前編plus:カノジョの事情?
学生街と呼ばれる、大学近くの商店街がある。
専門書籍ばかり取り扱うマニアックな本屋に、品揃えが異様に濃すぎる個人経営の古書店に、ジャンク屋と呼んだ方が正しいリサイクルショップ。留学生たちが質草を持ち込む古今東西のアンティークを取り扱う雑貨店には何故か最新の実験機材が並ぶこともある。
飲食店も充実している。
学生向けの奥ゆかしい伝統的な定食屋もあれば、院生や講師陣が教授達の愚痴を吐きながら酒を呷る飲み屋もある。パーマネントの教授以上が足しげく通う小料理屋の隣には、およそ半年サイクルで交替していくファーストフードの店も。
それらの学生街の店の中で純喫茶【The 2nd】は、学部間の力関係や学生達の経済力に左右されることのない、数少ない中立地帯として認識されている。
もっとも多くの来客にとってはモーニング限定で用意される具沢山のサンドイッチと、専門店にも劣らない種類豊富なコーヒーを堪能できる貴重な空間である。それ以上の意味をその店に求めるのは野暮というものだと、足しげく通う馴染み客たちは考えている。
▽▽▽
「いらっしゃいませ、空いている席へどうぞ」
桜の花が咲くにはもうしばらく時間のかかる、入学式前の休日。
首元の涼しさに慣れないのか、幅広のチョーカーに手を添えながら矢車季久子はおよそ一ヶ月ぶりに店の扉を叩いた。
彼女を出迎えたのは五十代くらいの品の良い老婦人で、出勤前のひと時を過ごす会社員や学生達にニコニコしながらコーヒーとサンドイッチを届けている。
甘くて苦い空気が、不思議と懐かしい。
春物のコートこそ羽織っているが慣れぬミニスカートへの戸惑いを表に出さないよう苦労しながら季久子は窓際の席を選んだ。受験前日に彼女が木端微塵に砕け散ってしまった席が空いているのは、偶然にしては趣味が悪いと思いながら。
ホールを切り盛りしているのは老婦人ひとりで、あの店主も今は厨房の奥に引きこもっているようだ。
彼は。
あのウェイター……麦岡青年の姿は見えない。やはり一夜漬け程度では試験に合格できなかったのか。という事は、今頃彼は海の向こうでコーヒー修行だろうか。
(それなら、待てばいいか)
不動産屋で学生向けのアパートも契約した。
髪をバッサリ切ったことで色々と察した実家の両親たちは仮面浪人して別の学校を受験するのもアリだぞと気を遣ってくれたが、季久子は自身が驚くほど未練など残っていなかったので、その気持ちだけを有難く受け取った。
時間はある。
一年も通えば私も立派な常連客の仲間入りだろう。
あのウェイターさんが戻ってきたら驚かせてやろう。
店内を見渡してもアルバイトの募集が貼っていなかったのは残念だが、代わりにモーニングをテイクアウトできるという一言を見つけた。
あのホットサンドを食べながら大学を下見するのも悪くない。
「えーと、持ち帰りで。カフェ・ラッテと、アボカドとゆで卵のホットサンドを」
メニューも開かずにそう告げると、老婦人はあらーと小首を傾げた後に厨房に引っ込んだ。
しばしの沈黙の後、厨房でなにかフライパンや鍋がひっくり返る音が店内に響く。それは店としてかなり珍しいことなのだろう、常連と思しき講師らがカウンター席より身を乗り出して厨房の奥を覗き込んでいる。
「あの、お客様。どうしてもテイクアウトですか? 今日は天気も良いですし、三時間くらいお店でゆっくりされるとか素敵だと思いません?」
「天気いいなら学校でのんびり喰いたいっすね」
ですよねえと困った顔で微笑みながら、老婦人はホットサンドとカフェ・ラッテを持ち帰り用の紙バックに入れて渡してくれた。
「カフェ・ラッテ、お好きなんですね」
「この店で飲んだのが美味かったんで」
季久子としては普通に答えたつもりだったが、何人かの客がぎょっとした顔で彼女を見て、それから慌ててメニューを開いている。しかしカフェ・ラッテもホットサンドも載っていない。
「それで、あのタッパの高いウェイターさんが日本に戻ってきたら、また来ます」
「え、健ちゃんなら厨」
「んじゃ御馳走様」
おろおろしながらも引き留めようとする老婦人に笑顔で手を振って、季久子は店を出た。
校門前に並ぶ栃の樹と栗の樹は、仕送りを競馬や麻雀などでスった学生たちの命綱として長年愛されてきた……というウェイターが語った薀蓄話などを思い出しながら、あの夜と同じホットサンドを頬張ることにした。
入学式後のガイダンスで麦岡健太を見つけて盛大にずっこける数日前の出来事である。