を射ている。


 マキアを失えば、もはやスターチェイサーは統べる幽鬼に決定打を与えることはできないだろう。時間をかけてなぶり殺しになるだけだ。


 ふと、暗黒騎士の兜の奥から呟きが聞こえた。


「――女狐、そんな(てい)たらくで俺から逃げきれると思ったか」


 その呟きを聞いたイルバーンの胸に冷たい警告が差し込まれた。雪山の戦いで、ヘファイストンが離れた位置から盾ごと切られたという、ミトラの証言が頭をよぎったからだ。


 悪夢の騎士が大戦斧を構えて腰を落とした。


 同様に、イルバーンも剣を腰の鞘に収めて腰を落とした。


 イルバーンと幽鬼が獲物を振り抜いたのは同時だった。


 マキアを狙って伸びた黒刃と、イルバーンの〈アフターグロー〉が作り出した白刃が空中で交錯し、それらは激震を残して(つい)消滅した。


 余韻でホールが恐ろしげに揺れた。


「――敵の狙いはマキアさんです! 統べる幽鬼(レイン・アブザード)を彼女に近づけてはいけません‼」


 その声に応じて、イルバーン、オレガノ、ヴォルフの三人がマキアの前に立った。


 離れた場所では依然としてフラミーとエフェックスの争闘(そうとう)が続いており、そこにカシージャスが参加中だ。鳥を追うのは狩人の本分(ほんぶん)だが、相手がエフェックスではやや分が悪い。


 残ったミトラとリックは遊撃体勢で両方の戦場を行き来する。


 洗練された連携。有機的なチームワーク。これこそが大陸に名を知らしめるスターチェイサーというパーティの真髄(しんずい)だった。


 一人が全員のために、全員が一人のために。


 絆の深淵に挑むのにふさわしい挑戦者達。


「ちまちまと、面倒な……」


 幽鬼の兜からシュコーッと瘴気が漏れた。心なしか、その煙の量が先ほどよりも増えているように見えた。


「ならば」と手甲を開いて前にかざした黒鉄の甲冑騎士。


 その意味深な動作にスターチェイサーの面々に緊張が走る。


「――〈死せる冬は来たれりデッドウィンター・カムズ〉」


 身の毛がよだつ声がホールに響き、統べる幽鬼の背後から闇黒(くらやみ)が押し寄せてきた。


 瞬時に視界を真っ黒に塗り替えられたスターチェイサー。


「これは……」


 イルバーンの声が聞こえるが、その姿は見えない。


「俺たちが洞窟で食らった奴だ!」


「いけない、ここだと逃げ場が……」


「イルバーン! これは呪いではありませんよ、私の解呪が効きません‼」


 リックとミトラの緊張した声が聞こえたのと同時に、オレガノの切迫した声が闇の奥から聞こえてきた。


 その時、遠くで赤々と(ほむら)が上がった。


 太陽のごとき焦熱(しょうねつ)が、ホールを支配した闇を押し返そうとしている――。


 フラミーが闇黒(くらやみ)を払うために全身から炎を吹き上げて火勢を強めたのだ。


 しかしそれを邪魔するのが枯死鳥エフェックス。


 蒼い炎がフラミーにまとわり付き、膨らんだ命の輝きを闇に沈めていく。


 初手で幽鬼がフェニックスの宿敵である蒼き火の鳥を召喚したのは、この戦いにおいて極めて有効な戦略だったのだと思い知らされたイルバーン。


 だがそれは、言い換えれば、あの悪夢の騎士がフェニックスを警戒しているという証左でもある。敵は無敵ではない。イルバーンはをフラミーの火に希望を見た。


「ギエエエエエエエエエエエエッ‼」


 禍死鳥エフェックスが突如として身の毛もよだつ悍しい悲鳴を上げた。


 その腹に、矢が刺さっている。


 直後に目のくらむ閃光が走り、エフェックスが内側から弾け飛んだ。


 いったん周囲に飛び散った蒼い炎と、煌めく破片。それらは空中で急ブレーキかけて静止し、今度は逆に反転して一点に収束し始める。


 ボール大、拳大、小石、砂粒と、どんどん圧縮されたその輝きが微細振動を起こ始め――。


 見るからに危険な光の圧縮は、やがて最終的に限界を迎え、ついには大爆発を起こした。


 闇黒(くらやみ)の中を駆け巡った全身を(あっ)する音響。


 神煌石(じんこうせき)の力だ。その威力は月煌石を上回り、一撃で巨竜すらも(ほふ)る力があるとされている。


 神煌日長石(サンストーン)が引き起こしたのは、全ての闇を打ち払う陽光を宿した力の奔流。


 ――敵か味方かも知れないショコラという女から託された神煌石。


 カシージャスはこの絶体絶命の危機をひっくり返し、同時にスターチェイサーが誇る幻獣フェニックスに自由を与えるために、その切り札を切った。フラミーこそが鍵。イルバーンと同じ考えに彼も思い至っていた。


