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後編:カレシの事情




 麦岡健太が高校中退を決意したのは、一年生の夏だった。


 スポーツ特待生として野球部に入った彼は夏の予選時にはセカンドのポジションを獲得できる程度の実力があって、運にも恵まれた。不運だったのは投手陣の能力を超える打撃力が対戦相手にあったことと、敗戦後に指導者が女子マネージャー達に性的暴行を繰り返していたことが発覚した事だった。


 指導者達の逮捕は勿論、野球部が事実上の廃部となってしまった以上、そこに彼の居場所は存在しなかった。

 被害を受けた女子マネージャーの一人が中学からの同級生だったこと。

 事件発覚直後に彼女が自殺未遂を起こしたこと。

 そして麦岡健太を含む数名の野球部員が、逮捕から逃れようとした指導者達を必要以上に苛烈な力で拘束したこと。


 それらの要素が相まって、彼はあっさりと高校を辞めた。

 野球への未練を引きずったまま残りの学生生活を送れるほど彼は図太くなかった。そして病室にて女子マネージャーがムギクンミナイデミナイデと半狂乱になる姿を見た以上、地元に留まってはいけないという思いもあった。




▽▽▽




「知ってるかい健太、こいつは君がリトルリーグ時代に行ったドミニカって国のコーヒー豆だ」


 生き甲斐の半分以上を見失って抜け殻のようになっていた彼に転機をもたらしたのは、遠く離れた地で純喫茶を営む伯父夫婦だ。

 五年ぶりに再会した伯父は健太に一杯のコーヒーを出した。

 淡い琥珀色の液体は、野球の事しか考えていなかった頃は決して飲もうと思わなかったものだ。味のある飲み物で口にしていたのはプロテイン入りの牛乳かスポーツドリンクくらいという徹底ぶりで、だから彼はどう飲めば良いのか分からなかった。


「飲みやすいように、好きなように」


 美味しいと思わなくてもいい。

 でも健太が野球の国だと考えていたドミニカにも、多くの日本人を驚かせて喜ばせているモノがあることを知ってほしい。

 定休日だというのに厨房の火を起こして用意してくれた特別の一杯。結局のところ、その一杯その一口が彼の人生を救い、数年後にもう一人くらいの人生も救った事になる。




▽▽▽




「ごめんムギ、俺が悪かった」


 同じ学科に所属する冠李正がそう言って突然土下座したのは、入学して二か月ほど経った頃だった。


「悪かったって、何が」

「ムギが矢車と妙に仲がいいから、弱味でも握ろうとしてお前のこと調べようとした」


 そういうのは別に口にしなけりゃいいのにと、二人のやり取りを見ていた矢車季久子の発した一言が、期せず聴衆となった学科全員の総意と言えた。聞かざる知らずを貫けば此方も彼方も傷つかずに済む話もあるのだ。

 実際、冠李とは別のルートで麦岡の過去を知った学生は複数名いたが、彼らは沈黙を選んだ。迂闊に踏み込んでよい話ではないし、同情する事さえ当事者にとっては侮辱となる可能性すらあった。


 だが、良くも悪くも冠李という男は真っ直ぐであり馬鹿でもあった。


「だけど! 俺はサイテーな理由でムギの過去に無神経に踏み込んだ。俺を殴れ、殴ってくれムギ!」

「おっけー貴様に遥かな眠りの旅を与えよう」


 あかんこいつ話を聞いていない。

 どうしたものかと困惑する麦岡に代わり行動に移したのは矢車であり、土下座した冠李の背後に立つや股間を躊躇なく尻ごと蹴り上げて砕いた。サッカーボールよろしく数度跳ねてから痙攣する冠李の口からは健全な生命が決して吐き出してはいけない類の何かがエクトプラズムの如く垂れ流す。周囲が唖然とし冠李が痙攣する中、眉間に皺を寄せたままの矢車は麦岡の腕を掴んでその場を離脱した。

