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「依頼殺人、だろ」
「正解です」
坂井が無感情に言う。この人ならば、自分と相手の二人きりにしてくれた竹内を信用してもかまわない。そんな気持ちを乗せてしゃべりだす。この哀しき事件の真実を。
「久しぶりだね、智弘」
事件の日、岡崎に家に呼び出された坂井は驚いていた。近所でもよく知られているレベルの不良に、いったい岡崎が何の用があるんだと。
「何の用だ」
「用ね。大した用じゃないといえばそうなんだけど、大きな用事があるの」
「早くしろよ。詰まんない用事だったら酷い目に合わせるぞ」
虚勢を張って坂井が言う。そんな坂井をからかった様子で岡崎は言う。
「またまた、そんなこと言っちゃって。本当は臆病なくせに」
「何を!」
「私知ってるんだよ。本当は怖かったんでしょ。期待されるのが。親とか教師から期待されるのが怖くて逃げ出したんじゃない。そうやって智弘は自分を強がって見せてるのよ」
「何を言う!」
強がって見せたものの、岡崎の台詞は図星だった。自分にかかる期待、重圧。そんなものに耐え切れなくなって、坂井はグレた。不良になった。でもそれを認められなくて、声を荒げている。でも、その実、幼馴染だった岡崎に手を上げることすらできないでいた。
「手を出せないんでしょ。わかってるよ。智弘が臆病だってこと。最近わかったの。親とか、両親とかの期待とか、どれだけ重いものを背負ってたのかって。だから、さ」
坂井は何も言わない。否、何も言うことができなかった。岡崎が言ったことは全て真実で、認めたくなくて。
「殺してよ、君の手で」
岡崎の言った言葉がこだました。その声を、坂井はどこか遠くから聞いていた。
「智弘ならわかるでしょ。私がどれだけプレッシャーに押しつぶされそうになってるか。どれだけ期待をかけられて、その重圧を背負わされてるか。そこから逃げ出した智弘ならわかるでしょ」
泣きそうな声で岡崎は言う。瞳が赤く染まっていく。
「私、智弘のことがうらやましかったんだよ。重圧から逃げ出して、自由でいて。とってもうらやましかった! 私だってそうなりたかった!」
「俺だってそうだ!」
坂井が叫ぶ。
「俺だって詩織のことがうらやましかった! 俺は耐え切れずに逃げ出したっていうのに、詩織は耐えて、周りの期待に応えてさ。俺だってできるならそうしたかったさ。でもできなかった。だから詩織がうらやましかったんだ!」
「だったら!」
坂井が叫ぶのと呼応して岡崎も叫ぶ。その瞳からは涙が漏れ出ていた。
「だったら、わかるでしょ。死にたいって気持ち。逃げ出したいって気持ち」
「だったら逃げ出せばいいじゃないか」
「逃げ出せるわけないじゃん!」
再び叫ぶ。
「こんな状態で、逃げ出せるわけないじゃん。ここまで期待されて、ここで逃げ出したら失望されるんだよ。見放されるんだよ。そんなのできないよ」
岡崎は顔を埋めて泣き喚く。けれど、坂井には何もできることがなかった。岡崎の気持ちがわかってしまったから。わかりすぎてしまったから。逃げ出したくても、逃げ出せない絶望を知ってしまっていたから。その励ましの言葉は紙よりも薄くなってしまう。
「自殺もできない。したら、失望されちゃう。だからお願い。私を殺してよ。失望される前に殺してよ。ねえ!」
岡崎は何よりも失望されることが怖いのだ。誰かから見放されることが何よりも怖い。だから、そうなる前に死んでしまえば、殺されてしまえば、失望させずに済む。誰かに殺されてしまえば、悲劇のヒロインのように、美しいまま死ねる。それを望んでいる。そして、それを坂井もわかっていた。
「……なんで、俺なんだ。いったいなんで俺なんだよ!」
それでも坂井は叫ぶ。わかってしまっても、叫ばずにはいられなかった。
「だって智弘だけじゃない! 私と同じように神童って呼ばれて、でも重圧で逃げ出したのって智弘しかいないじゃない! 私がどれだけ苦しい思いをしてるのか、わかってくれるのは智弘だけじゃない!」
沈黙が場を支配する。
殺したくない。岡崎を殺したくない。でも、岡崎はそれを望んでいる。殺されることによって開放を望んでいる。坂井は葛藤していた。感情は否と言っている。でも理性では是と言っている。