 耳をつんざく神煌石の爆音がホールに木霊する中で、別種の爆音がホールを揺るがした。その奥に小さな呻き声を聞いたのは、耳のいいリックだけだった。


 エフェックスという(かせ)から解き放たれたフラミーが、その火力を上げた。


 フラミーを中心に金色の炎が闇黒(くらやみ)が押し返されていく――。


 そうして露わになったホールの状況に、スターチェイサーの面々が息を呑む。


 壁に大戦斧が突き刺さっており、その刃はカシージャスの身体を(はりつけ)にしていた。床には血だまり。そしてその中に散乱するのは彼の折れた弓。


 しかし熟練の狩人カシージャスは最期に重大な置き土産を三つ残してくれた。


 理解しがたい謎の攻撃をはね除けたこと。


 フラミーに自由を与えたこと。そして――。


 投擲後の姿勢で硬直していた黒鉄の甲冑。


 すなわち、統べる幽鬼に、あの恐るべき斧を手放させたこと。


「――今ッ‼」


「〈氷雪の吐息よ(チリング・ガスト)〉!」


「〈踏み潰せ、虚ろな巨人(ウラーヌス・ストンプ)〉!」


 イルバーンの声が上がると同時に、ミトラが雪山を吹く風よりも冷たい凍てつく突風を起こし、マキアが不可視の暴圧を幽鬼の頭上に(くだ)した。


 甲冑の節々が凍結し、その足が凍り付いて床と接着する。さらに上から押し付ける途方もない圧力が、ついに統べる幽鬼の膝を折った。


 ゴアァン……と重苦しい音を立てて膝を突いた闇黒(くらやみ)の騎士。


「決めます‼」


「おうよッ‼」


「〈闇を打ち払う(ホーリー・)光の鉄槌よ(スマイト)〉‼」


 イルバーンの〈フラッシュ・スラスト〉、ヴォルフの〈ヴルカン・ドライバー〉、オレガノの〈ホーリー・スマイト〉、そしてフラミーが吐き出す灼熱の炎が、同時に幽鬼に襲いかかった。


「でぃいいいいぜるさあああああん⁉ あぶなあああああああい‼」


「――〈なめるなッ(ディシスト)〉‼」


 裂帛(れっぱく)の気合いと共に閃光が弾け、幽鬼のマントから放射された暗黒の衝撃。


 為す術なく吹き飛ばされたスターチェイサー。


 黒鉄の甲冑が、見えざる力を押しのけ、氷をバキバキと割って動き出す。


 おどろおどろしい憤怒の瘴気を全身からブシューッと勢いよく吹き出した幽鬼が、ホールを横切って壁から大戦斧を引き抜いた。


「調子にのりおって……」


 ゴキリゴキリと首を鳴らし、両手で大戦斧を下段に構えた闇黒(くらやみ)の騎士。


 濃密な殺意の波動がホールに充満した。見えざる魔の手で心臓を握り潰されたかのような息苦しさがスターチェイサーを襲った。


「――もう十分だろう」


「ぐっ――これは……」


 吹き飛ばされて倒れ込んでいたオレガノが、切羽詰まった様子で立ち上がり、慌ててメイスを振り上げる。


「主よ……か弱き我らに、あらゆる邪悪を退ける盾を授けたまへ――〈全能なる楯を(イージス)〉‼」


「――死ねッ‼」


 オレガノの祈りが届き、直後にスターチェイサー全員の身体を眩い光球が包み込んだ。


 ホールに黒刃の嵐が到来したのはその直後だった。


 轟々(ごうごう)とホールを隙間なく飛び交い、空間をなます切りにする分厚い闇黒(くらやみ)の刃。


 スターチェイサーのメンバーはその嵐の中、誰一人としてピクリとも動くことが出来ない。ただただ、折檻の終わりを待つ幼子のように、身体を丸くして歯を食いしばって耐えるだけ。


 全てが収まった時、ホールの光景は一変していた。


 統べる幽鬼が振るった圧倒的暴力の結果は激甚(げきじん)だった。


 ホールの柱は何本もへし折れ、壁という壁には怪獣が暴れ回ったかのような荒々しい爪跡が隙間なく刻まれていた。


 床一面も同じような状態で、そこに大きな瓦礫が飛散している。


 その中に倒れていたスターチェイサーは、全員が虫の息だった。


 ヴォルフは腕を切断されて、ふらふらとその場でよろめき、オレガノは盾を砕かれ、うつ伏せに倒れていた。


 腹を切られ、ダラダラと血を流してうずくまるミトラ。


 マキアの杖は折れ、彼女はホールの隅で血だまりの中で横たわる。


 イルバーンの姿は見えない。


「くっそ……」


 その中でリックだけが、持ち前の回避スキルを駆使して致命傷を免れていた。


 悲鳴を上げる身体に鞭打って起き上がった彼は、状況を即座に理解すると、まずはフラミーを探す。


 頼れる不死鳥は近くの瓦礫の下にいた。


「フラミー……無事かっ⁉」


「リック……僕を連れて……まずはオレガノのところに……はやく立て直さないと」


「〈ソーマ〉は要るか?」


「うん、ちょうだい……!」


 リックが腰の道具袋に手を回し、舌打ちした。


「チッ……袋が」


 彼の道具袋は切り飛ばされて遠くに転がっていた。リックは慌てて拾いに走った。


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