記憶(2)
ボールを蹴る音が聞こえてきた。それと同時に複数人の若い男の声がする。時計に目をやると17時を過ぎていた。近所の高校のサッカー部が練習を始めたことは窓の外を見なくても容易に想像できた。それと同時に二日間降り続いた大雨が止んだのだと気づいた。部屋の真ん中からゆっくりと端の方へと移動し、湿気でふにゃふにゃになったお気に入りの漫画を手に取り読み始めた。部屋にはコンクリートが濡れた臭いなのか湿気の臭いなのかわからない臭いが充満していた。大半の人が不快に感じるであろうこの臭いを僕は心を落ち着かせる好きな匂いの一つとして「雨の香り」と名前をつけてよんでいた。
「赤野くん、三年間本当にありがとう。アメリカに行っても俺たちのこと忘れたらダメだぞ。かんぱーい。」
そう言うと係長はこの数時間で何回目かもわからない乾杯の音頭をとった。ほとんど中身の入っていないジョッキを僕のグラスに荒々しくぶつける。
「係長、危ないですよ。そんなに強くぶつけたら割れちゃいますから。」
「そんなことより赤野ー。ほんとは社員として迎えたかったよ。ごめんなー。」
泣いているのか笑っているのかわからない係長の顔を見ると改めて三年間恵まれた職場に居たんだと思った。
「いいんですよ係長。契約社員として働いた三年間は無駄にはしないと誓えますから。それにやりたいことの一つであるアメリカ留学に心置きなく行けますから。」
アメリカへの語学留学。これは僕が死ぬまでにしておきたいことの一つだった。一年間という長期のため、そして金銭的な問題もあり行けなかった。だけど仕事を辞めれば無職となり時間は有り余り、お金は三年間コツコツ貯めて留学一回分くらいはあった。だから僕にとっては仕事を辞めなければならないことは必ずしも不幸というわけではなかった。
「帰ってきた後はどうすんの?」
僕より一回り年上の女性社員、坂本さんがきいてきた。
「実はやってみたいことがあるんです。ほんとにぼんやりとですけどあるんです。だからそれに向かって頑張ろうと思います。」
僕が答えると酔っているからだろう、潤んだ目でこちらを見ながら頭を撫でてきた。僕には兄や姉がいないからだろうか、坂本さんと仕事をするようになってからすぐに坂本さんのことを姉さんと呼ぶようになっていた。
「姉さん、子どもじゃないんだからやめてくださいよー。」
少し照れながら頭から手をどかすと
「弟のくせに生意気言ってんじゃないよ。」
と怒られた。酔うと人って変わるなぁと思い笑っていた。
三次会が終わり、深夜2時になっていた。フラフラになりながら先に帰った係長は大丈夫だろうか。そう思いながらタクシーを一台つかまえて、そこに姉さんを押し込んだ。
「ラーメン食べないのかー。奢るぞー。」
「お腹いっぱいなんでやめときます。姉さん、健康に気をつけてくださいね。」
運転手に姉さんの家の住所を何とか伝え、送り出した。タクシーの社名表示灯が見えなくなったのを確認して一人、点滅信号の方に歩いていった。あぁ、今日は月が綺麗だなぁ。