長い、長い時間。トンネルのような長い時間の出口で、坂井が出した答えは、是、だった。
「わかった」
「ありがとう。これ、智弘に託すね」
斜め四五度を見つめる坂井に、岡崎は一通の封筒を手渡した。
無言で坂井は動き出す。キッチンへ包丁を取りに。戻ってきた坂井は言う。
「詩織、本当にいいんだな」
「うん、ごめんね」
泣きながら、涙を流しながら、坂井は握った包丁を、岡崎に突き立てた。
岡崎の口から血がこぼれる。根元まで突き立った包丁が震えた。その包丁についた指紋を消すように岡崎が包丁を触る。
「智弘、ありが……と……ね」
そう言って、岡崎は動かなくなった。坂井はその場から逃げ出して行った。涙を流しながら。
「これが、この事件の真実です。返り血が付いた服は、家の裏庭で燃やしました。そしたら急に怖くなって。殺しちゃったって思っていてもたってもいられなくなって……」
「それで、自首を」
「はい」
涙ぐんだ坂井の声が取調室に響いた。
「これを」
坂井がズボンのポケットからクシャクシャになった岡崎の封筒を取り出した。
「開けていいか?」
「はい」
そうして、竹内はその封筒を開けた。セロハンテープは一度剥がされ、張りなおされていた。
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拝啓、お父さん、お母さん、先生方、クラスメイトたち
晩秋の頃、あなた方はいかがお過ごしでしょうか。
殺された人が遺書を残しているのは不自然なので、これは犯人に託します。その上で、この遺書の扱いを任せようと思います。
子どもの頃から、私は天才と呼ばれてましたね。小学校の頃から成績もよくて、幼心に得意げにも思ってました。テストで満点を取るのはやっぱりうれしかったし、その頃はまだ、期待されてるのがすごくうれしかったです。
でも、中学校にあがった頃から、ちょっとずつ、期待されたくなくなりました。その期待に応えなきゃって思ったのがプレッシャーになって、私に圧し掛かってきました。実際私はよくできたし、その期待にも応えられてきたと思います。でも、やっぱり失敗することもあって、初めて満点を逃したこともありました。この時に、私は悟りました。どんなに頑張っても、人間には限界があるんだって。でもその限界以上に期待されることもあって、それはとてつもなく重圧になりました。
知っていましたか? 生徒会長になったときも、上手くできるか不安で不安で仕方なかったこと。どうしても上手くいかなくて、先生に泣きついたこともあったんです。でも、最終的には君にはできるとしか言われませんでした。過剰すぎですよね、期待するのも。
怖かったんです。失望されることが。誰かから失望されるのが怖くて、期待に応えなきゃ失望されちゃうって、最近はそればっかり考えてました。レールから外れるのが怖くて、期待されて努力して、もっと努力して。最近はそんなことのばっかり考えてました。でも、もう限界です。もう、努力するのに疲れました。期待されるのがすごく重圧で、それに押しつぶされそうになって。
知ってましたか? 気づいてましたか? 天才って呼ばれるのはうれしいことでもあるけど、すごくプレッシャーでもあるんですよ。でも、私が限界まで来たときにはもう遅くて、逃げ出そうにも逃げ出して失望されてしまうところまで来てたんです。
だから、死ぬことに決めました。殺されることに決めました。あなたたちに失望されてしまうくらいなら、死んだほうが百倍ましです。それも、プレッシャーだったと知られないように、自殺じゃなくて殺してもらうことにします。
そして智弘へ。私を殺してくれなんてわがままなこと頼んでごめんなさい。でも、私にはあなたしかいませんでした。あなたしか、私の苦しみを理解して、そして私を殺してくれそうな人が。
あなたも、小さい頃は神童と呼ばれてましたね。あなたは本当は私よりも頭がよくて、付いていくのは少し大変だったんですよ。でも、あなたといられて楽しかったし、プレッシャーも半分肩代わりしてくれました。あの頃はとっても楽しかったです。