 追いかける者はいない。




「あのさ、矢車さん」

「んだよ」

「──なんで泣いてるの、かな」


 学生食堂を飛び出し大学図書館近くまで引っ張られて、ようやく麦岡はそれだけを言った。

 露出多めの派手な服装と麦岡への態度から商売女(コールガール)疑惑がかけられた時も鼻で嗤っていた彼女が、ボロボロと涙をこぼし、怒りと悔しさで表情を歪めている。


「アタシも、知ってた!」


 麦岡は一瞬だけ表情を強張らせた。


「麦岡のこと知りたかった」

「僕はコーヒーが好きで、映画見るのが好きで」

「知ってる、でもそれ以上に知りたくて!」

「君と出会って、そのおかげで入試なんとかなった」


 泣いていた矢車が固まる。

 なんで、という表情で。どうして、と唇だけを動かして。


「髪を切って服装も随分と派手になって、君だと気付くのに一か月かかったけど」

「……だせぇ」

「ダサくて鈍くてコーヒーの事ばかり考えてて、あのホットサンドを君以外のお客さんに食べさせたくない馬鹿野郎で」


 ここまで喋ってしまうのは、きっと女の涙に弱いからで。

 麦岡が気付いた時には、矢車季久子は両手で耳をふさいでしゃがみ込んでいた。


「だっせえアタシ」

「かっこいいですよ。男連中、他の学部の奴まで君を口説いてきてるじゃないですか」


 可愛くて、露出の高い服で歩き回って、でも男に媚びた様子はない。

 奔放のようでいて、しかし誰かのために操を守っているようにも見える。だから意外にも学科内の女子は彼女を敵視せず、むしろ彼女の「恋」を応援している節があった。

 高校を中退し、伯父の店を手伝い、あるいは興味を抱いたコーヒーの産地を訪ね、彼は様々な人間に出会った。下種としか言いようのない者もいれば、貧してなお高潔な生き方を貫く者もいた。それらがウェイターとしての血肉になったと彼は自負している。


「変わらないと、あの人への未練をずっと抱えていると思われそうで嫌だった」

「抱えてたっていいじゃないですか」


 だが麦岡健太はウェイターとしてではなく、同じ学校に通う一人の男として矢車季久子の隣にいた。彼女の過去を知り現在を知り、その本質が変わっていないことを誰よりも理解している「友人」として。

 友人として。

 友人。


「新しい恋をしたっていいじゃないですか」

「麦、岡ぁ」

「恋人出来たら店に連れてきてください。あの特別なホットサンド、二人にお出ししますから」

「……麦岡?」


 悲しいかな、そこが麦岡という青年の限界だった。

 その辺の機微がなんとかなっているようならば、野球少年時代に別の生き方を見出せたのだから、当然ではあったが。






 その日、矢車季久子は同じ日に同期男性二名の股間を蹴り上げた猛者として大学内にその名を轟かす事になる。





【登場人物紹介】


・麦岡健太。19歳。リトルリーグでは全国八強のチームでスタメンに入った事もある。優れた動体視力と指先の絶妙なコントロールはセカンドから投手への転向さえ期待されていた。当時のマネージャーだった少女は今は日常生活に復帰した模様。高校中退後は伯父の影響で珈琲の世界に興味を持ち、野球少年時代の伝手で南米や東南アジアの産地を訪ねてコーヒー豆の収穫作業などを学んだ。ブラジルではべろんべろんに酔ったところをニューハーフと気付かず美女に解放された勢いで脱チェリーしてしまい後で気付いてしばらく女性不信になった。

 矢車季久子の強さと儚さを見て、その生き方を美しいと感じている。



・矢車季久子。18歳。ヘソと胸の谷間は見せ放題でも股は決して開かない。むしろ悪質なコンパで女子をお持ち帰りしようとする男達の股間を次々と蹴り上げていく様は多くのマゾヒストを大興奮させた。高校時代はわがままボディを無理やり文学少女スタイルに押し込める系の思春期少年キラーっぽい出で立ちで、年上のお兄さんと交際していた。二股かけられた挙句に既に妻子持ち状態と知らされたのが入試前日という最悪のコンディションで麦岡に拾われて人生設計の建て直しに成功する。



・冠李正。18歳。祖先を辿ると江戸時代の前に日本に(物騒な方法で)来ることになってしまった陶工の子孫の一人。ただし戦国時代の著名な刀匠集団や半農半忍や関ヶ原の合戦で西軍についた大名の血も流れている可能性がある。良くも悪くも隠しごとに向かない性格で、矢車に懸想するあまり麦岡の弱みを握ろうと過去の事件を迂闊にも知ってしまい、激しく後悔している。



・矢車季久子の元カレ。21歳。当時中学生だった季久子に手を出したクズ野郎でもある。大学入学直後にバイト先で年上の女性と関係を持ち、子供が生まれた。それでも当初は子育てしつつ学業を頑張る予定だったが色々あって(第二子懐妊とか)大学を中退した。現在は働きつつも良き父親として頑張っている。



・アボカドとゆで卵のホットサンド。純喫茶【The 2nd】伝説の裏メニュー。一浪は確実と言われた麦岡健太を現役合格させた縁起物であり、その馴れ初め話から【合格サンド】もしくは【サンドビッチ】のいずれかで呼ばれている。







・クレマ。エスプレッソの表面に浮かぶ泡の層。甘味と苦味を内包する。



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― 新着の感想 ―
[一言] 幸あれ…
[良い点] 家庭板案件と思いきや ほろにがジュブナイルに笑いを添えて いやー娯楽小説として秀逸で素敵 [気になる点] 主人公達の半生重いよw 普通なら腐れてしまうのが出会いで救われる 物語はこういう…
[良い点] 苦甘くていいっすね。ムギ君に幸せあれ。ってかもう確定か。
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