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短編

彼女の見る世界

作者: 蟻有巣




 ごうっと風が吹き抜ける。電車が来るのだ。鉄の塊が来る前に、風が吹く。地下だというのに風が吹く。私は顔にかかる髪を左手で整え、ぼんやりと電車が来る方を見た。右手に握り締めていたカセットテープを鞄に仕舞う。そしてふと思い出した。彼女の言葉を。


「地下鉄って、とっても長いよね」


 何を言っているのだろうと、その時は思った。彼女の言葉はたいてい理解不能である。しかし、ふとした時に思い出す。そして、その意味を察するのだ。答え合わせはしないけれど。一分遅れで到着した電車に乗る。遅延だなんだと騒ぐ気はないけれど、時間通りに来なければ文句を言いたくなる。これで乗り換えに失敗したらどうするのだ。というよりも、数分の遅延で乗り換えに失敗するような、タイムスケジュールにしている会社に問題があると思うのだが。


 地下鉄に乗って数十分、うたた寝から目覚めると、丁度国会議事堂前駅に停車中だった。乗り換えの駅まであと数駅である。


 彼女は国立図書館が好きであった。国内のありとあらゆる出版物が保存されているとはいえ、通常の図書館と違い、資料を持ち帰れないので私は好きではない。


「公共施設はね、私達に優しいの」


 そりゃあ優しいだろう、と私は応えたのだと思う。記憶は曖昧だ。公共施設は国民のための施設であり、国民に優しくするべきだと思ったはずだ。恐らく、彼女の言葉の意味合いはそういうものではないのだろうけど。まあ、特別な彼女にはより優しいのだ。


 国立図書館にいる彼女は楽しそうであった。私は漫画を読みながら時間を潰し、時折彼女の様子を見る。職員と楽しそうに会話をしたり、好みの資料を探したりと、時間がいくらあっても足りないと言わんばかりの楽しみようである。


 彼女の楽しみを味わいたくて、お勧めの本を読んだことがある。なんてことのない、普通の小説であった。有名な賞をとったり、映像化したりしていない、普通の小説。もう既に、作者も題名も忘れてしまったが、若者が将来に悩むというありきたりな内容だったと思う。


 読み終えたものの、特に感動もなく、感想を聞かれて困ったのだ。普通、と馬鹿っぽい感想しか返せず、私はとても嫌になった。


 そんな私の感想を聞いて、彼女は楽しげに笑うのだ。馬鹿にするでもなく、笑うのだ。


「普通って、奥深いわ」


 普通は奥深いのだろうか。普通は普通だ。深くもなく広くもなく、薄っぺらい言葉である。浅い言葉だ。

 私が首を傾げても、彼女はうふふと笑う。意味ありげに笑うだけだ。


 彼女はとても頭がよかった。学校の成績ももちろんよかったが、それとは別に頭がよかった。頭が回る、と言うのだろうか。人の感情に敏感で、世渡りもうまい、と思う。あくまで私の印象である。そんな彼女を嫌う人はある程度いたが、彼女を表立って非難するようなことはなかった。そうすればすぐにでも、性格が悪いという印象になるだろう。そういうところを、彼女は分かっていながら、己を嫌う人々をあしらっていたように思う。 私も彼女が嫌いだった。嫌いというよりも、苦手というべきなのだろうが、私は彼女が嫌いだった。


 頭も愛想もいい彼女は、ほとんどの人から好かれる。だから嫌い。


 子供のような、つまらない嫉妬である。


 私は頭もよくないし、愛想も悪い。口がへの字の形をしているからか、ぶすっとしているとよく言われる。彼女はいつもにこにこしていた。顔の形なのだ、と私は思うのだが、性格が顔に出ていると思う人は多いのだろう。


 顔なんて、遺伝子と環境の結果だと、彼女に言ったことがある。そんな私を、彼女はくすくすと笑った。駄々を捏ねる子供を見る母のように、仕様がないと言いたげな笑い方だった。


