第4話 出来ること
初めて、家の外に出た時のことを覚えているだろうか。
あるいは、初めて県外に出て、一人暮らしをし始めた時のことを覚えているだろうか。
もしくは、初めて日本を飛び出した時のことを。
外に対する不安、初めての場所に対する恐怖、心配。それらがあって普段通りに出来なかったはずだ。
それが今現在、駿河を襲っていた。
目の前には外に通じる扉がある。それは紛れもなく外に出るための物だ。駿河がレイラの体を操作する為の出入口のようなもの。
「…………」
一歩踏み出せば良い。たが、その一歩が踏み出せなかった。怖いのだ。今まで引きこもっていたからということもあるが、知らない人たちの中に、その人たちが知っている人を演じなければいけないのだから。
失敗したら消されるかもしれない。その恐怖が駿河の足をすくませていたのだ。
「早く行きなさい!」
「ちょ、ま、心の準備が!」
しかし、レイラが待つはずもなく、駿河は文字通り尻を蹴っ飛ばされて扉の向こうに突っ込んだ。
何かに落ちるような感覚。浮遊感は一瞬に、今度は高速で引き上げられる。
「――ッッ!!」
「どうかなさいましたかレイラお嬢様?」
「あ――い、いえなにもありませんわ」
次の瞬間には現世に出ている。そこはどうやら城の中庭であるようだった。レイラと同化して以降、駿河も居城の構造くらいは把握している。
今ここで行われることもわかっている。
「(剣術の授業か――)」
――そうよ。本当なら私がやりたいのだけれど、私よりアンタの方が才能があるわ。なら利用しない手はないじゃない。せっかくこの状態になったのなら利用しない手はないでしょう?
「(それはそうだが――)」
剣術の授業。
彼女から今朝いきなり、剣術の授業を代わりに受けろと言われた。
それが剣術の授業だ。半年も相手、領地を回っていた師匠となるべき人が帰ってきたということで、遅まきながら開始となったのであるが、それを駿河が受けることになったのである。
そういうわけで、心の部屋の中から押し出されてレイラの表面に出て、身体の操縦を移譲された。相も変わらずこの身体は小さいが、魔力があるからなのか、それとも何かしら別の要因があるのか前の躰よりも操縦しやすい。
剣術の授業。男であれば一度は憧れる授業であるため、受けることは駿河とてやぶさかではない。なにより才能があると言われてしまえば試してみたくなるのが男という生き物だ。
だが――。
(これが先生か――)
それは枯れ木なのではないかとすら見まがうような男であった。
「どうかなさいましたか。剣が重いのであればもっと軽いのを取り替えますが」
「いえ、大丈夫です」
筋肉に固められた、鍛え上げられた肉体。まさしく、剣士。彼こそは有名な剣士であると駿河ですらわかるほどだ。紛れもなく本物の剣士。
だが、彼の眼はどうしようもなく死んでいるように見えた。生気が感じられない。その身に感じられるのは諦観だけだった。
覇気がない。駿河にはそれがよくわかったのだ。
「改めて。私はカイン・エル・フェルミーナ。レイラお嬢様の剣術指南役を務めることになった。以後お見知りおきを」
「はい、よろしくお願いいたします」
「……お嬢様は、何も言わないのだな」
「何がですか?」
「いや、知らないのなら良い」
「……?」
そう、そういうわけではないレイラが知らないことなどほとんどない。だが、駿河はその限りではない。レイラらしく振る舞うには残念すぎる演技力しか持ち合わせていないのだ。
ゆえに、彼はほとんどしゃべらない戦法で通す。ボロを出さないための苦肉の策であった。レイラには溜め息を吐かれたが。
(そもそも、カインって誰?)
――はああ、この国の人間ならだれでも知っているような人物ですのに。
(仕方ないだろ、俺はこっちに来てから半年だぞ。その間ずっと言葉やら風習やらで、有名人なんて覚える暇なんてなかったんだよ)
――開き直りましたね。それに、ずいぶんと私に対して馴れ馴れしくなって――消しますわよ
(ひぃい、ごめんなさい、なんでもしますから、消すのだけは!!)