でもあなたは中学校に入って変わってしまいましたね。過度に期待されるのが嫌で逃げ出した。そんなあなたを、当時の私は冷ややかな目で見ていました。レールから外れたクズだと思って。これは流石に言いすぎですけど、軽蔑してました。それに、ライバルが減って少し喜んでたんです。本当に酷い人ですね、私って。
でも最近になってようやくわかりました。あなたは間違ってなんかなかった。私もあの時レールから潔く外れておくべきでした。でも、当時の私はそれができなかった。レールに乗り続けていることが正しいんだと、幸せにつながる道なんだと信じてたんです。馬鹿ですね、私って。頭はいいのに肝心なところがわかってないんです。
正直に言うと、私はあなたがうらやましかった。レールから外れたけど、その分期待という名の重圧から開放されて自由に飛びまわれていたあなたがうらやましかった。本当のことを言うと、妬んでもいました。あなたを人殺しにしたかったっていうのもあるかもしれませんね。
私はどこまで言っても籠の鳥で、金の卵を産むことを期待されていたけど、あなたは違った。あなたは自由に大空を飛びまわっていた。それがすごくうらやましかったんです。あなたに私を殺してくれるよう頼んだのも、それが理由です。あなたなら、かつて籠の中にいて逃げ出したあなたなら、籠の中の息苦しさを知っているはずだったから。かつて神童と呼ばれていたあなたにならわかりますよね。
私はあなたみたいに臆病でいたかった。でも中途半端に強がりで、でも中途半端に臆病で。あなたみたいに逃げ出すことができなかった。これが私の末路です。本当に、馬鹿ですよね。
そしてごめんなさい。あなたに私を殺させるなんていう大事に巻き込ませてしまって。そのことは本当に申し訳なく思ってます。その思いだけで死んじゃいそうなくらいに。実際、この文章を読むときは死んでるんですけどね。
せめてもの償いに、あなたのために、アリバイを用意しました。あなたが私を殺すとき、私は別の場所にいることになっています。あなたが罪に問われないで済むように。これで完全犯罪の完成ですね。なので、あなたはいつも通り、自由に生きてください。
最後に一言。こんなことに巻き込んでしまってごめんなさい。でも、私の願いを聞いてくれてありがとう。これでようやく、幸せになれるかはわからないけど苦しみから開放されます。本当に、本当にありがとう。
敬具
追伸 この遺書は火にくべてください。
2017年11月4日 岡崎詩織
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手紙には、消しゴムの擦れた跡や、涙でふやけた跡などが大量に残っていた。
竹内の読み終わった手が震える。
「おい、刑事の言うべき台詞じゃないが、なぜ燃やさなかったんだ。そしたら証拠も何もないだろうに」
俯いた坂井が言う。その声は涙にまみれてかすれていた。
「例え詩織が俺を許したとしても、俺が詩織を殺したことに変わりはないんですよ。良かれと思ってやったことだけど、でも、殺さないって選択肢もあったはずなんです」
「そうか」
竹内はそれだけ言うと口を噤んでしまった。坂井のすすり泣く音だけが、取調室にいつまでも響いていた。
「ねえ、刑事さん」
「なんだ?」
人気のない取調室で坂井がいう。
「俺が脅してアリバイ写真を撮らせたってことにしてくれませんか。それから動機も、才能に嫉妬したってことにしてくれませんか」
「真実のままなら君の罪は自殺幇助でそこまで重くない。でも、そうだとしたら殺人罪で罪が重くなるぞ」
「いいんです、詩織は真実を明らかにされることを望んでなかったし、それに、これは報いなんですよ。今まで逃げ続けてきた俺の。お願いします、刑事さん」
坂井からの懇願。どうしても動機を話そうとしなかった理由。その返答は、竹内の中で既に決まっていた。
「もし君が本当にそれを望むというのなら、俺は……」
その返答は、とても小さな声で十六夜の中に消え去っていった。
完
『十六夜の秘め事』をお読みいただきありがとうございました。本作はこれにて完結です。気が向いたら長編でリメイクするかもしれませんが、その際はよろしくお願いします。蒼原凉でした