「人は視覚の情報に頼りっきりなの。それが、どれほど曖昧なものかも知らないのに」


 私と彼女は違う。そう言われたような気がした。事実、私と彼女は違う人間で、感じるものも違う。見ている世界なんて、全く違う。


 私は彼女が言葉を発する度、ため息を吐いた。


 ぼんやりと過去に思いを馳せていれば、乗り換えの駅についた。東京駅。日本の都市、東京の名前の駅。どうして、ここが東京駅なのだろう。東京の中心なのだろうか。数年前、私は彼女に聞こうと思った。でも、聞かなかった。どうでもいいことだ。インターネットで調べれば出てくるかもしれない。それに、彼女の言うことが事実だとは限らない。


 多くの彼女の言葉を飲み込んできた私は、彼女と出会って十年経ち、その時やっとそんな疑いを抱いた。




 十数年前、出会ったときから彼女が嫌いだった。彼女が嫌いのまま、十年疑うことなく、彼女の傍にいた。そして数年前、彼女の傍を離れた。私が、必要なくなったから。


 彼女との出会いは中学時代だった。入学式の日、入学生代表挨拶をしたのが、彼女である。小学校時代は特別な学校にいたという彼女は、迷うことなく壇上に上がり、真っ直ぐな声で挨拶を読み上げた。小学校なんて、給食と昼休みだけが楽しみだった私には、中学生とはこうあるべき、という姿に見えた。彼女も本日、中学生になったばかりだと言うのに。そのことに、はたと気づいた私は、大人に見えた彼女が嫌いになった。


 幸いなことにクラスは別であった。だが、同じ部活に入部してしまう。コンピュータ部だ。その上、一年後は同じクラスだった。中学二年、三年だけ、同じクラスだった。私は半分幽霊部員だったが、彼女はコンピュータ部のマドンナだったと、唯一真面な交流があった部員が教えてくれた。コンピュータ部の名前がコンピュータなのが嫌いな私は、どうでもよかった。彼女は好きな様だ。


「古き良きって感じ」


 それが彼女の感想だ。


 その後は、同じ高校に進みつつも、彼女は特進クラスで、私は普通クラス。中学校の反省を生かし、私は帰宅部になった。彼女は読書部である。パソコン部は気に入らなかったらしい。


 私は帰宅部だったが、帰りは彼女と一緒だった。彼女の部活中は宿題をしたり、携帯電話を弄ったりして時間を潰す。帰宅部にしたが、早く帰りたい理由もなく、遊ぶお金もない。


 彼女は私の家の近くに住んでいた。同じ中学校だったのだ。近くて当たり前なのだが、彼女のような人と、生活圏が重なっているのは不思議だった。最寄り駅を挟み、南と北に分かれている私達は、最寄り駅まで一緒に帰る。それが少し遠い高校に進学する上での約束だそうだ。


 私には何の了承もなく決まった約束。嫌だと言うのは簡単だったかもしれない。しかし、私の両親は彼女を好いている上、いつもいつも彼女の支えになってあげてと言ってくる。嫌だと言っても、酷いことを言わないでと非難されるだけだ。彼女は守られて支えられて当然の存在。そんなこと、彼女は望んでいないのだろうけれど、周りは理解しないだろう。


「支えられるってありがたい。でもね、時々鬱陶しくなるの」


 なんて我が儘なのだろうと思った。彼女は私が羨ましいのだろう。私と彼女は違う。持っているものが違う。だから私も、彼女が羨ましい。


 中央線に乗り換えて数駅、実家の最寄り駅まではまだ暫くかかる。彼女は電車に乗るのが好きだった。規則的な揺れ、社内に流れるアナウンス。私を含め多くの人が厭うであろう満員電車でさえ、彼女は楽しんでいた。