――本当、アンタのなんでもしますからは聞き飽きました。まあいいですわ、一度しか言いませんから一度で覚えてください。カイン・エル・フェルミーナ。王の懐刀と言われるフェルミーナ男爵家において、剣聖の名をほしいがままにしている人物ですわ。
まじで? と思わず思った。超有名人ではないかと思った。ただし、いまだに理解が追いついていない。剣聖と言われてもピンとこない。
確かにゲームなどでは超すごい剣士に与えられる称号的な扱いである。実際のところ実物を見る限り、そうなのかもしれないと納得している。
だが、そういう人物が発する覇気というものがどうしようもなく欠如していたのだ。まんま枯れたおじさんというのが、駿河の正直な評価だった。
見た目は四十がらみの枯れた容貌。巨漢というほどでもなく、むしろ細身に見えるが、その実がっちりとした、されどしなやかな筋肉が全身を覆っているのがわかる。
そうであってなお、彼の瞳には理想も覇気もなにもない。全てを諦めてしまっている燃え尽きた炭のようであった。
――アンタ、あまり人を外見で判断してると痛い目を見ますわよ
(そうだね、身に染みてます)
なにせ、その例の最もたるものがレイラなのだから、そりゃ身に染みているどころか、その身、自身である。
話を戻そう。
カイン・エル・フェルミーナ。
彼はレイラが言った通り、剣聖と呼ばれるこの国最強の剣士だ。その斬撃は雲を裂き、竜すらも殺すという。
レイラが目覚めた時に飲んだスープこそその竜の素材を余すことなく使った最高の病人食だったらしい。道理で力が沸きてきたわけである。
その竜を狩ったのが彼だという。
竜、それはファンタジーの鉄板最強種族。それを一人で倒せると聞けば、それはもうその強さも駿河にもわかるというものであった。
ともあれ、剣術の授業である。まずは剣の振り方から教えてくれるというのだが――。
(わかる――)
訓練用の木剣を手にした瞬間に、駿河の身体が沸き立った、いや、身体ではない。魂が沸き立ったのを感じた。待ち望んでいたものをついに手にしたのだとでもいうべき感覚。
そうだ、知っている。剣の扱いを、自分は知っているのだという確固とした予感。来栖駿河という人間が持つこの世界での役割、いや、これはどちらかと言えば宿業というべきかもしれない。
適切な言葉を使うならば宿痾だ。人が宿す病の如き、人の方向性。人生の進むべき標ともよばれるようなそれが、駿河の進むべき道はこれなのだと教えてくれる。
「そう、こう――」
軽く、力を入れることなくされど全身の力を連動させる。
地面と接した足、そこから伝わる力を脚に伝える足首、伝えられた力を高める脚を通り、増大した力を腰に溜め、背中、肩、腕と全身を動作させる。
完全一体となる。心と体にズレはなく。過分もなければ不足もなく、ただ己という存在の百パーセントを支配下に置いて、ただ振るった。
それは音もない斬撃だった。あまりにも静謐な一振り。未だに剣を習っていない少女が放つにしては、ありえないほどの鋭さを内包した至高の振り下ろしだ。
ゆっくりであったが、その一振りは確実に音を置き去りにした。なぜならば、振り下ろした数秒後に、音が来た。
前を見るが良い。城の外壁に深く刻まれた斬痕を。それは、彼女が振り下ろした時に切り裂いた、大気の刃が発生させた刃の証明。
その天稟、まさしく破格。それをこの世界の人々は宿痾という。それこそが来栖駿河がこの世界に置いて与えられた福音だ。いいや、否、これは神に与えられた神通力などでは断じてない彼の魂が持っていたものに他ならない。
この世界に訪れて開花した、才華の輝きである。
「――違う」
だが、彼は満足などしていなかった。鋭い一撃。素晴らしい斬撃。見事なりし剣戟ではあるが、しかして、それは彼にとっては満足のいくものではなかった。
放った、確かに出来た。それでもなお、違うのだという思いが魂を駆け巡っている。違う、違う、違う。こんなものではないのだと駿河自身が叫んでいるのだ。
わかるのだ。剣術なんて何一つ習ったことがないというのに。わかってしまう。
――それこそがアンタの才能にして宿痾よ。
魂で繋がり、二人として身体を共有しているがゆえに、彼女だけが気が付いたもの。
