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前編:カノジョの事情




 私には好きな人がいた。


 その人は兄の知人で、

 私より三歳上の大学生で、

 初めての唇と初めての夜を捧げた相手で、

 私は何も知らず、

 何でも知った気になっていた十五歳の生意気な餓鬼だった。


 彼は兄と違って華やかで、逞しくて、雄としての魅力と自信に満ちあふれた人だった。逢瀬はたった一夜だけど、私は苦痛よりも歓喜に満たされて朝を迎えることができた。


 私には好きな人がいた。


 彼を追いかけるように、私も同じ大学を受験した。一緒にいられる時間は一年しかないけど、会えなかった二年分を愛して愛して愛して、愛し尽くそうと思っていた。


 私には好きな人がいた。

 私の好きな人の隣には、お腹を大きく膨らませた女の人がいた。三十過ぎくらいの化粧の濃い女の人はテーブルの下で彼と手をつなぎ、私に侮蔑と敵意の混じった視線を向けていた。


「受験頑張ってくれ季久子ちゃん」


 窓の外に降る雪の激しさに表情を堅くした後、私の好きだった人は緊張を解すようにコーヒーを口にした。ここは学生時代に何度か来た店で、君も入学したら多分きっと通い詰めるくらい何でも美味しい店なんだよ。そう、ぎこちなく笑って見せた。


 大学は二年前に辞めていた。

 理由は聞けない。地元に戻ろうとしなかった事も含めて、きっと誰にも話さないだろうと思った。兄がこの二年間彼について何も語らなかった事も、きっとそういうことなのだろう。


「これ。俺が学生の頃に使ってた教科書とか。教養の授業とか、十年くらい同じ資料で講義する先生も多いからさ」


 そう言って渡された紙袋には、何度も何度も読んだ跡のある教科書が沢山入っていた。書き込みとか付箋紙とかが貼ったままのそれは、彼がどれだけ勉強が大好きで、どれだけの未練を抱えていたのか窺い知れた。


「三月には二人目が生まれるんだ。捨ててしまうくらいなら、季久子ちゃんが貰ってくれると嬉しい」


 私は何も言えず、そのまま受け取った。

 女の人は一度だけ会釈した後に彼の手を引っ張るようにして席を発ち、喫茶店のそのテーブル席には私とボロボロの教科書だけが残された。

 彼は今も逞しくて自信と魅力にあふれていて、でもそれは雄のそれではなく父親のものになっていた。たった二年の間で貌に刻まれた皺は彼が背負ったものの重さを物語っていて、それでも彼はそれを笑顔で受け止めていた。


 私がただひたすらに甘くて世間知らずな夢に溺れていた間、彼はコーヒーの澱よりも苦くて舌触りの悪い泥にも似た現実を戦っていたのだ。

 私に雌としての魅力があったら、彼は父であることを棄てて雄に戻っただろうか。雨混じりの雪が窓ガラスを激しく叩くのを眺めながら、私は自分の二年間を支えていた気力が抜けてしまったのを理解した。彼との逢瀬だけを目的に受験した学校で何を学べるのかさえ私は分かっていない。

 今日だって、本当は彼のアパートで過ごせたらと考えていた。自分に都合のよい夢を、それが正しい未来だと思いこんでいた。


 私は。

 私は本当に、馬鹿だ。


 他の客たちには私の姿がさぞ滑稽に映っただろう。黒い髪を腰まで伸ばしたセルフレーム眼鏡の女子高生が、妻子ある男に関係を迫ろうとして拒まれたのだ。しかも、大学受験の前日に。


 馬鹿だなあ。

 馬鹿だ、馬鹿だ。電話はいつも私からだった。あの人は「がんばれ季久子ちゃん」と励ましてくれることはあっても、愛を囁いたりしなかった。私だけが一方的に舞い上がって、燃え上がって、この様だ。


 泣くことすら私にはできない。

 泣く資格さえ私にはないのだ。


 外は大荒れだ。超大型低気圧が日本列島で猛威を振るっていると壁のTVで注意を呼びかけている。関東では陸路も空路も封鎖されて大変なことになっているようだ。


「失礼します」


 呆然としたまま一口も飲んでいないコーヒーが下げられて、代わりに湯気の立つカフェ・ラッテが目の前に置かれた。

 あの人たちが帰ってから、もう三時間くらい経っていた。

 格子縞のベストを着た昔ながらの服装のウェイターさんが、温かいカフェ・ラッテと一緒に手作りのサンドイッチを置く。荒みじんに切ったゆで卵とアボカドがたっぷり入った、熱々のホットサンドだ。