「電車に乗っていると、見えないものが見えている気がするわ」


 彼女は何が見えたのだろう。私には分からない。彼女と見ているものが違うから。


 私と彼女は別々の大学に進んだ。学力的にも同じ大学は無理がある。私はゆるゆるな三流大学へ、彼女は誰もが聞いたことのあるような有名な大学へ。私は一人暮らしを始めたが、彼女は実家通い。彼女の一人暮らしなど、彼女の両親が許しはしない。私とルームシェアするという話が持ち上がったことがあったが、それは全力で拒否させてもらった。彼女に何かがあった時、私のせいにされてはたまらない。何より、私は彼女から解放されたかった。


 もういい加減、彼女に付き合うのに飽き飽きしていた。彼女は何よりも真っ直ぐに己と向き合い、出来ることの中で輝こうとしている。その輝きは、私にとって眩しすぎる。


 私は大学生活を満喫した。やる気のないサークルに所属し、どうでもいい世間話に花を咲かせ、講義では居眠りをし、居眠りのせいで難易度の上がった試験に頭を抱えた。


 一人の気ままな生活は私をより駄目な人間にしたけれど、一人の大切さを知った。


 アルバイトもしてみた。短期のものばかりだったが、仕事の辛さを学んだ。こんなことを、毎日しなくてはならいなんて。ずっと学生を続けたかった。


 彼女と離れられたと思っていた私だったが、残念ながら彼女との縁は切れなかった。毎週末、彼女の国立図書館通いの付き添いを命じられたからだ。これもアルバイトのようなもので、彼女の両親から給料が出ていた。そのことに私の両親は眉を寄せたけれど、私は断固としてただ働きはしない。彼女も望まない。彼女は一人でも国立図書館に行けるのだ。図書館に入ってしまえば、職員達が彼女の手伝いをするだろう。そこに私は必要ない。それでも、身を案じる彼女の両親が、図書館通いの付き添いとして私をつけることを望んだ。彼女の両親の自己満足のための拘束に、お金が発生しないなど、私は許せなかった。


 世間一般ではボランティアだろうと言われるかもしれない。しかし、それは彼女が嫌がることだ。私は、それを知っていた。


「漫画を読んでお金が発生するって素晴らしいわね」


 その言葉には、私も同意した。




 電車は二十三区を出た。三鷹を過ぎるあたりで、ぼんやりとジブリ美術館に行った時のことを思い出す。彼女はいない。一人で行った時のことだ。彼女が行きたいと言った。だから二人分、チケットを買った。でも、彼女は行かなかった。行けなかった。彼女の両親が行ってはいけないと言ったからだ。どうしてなのかは、今もまだ分からない。


 大学の卒業が見えた時、周りは就職活動に必死だった。私は私で就職先を探していたけれど、世間一般の様に、必死ではなかった。やりたいこともなく、将来のビジョンもない。自分のセールスポイントなんて見つからず、自己PRの作成に苦しんだ。彼女に聞けばきっと素晴らしい回答をくれるだろう。しかし、私は彼女に聞くことはなかった。就職についても、相談はしなかった。


 彼女にはやりたいことがいっぱいあった。私と違い、なりたい未来があった。その障害は私よりも多い。やりたいことのない私の障害は少なく、やりたいことの多い彼女の障害は多い。世の中、そんな理不尽なことばかりだ。いや、逆なのだろう。障害がなく、選択肢が多いからこそ決められない私。障害が多く、選択しが少ないからこそ、やりたいことの多い彼女。


 図書館で読んでいた漫画の一コマ。その主人公の台詞を真似て、彼女は言った。


「駄目だと言われると、やりたくなるわ」


 やればいいのではないかと適当に返した気がする。その時、ふと気づいたのだ。彼女のやりたいことは、私がやろうとすれば容易なのだと。


 私はそこそこ大手の、使い捨て感満載の営業職に就職した。希望すればどんな部署にも異動可能だとか。ただ、三年は営業職で固定らしい。皆が通る道。ほとんどの人がやりたがらないからこそ、新人を入れるというありがちなルート。営業は嫌だと思っていたけれど、結局優秀ではない私は希望通りの職になどつけないのだと痛感した。