来栖駿河の持つ確固たるこの世界における役割だった。
――その剣は天を斬る
それこそが、彼の宿痾。
いずれ、天上すらも切り裂くことを運命づけられた、至高の剣才そのものである。例え、何があろうとも全てを斬るという宿痾。
その人生の全てが剣であるという、現代においては目覚めるはずもない宿痾であった。
「…………さすがですお嬢様」
「師匠に習えば、これが完璧になりますか?」
「いいや、それは決してない。完璧などどうやったって到達できん。例え、過分な評価で竜殺しや剣聖と呼ばれる私であっても、満足には程遠い。いいや、私の剣など取るに足らない屑の剣と言っていい」
なぜならば、剣の道は大いなる海原である。極めれば極めるほどに、果てなど見えなくなる。ゆえに、満足などという言葉は剣の道には存在しない。
あるのは、ただどこまでも続く剣道に他ならない。あらゆる全てを犠牲にして手に入れられるのは一時の満足したという名の錯覚だけだ。
あるいは、修羅の道を征くか。自分以外、その全てを切り裂き、至高へと至るか。それ以外に道などありはしない。
活かすも殺すも全ては、心持ち次第となる。
「私が出来ることは、お嬢様が道を誤らないようにすることだけだ。技術を教えるだけ。剣の心得を教え、道を示すことのみだ」
「よろしくお願いします! 私の宿痾にかけて、必ずや――」
「…………そうか――ならば」
とすんと目の前に刺さった剣。
鞘から引き抜かれる剣の音とともに和やかな中庭の雰囲気が一変した。まるで豹変したかのような変貌。まるで別人、いや、別物になっていた。
剣を抜くだけで変貌する殺戮機械。まさしく、それが起動したのだと空気が告げている。
「抜け。宿痾があるのならば、こちらの方が早い。この一度で、おまえならつかめるだろう」
相変わらずそのガラス玉のような瞳に覇気は感じられないが、総身に宿る気配は尋常ではなかった。これが殺気なのだと理解する前に、本能が勝手に動いていた。
宿痾に任せた戦闘行動。即座に目の前の剣を抜き、そのまま考えるまでもなく体が命じるままに構える。もはや駿河の意識が介入する余地などなく、全てはレイラという肉体と駿河の宿痾が運ぶままに構えた。
カインから放たれる殺気は決して暴力的ではなかったが、その重圧は子供が受けるものでは断じてなかった。大人が受けるものでもないだろう。
息がつまる。陸上で溺れるというのはこういくことか。意識が途絶えそうになる。
――しっかりしなさい!
「――ッ!!」
レイラがいなければとっくの昔にそうなっていただろう。陸上でおぼれ死んでいたはずだ。
(そうだ、何やってるんだ――)
決めただろう。生きるのだと。有用性を。価値を、照明し続けるのだ。全ては生きるために。ならばこんなところで無様など見せられない。
何より、レイラを見返してやるという小さな反骨心が、駿河をここにとどめていた。いつもの彼ならば即座に諦めている。
だが、それは宿痾が許さない。レイラが許さない。駿河自身が赦さない。
決めただろう。頑張るのだと――。性根はそう簡単には変わらない。けれど、変わる努力くらいはしないと情けない。
六歳児が頑張っているのに大人が頑張らないのはなしだろう――。
ゆえに覚悟を落とし込み、息を整える。
この圧力から今すぐにでも斬られて逃れたいなどという誘惑はレイラの声が紛らわしてくれる。彼女がいる限り、それは出来ない。
そんな選択肢は格好悪すぎる。これでも男なのだ。六歳児に負けてばかりで良いなどとは断じて思っていない。
「ハアアアアァァ――!!」
息を喝破の声とともに吐き出して、地を蹴る。それは、駿河の本能が選択した最適解。目の前の男に対して、行う最初の一手。
「悪くない」
出来得る限り本能のままに放った一撃を彼は容易く躱してみせる。半歩ズレるだけで完全に一振りを殺された。
だが、剣は一振りにて決まるわけではない。振り下ろして生じたエネルギーを腰を使って回転へと変換する。
全身を連動させることを意識する。この身体はどうやたってパワーが足りないのだ、斬るためには腰を軸とした全身の力を使う必要があることを駿河は宿痾によって本能的に知っていた。
「筋も良い。剣士として大成するだろう。だがまだまだ、だ。宿痾に頼りすぎている。故に、見て覚えろ――動くなよ、死ぬぞ」
