イルバーン
◇◆◇
五十八階層。
ディーゼル達が五〇階層を出発した頃――。
「――イルバーン。五〇階層に残ったブラボーチームからメッセージが来たぜ」
そう言って盗賊風の男が差し出したのはスクロール。〈メッセージ・スクロール〉と呼ばれ、遠隔でメッセージのやり取りができる魔法具だ。
「ありがとうございます、リックさん。虫下しの調薬が終わったのかも知れませんね。さすがマイクさんのチームです。もう少し時間がかかるかと思いましたが……」
白銀の甲冑に身を包んだ青年が、凜々しい顔を綻ばせてスクロールを受けとった。
ひと目見て秘宝と分かる、光輝をまき散らす装備に身を包み、神々しいまでのオーラを背負った男こそイルバーン。一年ほど前にS級冒険者の称号を受けたその人物だ。
しかしその幼さを残す柔和な顔つきが、スクロールを開いて一転して厳しいものとなった。
「……? どうしたの?」
彼の空気が変わった事を察知した女魔法使いが、緊張の面持ちでイルバーンを見つめた。
「……幽鬼が出ました」
イルバーンのひと言に場の空気が凍り付いた。
アンカーポイントにはゴーゴーと万謝の燭が燃え盛る音だけが響く。
「――は? いや、早すぎだろう! まだ六十階層にも届いていないぞ……?」
座ってスープを飲んでいた騎士風の男が発した声が、さらなる沈黙を誘った。それがその場の総意だった。
「確かなのですか、そのメッセージ?」
立ち上がったのは神官服を着た男だ。
「よほど慌てていたのでしょう。ただ『全滅、雨、幽鬼、タバコ』とだけ書かれています。マキアさん、念のためこちらからメッセージを飛ばしてみてください。彼らがまだ五〇階層に留まっていれば、届くはずです」
「分かったわ」
マキアと呼ばれた女魔法使いがその場を後にすると、「タバコって……?」という誰のものともつかない疑問の声が上がった。
「五十階層って、ずっと雨振ってるよな」「雨の中でタバコって吸えるんですか?」「デヴォーが喫煙家だっけ」「デヴォーは斥候だからタバコは吸わん。サクソンだ」「禁煙してただろ」などなど。その場の誰もがメッセージの意図をくみ取ろうと首をひねっていた。
「――慌ててたなら、見間違いじゃねぇのか……? あそこすげぇ暗いからな」
筋骨隆々とした男が近づいてスクロールを覗き込んだ。イルバーンはスクロールをその男に渡すと、一歩前に出る。
彼の前には十一人の冒険者達。全員、この絆の深淵に挑む仲間。攻略隊のメンバーだ。三人ひと組の小隊がこの場には四チーム。〈アルファチーム〉、〈チャーリーチーム〉、〈エコーチーム〉、〈フォックスチーム〉だ。本来は、ここにもう一隊いるはずだった。
「〈ブラボーチーム〉はベテランで組まれたチームです。見間違いや冗談ではないでしょう。マイクさんはもう二十年もダンジョンを渡り歩いてきたその道の人。過去、別のN級ダンジョンで幽鬼との遭遇経験もあります。デヴォーさんは迷いの森出身のベテランエルフ。サクソンさんも小国で切り込み隊長を務めているほどの剛の者です」
いったん区切り、イルバーンが続ける。
「幽鬼に全滅を喫すると、ダンジョンの入り口まで戻されます。それはマイクさんの経験談と、この絆の深淵に挑んだ過去の勇者達の記録――〈勇者の追憶〉が示しています」
イルバーンが腰に収めていた本を一冊取り出して見せた。それは彼がS級冒険者となったその日に、使命と共に王女から下賜された国の秘伝だ。
古文書は過去に絆の深淵に挑んだ勇者達が記し、後生に残したと言い伝えられている。あの悪夢の迷宮を攻略する傑物が現れた時のために。
「駄目ね、イルバーン……メッセージは届かなかったわ」
女魔法使いマキアが早足で戻ってきた。
「そうですか……ならば残念ですが、ブラボーチームはこれで離脱と見做します。そして幽鬼が出たことも、これでほぼ確定でしょう」
「幽鬼が深層に出るっていうのも、その古文書の言い伝えだろう? なぜ五十階層に出た?」
狼の顔を持つ男が言った。
「はい。その通りです……ですが、“主に”深層です。幽鬼は、どの階層にも現れる可能性があることも、勇者の追憶が同時に示しています。その遭遇率が、最奥ほど高いということです」
「時間制限ってことはない?」
マキアが上げた声に、場にかすかな動揺が走った。
「――可能性はあります。古文書には、長くダンジョンに留まると抗えぬ死が訪れるとも書かれています……我々は、早いペースでここまで来たと考えていましたが、実際は、過去の挑戦者達よりも遅いのかも知れません」
「おいおい――」
「これより早くなんて、無理だぞ」
「どうなってんだ、このダンジョン……」
ざわめきが起こった。
それを制するのもまた、イルバーンだ。
彼は若い。しかし、この場の全員の信頼を勝ち得ている人物でもあった。
「全員、落ち着いて。何があったにせよ、我々がやることは変わりません。マキアさん、ブラボーチームを抜いた攻略計画を練り直してください。オレガノさん、虫下しが期待できなくなったので、魔力的に厳しいかと思いますが〈メンド・コンディション〉で寄生の恐れがある人たちを全て癒やしてください」
「わかったわ」
「了解、隊長」
魔法使いマキアと、神官服の男オレガノが同時に頷いた。
イルバーンが声のボリュームを上げる。
「皆さん聞いてください。ここで引き返したり、やり直している時間はありません……ペースを上げましょう」
その場の全員の視線がイルバーンに突き刺さるが、彼は堂々と続ける。
「では、各チームのリーダーはマキアさんのところに集合してください。寄生の可能性に、少しでも思い当たる方はオレガノさんのところへ。当面はオレガノさんの魔力が枯渇しますので、大きなケガや病気、毒には十分注意してください。また今後、魔力ポーションの数も節約を――」
「僕だって回復魔法、使えるよー!」
イルバーンを遮って突如飛び上がった真っ白ふわふわの生き物に、場の緊張が和らいだ。
「ふふふっ……そうでしたね。フラミーさんがいれば、百人力です」
ぽつぽつと上がった小さな笑い声に釣られ、イルバーンもまた少し表情を崩した。しかしすぐに顔を引き締めて続ける。
「僕らには〈聖剣〉が必要です……幽鬼の出現は織り込み済み。多少のイレギュラーは覚悟の上。〈スターチェイサー〉はこのまま、計画通りこのダンジョンの最奥へと向かいます。少し危険ですが、明日から攻略ペースを上げるので、皆さんの力をどうか僕に貸してください」
肯定の沈黙が降りた。
万謝の燭が放つ恨めしい火影の揺らめきが、一同の決然とした顔を照らしていた。