「あの、これ」

「当店アルバイトからの下心です」


 カウンターでサイフォンを磨いていた店主が答え、ウェイターさんがずっこける。


「マスター、その言い方はないでしょう」

「受験前夜に人生の修羅場に直面した女の子を元気づけたいって言ったのは、どこのムッツリ助平君だい健太君」


 ムッツリ助平と呼ばれたウェイターさんが、ぐぬぬと顔を赤くしながら咳払いし、事態を把握できずに目を白黒させている私を見る。


「失礼ながら、お客様の荷物に大学の受験票があるのを拝見しました」

「はあ」

「僕も明日、お客様と同じ大学を受験する予定でして。他人事とは思えず勝手ながら御夜食を用意させていただきました」


 え。

 ちょっと待って。

 私はウェイターさんを見る。身長はそれなりに高いし落ち着いた雰囲気だけど、なるほど高校生と言われても通じるような通じないような感じだ。いや問題はそこじゃない。


「なんで受験前日にバイトなんてしてるんですか!」

「当初は午後四時にバイトを終了して明日に備える予定でした」

「いま午後九時なんですけど!」


 ちなみにラストオーダーは午後八時半だぜいとカウンターの奥で喫茶店のマスターが笑う。食器も調理器具も片付けており、これ以上はどんな商品も出さないと言う意思表示だ。


「ですので。お客様が食事をされたのを見届けて、ご宿泊されているホテルにお送りしましたら自分も明日に備えます」

「なんで、どうして!」

「寝覚めが悪くなるからです」


 カウンターの奥で、いくつかの席で、店主と客が吹き出した。


「僕の安眠のためにも、お客様、どうか元気になってください」

「なによ、なによそれ」


 私も吹き出してしまう。

 何を真面目な顔で、こんな酷いことを言うんだろう。接客とか励ますとか、それ以前の問題だ。私は馬鹿馬鹿しさのあまり笑いそうになって、頬を緩めた途端に涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 なによこれ。

 涙が止まらない。鼻水も止まらない。喋ろうとしても横隔膜がひきつって、言葉も出てこない。頭の中で高校生活の思い出と、あの人と過ごそうと思っていた大学生活の夢が泥のように混じり合って、嗚咽となって私の口から漏れてくる。


 好きで、悔しくて、情けなくて、寂しくて。


 止まった時間が動き出したかのように私の胃袋は盛大に腹の虫を鳴らし、湯気を立てた熱々のホットサンドは泣きたくなるほど美味しかった。泣いてるのだ。泣きながら、食べてるのだ。失恋した女の自棄喰いだ。

 そして。


「店長、このひと宿の予約してないそうです」

「拾った人が責任もって面倒見るように」


 私の馬鹿な計画を聞いたウェイターさんが、しょっぱい顔で店主に助けを求め、店主は笑顔で責任の所在を彼に定めた。交番に突き出すなり実家に連絡させるなりすればいいのに、ウェイターさんも店主もその辺に意識は向かないようだ。


「……お客様。明日が受験本番なので、僕が劣情を催して犯罪に走る可能性はきわめて低いと思いますが、万が一の時は警察に通報して下さい」

「大丈夫です。童貞は理想高すぎるから中古女になんて見向きもしないって言いますし」


 青い顔で言うウェイターさんに私は笑顔でばっさり返した。

 閉店時間になって帰り支度をしていた数名のお客さん達が盛大にすっころび、店主は店主で「あーうー、そうだね童貞なら仕方ないよね」と言葉を濁した後にウェイターさんの肩を叩いた。


「安心だな健太」

「……そっすね」


 受験を無事に終えても理性が程良く砕けたままだったら、ウェイターさんに宿代代わりに思い出を差し上げた方がいいのだろうか。

 閉店後の掃除をする店主を残して私とウェイターさんは粉雪の降る中を歩いていく。店主の甥だという彼は一ヶ月前より喫茶店の近くにアパートを借りて、アルバイトしながら受験の最終調整をしているそうだ。


「高校中退してて。大検取った後は伯父の店を手伝いながら、ブラジルとかスマトラとかハワイとかコーヒーの産地に行ったりしてたんです」


 業務用の電動ミルに焙煎前の生豆が入った麻袋。産地からの手紙と写真が壁に貼られ、部屋の中は焙煎したコーヒー独特の甘苦い空気が満ちていた。

 勉強机に置かれた受験参考書は随分と使い込まれているが、エロ本やゲームの類は無い。代わりに積まれているのは様々な国の映画のDVDやビデオテープで、パッケージに日本語が全く書かれていないソフトも数本あった。