薙ぎとなった一撃を容易く受け止め受け流し――カインは攻撃に転じた。
一息にて、放たれる振り下ろし。呼気と同様、無駄がなく、ただただ鋭さだけがある。見ていたのに、それは躱せない。完全なる無拍子。
続く突き。振り下ろしのまま刀身が伸びたかのように迫る。
相手の左肩から右脇腹への袈裟切り、右肩から左脇腹の逆袈裟。左切り上げ、右切り上げ、切り上げ。
斬撃の基本形態。九種の斬撃が連続接続されて放たれた。そのどれもが絶技であり、技巧のいかされていない技などない。
彼の流派のではなく、剣の道の基礎としての技の数々。無駄なくクセなく。放たれたがゆえに、透けて見える斬撃の術理。
見て覚えろなどと不可能を言ってくれると駿河の頭は無理だと言っていたが――体の方はそうではない。宿痾の方はそうではない。
その透明の術理を自らに浸み込ませていた。
「――フッ」
一息にて放たれる鏡映しの如き斬撃九種。
されど、奥行きがまるで違う。基本というだけ。これを覚えておけばいいだけのそれ、流派にあるような型はここにはない。
技巧、経験、何もかもが足りていないのが、彼との違いを見るだけでわかってしまった。
「才はある。このオレなどよりもおまえは優等なのだろう」
いまだに続いているのがおかしいと感じるかのような剣舞の中で、彼の口調はいつしか変わっていた。これが彼の本来の口調なのだろう。
「体格の弱さ、経験の不足、それらを補って余りある天稟は、末恐ろしいものがある。おまえにとっては、女であるということは足かせにもならんだろう。
よって、おまえに必要なのはその天稟を十全に扱うための経験を積むことだ。棒の振り方などおまえに教える必要はない。全て、宿痾が理解している。ならば、これよりおまえに施す訓練はこれだけだ」
組手。それも真剣を使ったものとなる。
「だが、そうであるならば、今やることではない」
知らぬ間に剣を弾き飛ばされ、気が付いたら視界には青空が広がっていた。
いったい何をされたのかがわからない。超絶技巧、隔絶した実力というものを肌で感じることができた。
そして、息も絶え絶えであるということを今、知った。
「おまえに必要なのは基礎体力だ。よってこれからは軽い運動を行っていく。おまえの成長を阻害しない程度にな」
「は、い――」
「焦る必要はない。おまえには未だ長い時間がある。だが、基礎だけは忘れるな。それがおまえの土台となる。この軽い木剣を使ってなら反復を行っていい。無理のない範囲でだが」
「は、い……」
「今日の剣術指南は終わりとする」
「――ありがとう、ござい、ました」
疲労というより、言い知れぬ充実感で動けぬまま駿河はメイドが来るまでずっと空を見上げていた。
気が付けば、心の部屋にいる。
「すごいな、あれは、アレが達人ってやつなのか」
「ええ、凄いわね。このてれび? だっけ、それで見ていたけれど、私には無理なことばかり。アンタに任せて正解だったわね。その調子でせいぜい、役に立ちなさい」
「ああ……」
見つけた。これがやるべきことだ。
「しかし、良いのか?」
「何が?」
「俺に剣術を任せたら、おまえ、俺を消した時困るだろ」
「あら、消されたいの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「だったら問題ないでしょう。無駄に私の中に居座られても困るのなら、有効に利用するわ、私は。なにより適材適所なら私の評価も上がるのだし」
「…………」
「なによ言いたいことがあるのなら言いなさいよ、消すわよ」
「消すのだけは勘弁してください……じゃあ、言うけど、評価とか気にするんだな」
「あら、意外? 貴族程外聞と体面を気にする生き物はいないわよ」
そんなこと言いながら彼女は心の部屋から出ていった。
いつものように一人残された駿河は、先ほどまで剣を握っていたといえる手を見る。
確かな手ごたえがあった。これこそが自分のやることだと思った。これならばやれるのだと思った。
それが、この世界に降り立った来栖駿河のやるべきことになった。
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