 一方、彼女は就職活動はしなかった。大学院への進学が決まっていたのだ。彼女から進学が決まったと聞いた時、学生を続けられる彼女を羨ましく思った。しかし、彼女は学生を続けたいとは思っていなかったのだろう。彼女の進学を誇らしげに話す彼女の両親の姿を見て、これは親の意向なのだと気づいた。


 彼女は叶えられる希望しか口にしない。私は、彼女が本当にやりたいことなど、聞いたことはないのだろう。


 私は彼女が嫌いだと、再認識した。




 仕事が遅いと遠回しに非難される日々。もっと努力をしろと言うだけの上司。もっと働きやすい会社にするのだと根回しに忙しい労働組合。愚痴ばかりの同僚の話に付き合う仕事上がり。


 社会人とはこんなに面倒なものなのかと嫌になりつつ、仕事を捨てることが出来ない自分。仕事は嫌だが社宅はなかなかに居心地がいいので、尚のこと仕事をやめる気は起きない。いっそのこと倒産してしまえと思うこともあるが、小さくない会社なので現実味はない。


 生きていくためには働かなくてはならない。分かっていたからこそ、諦めて就職したのだ。定年が待ち遠しい。


 社会人になって久しぶりに会う彼女に、愚痴をぶつけてみれば、大学院生はくすくすと笑うだけだった。


「普通の社会人ね」


 普通の社会人である。私は彼女のような特別ではないのだ。彼女を羨むと同時に、彼女に私は理解出来ないだろうと突っぱねた。


 そんなことは、出会った時から知っていたのに。


 彼女は私の普通を羨む。私は彼女の特別を羨む。出会った時から変わらない、ないもの強請り。


 大学院を卒業した彼女は、大学教授の助手として働き始めた。職場は過ごしやすいという。それは、家が過ごしにくいという、遠回しのアピールだった。


 彼女が就職したことで、尚のこと私達は疎遠になった。実家に帰っても、彼女に会うことはない。それでも、彼女の近況は親を通して私に知らされていた。やれ教授や学生からの評判がいいだの、やれ職場で彼氏が出来ただの、聞いてもいないのに教えてくる。私の親は、私のことよりも彼女のことのほうが詳しいのではないかと思えた。


 実家に帰る度、彼女に会わないのかと聞かれる。私はただ、お互いに忙しいのだと言うだけだ。


 彼女は普通の人のように働き、恋人を作り、同僚へ小さな不満を吐き出す。そこに、私などは必要ではなく、私もまた嫉妬心を擽る彼女のと離れられたことは幸いだったのだと思う。


 会うことはなくとも情報は流れてくる。数年疎遠でも、私の生活の端々に彼女の陰はあった。


 三鷹を過ぎて数十分、実家の最寄り駅に到着した。特徴もない住宅街。数駅電車に乗ればそこそこ栄えた街に出られるような、ありきたりな立地である。だからこそ、多くの人が住んでいた。懐かしいと思うほど離れていたわけではない。薄暗く沈んでいるように見えるのは、曇り空のせいか、それとも。


 実家にたどり着いた私は、まず母親の嫌味に迎えられた。もっと早く来なさいとぐちぐち文句を言われる。私だって、初めは荻窪経由で来るつもりだった。しかし、無意味に遠回りをしてしまったのだ。いや、意味はあったのかもしれない。心の整理のための時間だったのだと思う。


 その連絡を受けたのは仕事中のことだった。営業先に向かう途中、鳴り響く携帯電話の着信音。『聖者の行進』が流れた瞬間、私はびくりと肩を竦めた。音量を大きく設定しているための驚きもあるが、仕事中にかかってくる電話でいいことはない。職場からの電話であれば大抵問題が発生した時だ。