「ウェイターさん受験する学校間違えてない?」

「常連さんにも言われました」


 喫茶店開業を目指す人のための専門学校や調理師学校の方が、彼にはきっと相応しいだろう。彼が私なんかよりも人生を真剣に考えてるのは、部屋に入ってすぐに理解できることだ。


「間違ってたら、その時は軌道修正してマシな答えを探します」

「……そっか、それなら」


 客用の寝具を用意しようとしたウェイターさんを私は制止した。

 時計の針は午後十一時を指している。先刻見たウェイターさんの受験票に書かれていた志望学科は、私と同じだ。

 それを都合のいい偶然と片付けるのか、それとも運命の出会いとするのか、決めるのは私じゃないし彼でもない。だが焙煎された空気が私の頭をクリアにしてくれたのか、目は冴えて疲労も感じない。


「一夜漬け、やりましょう」

「え」

「どうせお互いまともに眠れそうにないですし、それなら時間を有効に使って最期の悪足掻きをしませんか」


 その夜。

 私は二年ぶりに色ボケ女の称号を返上し、スパルタンな進学校で学級委員まで務めた本来のスタイルを取り戻した。しかし一夜限りとは言え罵倒混じりの詰め込み教育に耐えたウェイターさんは、相当のM気質である。Mでなければ地雷めいた女に声をかけたりしないし、励まそうとも思わないだろう。





 試験直前。

 ウェイターさんは細めのマグボトルと小さめのランチボックスを渡してくれた。マグボトルはそのまま持って帰ってくれて構わないと言われ、私達は校門前で別れることにした。


「受験に失敗したら、今度はキューバの農場で半年くらい働いてこようと思います」

「あはは、そうやって行く先々で女の子を口説いてるんでしょ」

「南米の娘さんはリップサービスが上手なだけですから」

「日本の女の子もリップサービスは得意だから」


 唇の使い方を知りたかったら、あんたも合格しなさいよ。平手でウェイターさんの尻を派手に叩き、私は振り返ることなく受験会場に足を運んだ。

 そうだ。

 まずは合格しなきゃ話にならないのだから。




▽▽▽




「──それで、合格通知もらった日に美容院で髪をバッサリやって。眼鏡をコンタクトに変えて、来るべきライバルとの最終決戦に備えて近代化改修」


 年代物のバンを浜に近い駐車場に停め、パラソルと一緒に簡易キッチンを展開する。一仕事終えた私は三年ぶりに体感する心地よい痛みと異物感を伴う余韻を堪能しながら、スマホ越しに盟友たちに事後を報告した。


「結果は麦岡の端末を使って送った通りだけど」

『なんであそこまでやったのよ!』

「妄想の中でとはいえ他の男に蹂躙されて喜ぶ趣味はないので、アタシが誰の所有物なのかはっきりさせたかった。反省なんて微塵もない」


 スピーカーから女子の黄色い悲鳴と共に、聞き覚えのある男たちの野太い哀号が聞こえてくる。が、私はそんなものかと軽く流して「開店準備」を継続する。

 高校を中退してまで喫茶店で修業を始めた麦岡健太(ウェイター君)の、その技術が世間でどれだけ通用するのかという腕試しだ。店主が車を貸してくれたのも、一週間もの休みをくれたのも、全てはこの腕試しのためである。

 腕試しという名目で、世間の荒波に揉まれて打ちひしがれた麦岡を私が支える。あの日どうしようもなく人生も世界もどうでもよかった私にうっかり手を差し伸べてしまった事を心底後悔するくらいに。


 そう。

 ブラジルのコーヒー農園で修業した時に、うっかりニューハーフと知らずに童貞を捨ててしまった事を時々思い出してのたうち回る麦岡を、私が支えてトロトロにして、私がいなければ生きていけなくなるようなダメ人間にしてやるのだ。


「夏休み明けに私が授業中突然赤面したり、何故か息を荒くしながらトイレに駆け込むようになったら、その時は色々と察してくれるとありがたい」

『どこまで行き着くつもりなのよ矢車あ!』

「ははは、それはもちろん」


 ブラックコーヒーを甘く感じるくらいまで。

 愛用しているマグボトルをひねりながらそう答えたら、とっくの昔にガムシロップじゃあという悲鳴が返ってきた。



 失敬な。

 苦いものをたらふく口にしたのだから、少しくらい甘味を求めても罰は当たらないはずだろう。






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