あの世の鬼
「やったぁ! さっすがミトラ、〈メンターズレイア〉の新星‼」
フラミーの歓声が上がった。
幽世に聳える山々に、何百年とやむことなく降り積もり続けた雪。その分厚い圧雪に蓄えられていた膨大な力が、ミトラの声に応えて決壊したのだ。
荒ぶる勢いを乗せた雪崩が、彼女達の前方の空間を、津波のごとき容赦のなさで攫っていった。
全てに死をもたらす冷たき自然の暴力が、全てに死をもたらす悍ましき闇黒の暴力を流し去ったのだ。
舞い上がった雪煙の中、ミトラは腕を振り下ろしたまま肩で息をして待つ。
やがて白煙が収まると、そこには真っ平らに整地された雪原が現れた。
その清浄な白い空間に、禍々しい瘴気を放つ怪物の姿は見えない。
「――はぁぁ……」
力を使い切り、その場でペタンとへたり込んだミトラ。
「ふぅぅ……たいしたものだ。これが新進気鋭の精霊術士の力か」
感心そうな声を上げたのはヘファイストン。その隣では、ボルドーが油断なく雪山に視線をさ迷わせていた。
やがてボルドーも、ふぅと溜息を漏らして口を開く。
「ま、これだけの規模の雪崩に巻き込まれて生きてるわけ――」
ドパァッとボルドーの足元が爆ぜた。
飛び散った雪の中から飛び出したのは巨大な黒い影。
身体を真っ二つに切り裂かれたボルドーが、血しぶきを上げて、まるで割れた薪のように左右に倒れた。彼の身体は枯木のように乾いていた。
「ぼ――ッ⁉」
ボルドーを切り裂いた影は、グルングルンと縦回転を伴って雪上を旋回する。
「馬鹿なッ‼」
ヘファイストンが盾を構えたのと、前方の雪原が陥没したのは同時だった。
ぽっかりと雪の平面に空いた巨大な穴。その穴底からは毒々しい暗黒の瘴気が、雪山の温泉のようにモクモクと吹き上がっている。
その穴の縁を、がっしと掴んだ黒光りする手甲。
ぬっと下から身体を引き上げたのは――幽鬼だ。
「ば、か、なぁ……!」
愕然と狼の顔を戦慄かせるヘファイストン。ミトラは座ったまま歯をカチカチと鳴らしていた。フラミーだけが戦意を保ったまま翼を広げ、幽鬼を威嚇している。
立ち上がった漆黒の甲冑。
ぐるり一周して戻ってきた戦斧が、ガァン! と音を立てて、その手に確と収まった。
幽鬼は健在だ。全身からどす黒い瘴気を吹き出し、その怒れる心の内を示しているようだった。
敵は出現した当初から何ひとつ欠けていない。かたや、スターチェイサーは壊滅。
ヘファイストンは予備の短剣を抜いた。しかし、ここから何をすれば良いのかは、数多の戦場を駆け抜けてきた彼にすら分からなかった。
逡巡して口を開く。
「……ミトラ。立て」
ヘファイストンに声をかけられたミトラだったが、彼女は腰が抜けていて立ち上がれなかった。
「俺が食い止める。お前はフラミーと共に逃げろ」
「でも――」
「お前かフラミーが無事なら、エコーチームは復活できる。今は戦力の温存を最優先に考えるんだ。ここは俺たちのチームを犠牲にする。今、多少なりとも時間を稼げるのは俺しかいな――」
ミトラが見上げる先で、瞬間的に鋭い影が走り、ヘファイストンの胴が刎ね飛んだ。
生気の抜けたミトラの顔に、吹き出した血がジャバジャバと降りかかる。
ヘファイストンは構えていた盾ごと綺麗に切断されていた。
幽鬼が遠く離れた場所で、戦斧を振るった姿勢のまま止まっていた。彼女には、なにをされたのか全く理解できなかった。
ズシッ、ズシッ……と重苦しい足音を立てながら歩み寄ってくる黒鉄の甲冑騎士。
臀を引きずって後じさるミトラ。
そんな彼女の前に、勇敢にもフラミーが立ちふさがった。全身の体毛を逆立て、翼を広げた姿勢で精一杯身体を膨らませながら。健気な姿だった。
「だめ、フラミー……あなたは逃げて……」
しかしそんなミトラの願いも虚しく、無謀にも幽鬼に飛び掛かったフラミーは、鋼鉄の靴で無残にも蹴り飛ばされた。
遠くの雪原にフラミーが落ちて、白い煙が上がった。
ダンジョンの侵入者に対して一切の容赦がない。
幽き獄を調停する、あの世の鬼。
暴力の権化。
無慈悲な死刑執行官。
これが幽鬼。幽世の迷宮で最も怖れられる存在。
ミトラは初めて見た。
とても一人で立ち向かえる相手ではなかった。
彼女のカラカラに渇いた喉がコクリと鳴った。
(復活はできる)
(幽鬼に全滅させられても、入り口に戻されるだけ)
(分かってはいる)
(頭では分かってはいるのだけれども――)
(――怖い‼)
あの凶悪な斧で、肉と共に魂を打ち砕かれてしまいそう。
ここで死ねば、如何なる光も届かない闇黒に囚われて、二度と目が覚めることはないという、不可思議な確信。
そんな死に対する根源的な恐怖心を喚起されたミトラは、幼子のように震えた。
「助けて――」
幽鬼という厄災を目の当たりにした今の彼女は、無力な少女に過ぎない。
「ごめんなさい……助けて……ください……」
できることは、唯一、首を垂れて許しを請うことのみ。
「助け――」
見上げた彼女の顔に影が落ちた。蒼白な頬を伝い落ちる一筋の滴。
ふと、幽鬼がミトラの前で膝を折った。
「?」
視線を合わされ、震える口に差し込まれたのは、先ほどまで漆黒の兜に刺さっていた白い棒。
直後、ミトラの口に広がった場違いな感覚。
それは舌の奥を刺激するキツい甘みと、芳醇な香り――。
「――チョコ?」
その言葉を最期に、ミトラは雪原の赤い染みとなった。
シュコーッという音と共に、幽鬼の兜から瘴気が漏れた。
死神は、のっそりと踵を返した。
その時、遠くで立ち上る赤い柱があった。
天を衝く火焔の柱。
瞬時に周囲の雪を蒸発させたそれは、幽鬼が吐き出す死の瘴気とは対極の、赤々とした生命の炎。
見上げるほど高く上がった火柱から飛び出したのは、赤熱する影。
赤い閃光が幽鬼に飛び掛かり、生命の炎を死の甲冑に振りかける。
幽鬼は堪らず腕を掲げてそれを防いだ。
幽鬼が腕を下ろすと、火焔の余韻がパチパチと一直線に残されているだけだった。殺されたはずの冒険者達の亡骸は、全て消え去り残り火となっていた。
「――フェニックス」
幽世の空を遠ざかっていく光点を見上げた幽鬼の兜から、そんな言葉が漏れた。