 電話の主は母だった。私が電話に出ると、母は暫く無言。私はどうかしたのかと問いかける。スピーカーから聞こえて聞こえてきたのは嗚咽だった。泣きながら母は言う。彼女が死んだのだと。 私はその後、いつも通りの仕事をこなし、仕事の出来ない罪悪感からサービス残業をし、一人暮らしのアパートへ帰ってきた。


 今度はこちらから実家へと電話をかける。日中は忙しいと電話を切ったのだ。母のヒステリック気味の罵倒を流し、彼女のことについて詳細を聞く。


 彼女は大学の創立記念日とかで、平日の今日は祝日だった。同じ職場の彼氏とデートで出掛けようと、最寄り駅から中央線に乗り込む。そこまでは、彼女の親が見送っていた。いつものことだ。仕事に行く時でさえも、見送りはあるのだと彼女は言っていた。


 彼氏との待ち合わせ場所に向かう途中、乗り換えのために新宿駅へ降り立った。山手線に乗り換えようと、ホームで電車を待っている時、彼女は線路に落ちたのだと言う。電車が来ようとしていた。アナウンスが流れていた。プラットホームを走っていた人に突き飛ばされたのだと、警察から聞いたそうだ。


 突き飛ばした人は逃げた。助けるのは不可能だと瞬時に判断したのではないかと、母は憎しみを込めて言っていた。でも、私は違うのだと思う。突き飛ばしてしまった瞬間に、助けなければと思う間もなく、電車がプラットホームに入ったのではないか。逃げたことに違いはないのだろうが。


 警察から彼女の両親に知らされたのは暫く後のことだった。待ち合わせの時間に遅れた彼女を心配した彼氏が、彼女と連絡がつかないことを心配し、いざという時のために教わっていた彼女の実家への電話したのは、警察の連絡よりも早かったという。


 やはり彼女は特別だと、私はぼんやりとどうでもいいことを思った。待ち合わせに現れない最愛の彼女。全く、ありきたりな悲劇だった。


 彼女を知らない人からすれば、ただの人身事故だったのかもしれない。彼女を愛する人からすれば、鉄の塊による殺人である。彼女をとくに愛していた彼女の両親は、発狂したように泣き叫び、喚き散らし、電池が切れた玩具のように、失神したそうだ。今も、心神衰弱により入院している。それでも、彼女の葬式を行わなければならない。日本の法律は、親が立ち直ることを待たずに、葬式屋に営業させるのだ。


 黒い喪服に着替えた私は、両親と供に最寄り駅を越え、彼女の家へ向かった。呼吸し辛いような、重苦しい空気は、彼女の家へ向かうにつれ、より重くなっていく。


 彼女は近所の人々とも、うまく関係を築いていた。皆、彼女を失って悲しんでいるのだろう。


 提灯が下げられた彼女の家に入る。彼女の家に入るのも久しぶりだ。恐らく、中学生の時くらいしか入ったことがないのではないだろうか。彼女の家に行くより、私の家に彼女が来ることの方が多かったのだと、その時初めて気づいた。


 目の下に隈を作り、げっそりとやつれた彼女の両親が深々と頭を下げつつ、私達を向かい入れる。私の両親も深々と頭を下げ、涙声混じりに定番の挨拶を口にした。私は何も言わずに、頭を下げる。お悔やみなど、彼女は求めていない。唇を噛み締め、欠伸を噛み殺す。寝不足なのだ。欠伸は噛み殺せたが、涙が一筋、こぼれ落ちた。それで、彼女の両親は満足したようであった。涙を流して、私に感謝の言葉を述べる。



 娘が大変世話になった。


 あの子は目が見えないながらも、あんなに生き生きと生活できたのは貴方のお陰よ。


 盲学校から一般の中学校へ移して正解だった。あの子はあの子なりに、普通の人と同じように、生活するように努力し、そして普通の人のように生活できた。ありがとう。


 何を勝手なことを。



 暴言を吐きそうになり、尚のこと唇を噛み締める。いつの間にか出来ていたヘルペスが、じくじくと痛んだ。


 彼女は普通の学校になど、来たくはなかった。そんなことを言うことはなかったが、盲学校では皆が同じ暗闇の中に生きているのだと、懐かしそうに零すのを何度も聞いている。


 彼女は特別だった。特別だったのに、普通の枠に収まれと、彼女の両親が望むから、彼女は彼女の願いを仕舞い込んで、普通になろうと必死だった。どんなに努力をしても、彼女の特別は、特別のままだというのに。


 いくら彼女が普通になろうとしても、周囲は彼女が特別だと、その様な扱いをする。当然だ。彼女は支え守られる資格を持つのだから。


 普通になれという両親でさえも、彼女が心配だという免罪符を振りかざし、囲いの中で慈しもうとする。彼女はその矛盾を厭い、どうにもできないジレンマに悩まされていた。普通の人ならば一人で出来るものも、彼女の両親は出来ないと決めつける。普通の人と同じような生活をしてほしいと望みながら。


 彼女は一人だって生活出来た。世間は彼女に優しい。たとえ、私の付き添いがなくとも、高校でも国立図書館でも、一人で楽しむことはできたのだ。それをさせなかったのは、この両親である。


 葬式は既に終わっていた。今夜はお通夜なのである。彼女の死体は、有り体に言えば挽肉になったのだ。全身を強打し、悲惨な状態だったと、彼女を好いていた近所の人が、親切に教えてくれた。だから、身内だけで彼女を焼いたのだ。もはや彼女に肉はなく、光しか捉え得ぬ眼球もなく、白い骨だけ。小さな壺に入っている。


 父から順番に焼香する。線香の独特の香りが、彼女が死んだのだと、鼻から訴えかけてきた。


 だからどうした。私は彼女が嫌いなのだ。特別で、優秀で、ないもの強請りをする彼女が。


 私の順番になり、彼女の両親へもう一度頭を下げてから、私は焼香をし、手を合わせる。


 彼女は死に際まで特別だった。若くして死んだのだ。特別だ。


 最期まで普通になれやしなかったねと、私は心の中で馬鹿にした。




 続々と現れる弔問客。私達親子は、また日を改めましょうと、早々に帰ることにした。両親は、何かお力になれることがあればと、これまたあきりたりな挨拶をして、彼女の家を出る。


 彼女の家の外に出ても、線香の臭いが鼻の先に残っている気がした。


 未だに泣き止まない両親から二歩下がって歩いていると、最寄り駅と彼女の家の中間くらいの場所で、泣き腫らした目の男が、不審者よろしくうろついていた。両親に、やはり彼女へ言いたいことがあるので、もう一度会いに行ってくると言えば、先に帰っているからゆっくりしておいでと言われた。両親の中で、私と彼女は親友のくくりなのだ。ここ数年疎遠であっても。


 両親が去って行って暫く。恐らく聞こえる位置にいないと判断し、私は不審者に声をかけた。


 彼女の彼氏か、と。


 男は、泣き腫らした目を見開き、私を頭のてっぺんからつま先までじろじろ見つめ、掠れた声で私の名前を口にした。


 頷いて肯定すれば、男はさめざめと涙を流す。



 俺のせいなんだ。俺が最寄り駅まで迎えに来ていれば。何度も彼女に言ったんだ。けれど、彼女はいらないと言うばかり。せめて、乗り換えの駅で待ち合わせをしていれば。



 懺悔するように、後悔を口にする男へ、私はここは教会ではないと言った。



 君なら知っている筈だ。彼女が普通の人と同じように生活出来ないってことくらい。ずっと一緒にいたはずなのに。俺は君の代わりとして、役目を果たせなかった。



 役目とはなんなのか。確かに、私が彼女の付き添いをするのは、後々仕事となった。しかし、それまでは無償だ。友人と供にいることに、金銭が発生する筈などないのに。彼女を私にとって友人ではなくならせたのは、彼女の両親だ。


 彼女が成長し、必要なのが友達よりも生涯支え合う夫となるべき人だと彼女の両親は思い、この男をあてがったのだろう。確かに、男と彼女は同じ職場だ。だが、男は大学教授であり、彼女の両親の知人の息子。出会いは見合いだと聞く。


 彼女の周りは真綿で囲われている。彼女の罪悪感を刺激し、己の保護の元、己の望む娘になれとやんわりと強要したのは彼女の両親だ。



 俺や君と同じように、彼女は見えない。障害を持っているのだ。守らなければ。守らなければならなかったのに。



 私と貴方が同じものを見ている、ですって。



 私は苛立ちを抑えきれずに、吐き捨てた。


「世界はね、眼球ごとに存在するんですって。同じ世界を見ているつもりでも、本当に同じものが見えている訳ではないの。太陽の色は、国によって違うでしょう? そういうことよ」


 何を小難しいことを、と思った。でも、私もそう思うよと、今なら言える。



 私と貴方は同じものを見ちゃいない。私の目に映る彼女と、貴方の目に映る彼女は同じなんかじゃない。私に目に映る彼女も、貴方の目に映る彼女も、本当の彼女ではないのよ。



 私は男に、持っていたカセットテープを投げつけた。中身は私の声の江戸川乱歩だった。彼女から作ってほしいと言われ、長い間忘れていたもの。死んでから思い出して、急いで吹き込んだのだ。


 踵を返し、最寄り駅へと向けて歩き出す。


 彼女の両親は、私を責めなかった。私が傍にいればと、恨み言を言うこともなかった。彼女の両親にとって、私は役目を解放された、退職者みたいなものだ。


 私が傍にいれば、彼女が死ぬことはなかったのだろうか。そんなこと、想像したって仕方がない。私は彼女が嫌いなのだ。でも、最寄り駅から一緒に、出掛けていたかもしれない。


 ぽつりぽつりと、曇り空から水滴が落ちてくる。まるで、神様も彼女の死を悲しんでいるよう、なんてあのお目出度い男は言うのかもしれない。雨は所詮雨である。神様が泣いたところで、雨など降るものか。


 歩道の端で目を瞑り、束の間の暗闇を感じる。たとえ、私の目が見えずとも、彼女と同じ世界を見ることはないだろう。彼女の目が見えていようと、私と同じ世界を見ることはないだろう。


 私は彼女が嫌いだ。守られ、支えられ、優秀で、道筋が決まっている。そんな、安らかな世界が羨ましかった。


 きっと彼女も、こんな私が嫌いだったのだろう。目に映るものに興味を持たず、惰性に生き、あまたの選択肢を見ようともしない、彼女よりも自由がある私を。


 お互いにない物強請りをするばかり。


 それでも、私達は友人だった。似たようなことに不満を覚え、義務的な親孝行心で両親に冷たくすることが出来ず、否定されるとすぐに諦めてしまう。そんな共通点が、私達の心をつないでいたのだと、私は思っている。


 彼女も、私が死んだからと言って涙を流さないだろう。解放されてよかったねと、喜ぶのかもしれない。今の私のように。


 口角を上げ、本降りになりつつある雨雲を見上た。


 彼女の死は私に変化をもたらさないだろう。今まで通り、私は生きるために働き、辞めたいと口だけの虚勢を張り、時折、彼女の言葉を思い出す。今となんら変わりはない。そして、私もまた死んだ時、彼女に言えるのだろうか。いつか、彼女が言った時と同じ言葉を。


「生きるって、たいしたことないわ」


 私の中には、長年降り積もった埃のように、彼女の言葉がある。鬱陶しくて仕方がない。それでも、この意味のあるのかないのか分からない言葉と供に、私は生きていくしかない。私の中に残っているということは、私の心に彼女の言葉が突き刺さったと言うことなのだから。


 私はやはり彼女が嫌いだ。先に生きることから解放された彼女が、羨ましくて仕方がないのだから。







お読みいただきありがとうございました。

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[一言] 家族は最も近い他人だなと思いました。
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