七話:黒い太陽は泣いた
夢を視ている。
夢の中で『私』は、朝の満員電車に揺られ、頭の中で今日の仕事の予定を立てていた。
電車の窓から流れる景色は、いつだって何度だって見ていたはずなのに。
その見上げるような高い建築物が建ち並ぶ街は、私の知らない世界に視えた。
疲れているのだろう。
確かに昨日は残業して、あまり眠れていなかった。
しかも、来週また地方に出張しなくてはならない。
ああ、どこか理想の世界で冒険したり気楽に暮らせればいいのに。
つり革に寄りかかって、少しだけ目を瞑り休もうとしたとき、車内アナウンスが流れた。
『次はー、異世界ファンタジー、異世界ファンタジー』
朝が来た。
リリィが目を開けると、ちょうど木漏れ日が差し込み眩しかったのか、彼女は右目に手をかざした。
「起きたか。よかったな。朝だぞ」
消えた焚き火跡の横で、ネモがリリィに声をかけた。
リリィは応えず、気だるげに体を起こすと、毛布がずり落ちた。
「おーい、寝呆けるのはいいが、乳まで見えてるぞ」
リリィはハッと、自分の姿を確認したが、別に淫らなほどドレスは着崩れていなかった。
「おはよう。目が覚めたろ」
ネモのニヤけ顏に、リリィはイラつきながらも、おはよう。と返した。
「朝。本当に、朝だよね。夢じゃないよね」
リリィは自分の頬をつねりながら誰にともなく聞いた。
「そうだ。夢じゃない。残念ながら、やるべき仕事がたんまり積まれた俺達の現実の朝だ」
ネモが皮肉たっぷりにそう言うと、リリィは首をかしげた。
「夢、朝、仕事。なんか、私、夢で——」
リリィがなにか言いかけるのを遮って、ネモが小皿を彼女に渡した。
「ほれ、朝飯だ。まぁしょぼいが、とりあえず食っとけ」
小皿には果物とチーズが一欠片のっていた。
チーズは残り物だろうが、果物は多分、ネモが探してきたのだろう、とリリィは察し、彼にお礼を言った。
ネモは聞こえなかった風に装い、小川で自分の毛並みを整えていた。
朝の仕度が終わり。
準備は整った。
「さて、まずはフィズと合流しなきゃ」
リリィとネモは頷きあい。
ネモは背中に乗れ、と首を振って指示した。
リリィはネモに乗る前、空を見上げた。
朝の太陽は地上にサンサンと光を照らしている。
しかし、その太陽はどこかおかしかった。
リリィは右目を手で塞ぎ、眼帯越しに左眼で注意深く太陽を『視た』。
「ねぇ、なんかあの太陽、黒い点みたいのがない? 」
ネモは呆れ顔で彼女に答える。
「黒点でも視たんじゃねぇの。今の君なら、それも可能だろ」
「いや、黒点の知識なんて曖昧だけど、たしか実際黒いわけじゃないでしょう。だから、あれは——」
——違う。とリリィが言いかけたとき、
チャランチャラン、チャランチャラン、という鐘のような音が鳴った。
それはフィズからもらったスマホの音だった。
リリィは戸惑うが、一間おいて、ピロリン、とフィズからメッセージが届いた。
『逃げて』
たったそれだけ書かれたメッセージ。
リリィはどういうことか聞くため返信しようとすると、
太陽が破裂したように強力な閃光を発し、轟音と共に大地が強く揺れた。
「なに? 地震っ? 」
「ヤバイな、デカイぞ! 捕まれ! 」
立っていられないほどの大きな揺れに、リリィはネモにしがみ付く。
どれほどの時間揺れていただろう。
一分? 二分? あるいは十分以上?
リリィにはそれが永遠のような長さに感じた。
しかし、少し揺れが収まったと思われたそのとき、さらなる強力な、破滅的な衝撃が襲った。
揺れはリリィがネモを掴んでいた手すら引き剥がし、悲鳴を上げて彼女は地面に転がった。
「ポエナっ! 」
ネモはリリィをそう呼び、彼女に覆い被さった。
今や大地は大きく亀裂がはしり、木々は倒れ、無数の木の枝や土石がネモの背を容赦なく叩いた。
なんどもなんども、絶え間なく続く衝撃に、ネモはその六本の足を突っ張って耐え続ける。
下から見上げる格好のリリィは、泣き出しそうな表情で、もういい、もういいから。と声を枯らし叫んでいたが、轟音にかき消されどこにも届くことはなかった。
もはや時間の感覚が麻痺した中、しかし揺れは気付くと収まっていた。
倒れこんできていた根元から折れた木を弾き飛ばして、ネモは力尽きたように横に倒れる。
即座にリリィはその容態を確認する。
背中には無数の打撲や切り傷が刻まれ、骨や内臓だって損傷しているだろう酷い有り様だった。
しかしそれでも、ネモにはまだ息があった。
リリィは左眼で傷を見分け、神の治癒の奇跡でネモを癒す。
「……貴重、な、余力……だろ、なに浪費、してんだ」
ネモが意識を取り戻し、苦しげに喋った。
「うるさい馬鹿死ね! 勝手に私を置いて逝こうとするな! 」
罵り泣きながらリリィは治療を続ける。
そうしていると、傷が癒えたネモは立ち上がり、もう大丈夫だ。とリリィを止めた。
ようやく彼女達は辺りを見渡すと、悲惨な光景が広がっていた。
森の樹々の倒壊に地割れに土砂崩れ、焦げ臭く煙いことから、山火事も出ていると思われる。
美しかった精霊の泉は倒木や土石で濁り荒れ、見るも無残な姿になり果てていた。
しかしそれよりも異常なのは辺りの暗さだ。
リリィは再び空を見上げると、そこには今まで地を光で満たしていたはずの太陽が、真っ黒な闇を抱えて浮かんでいた。
「日蝕か⁉︎ 馬鹿な、ありえない! 」
ネモが叫ぶ。
反対に、リリィは膝を落とし、左眼を押さえて呻いた。
「ち、がう。あれは、まずいっ」
どういうことか、ネモが彼女に尋ねる。
「いいからっ、ここからはやく離れないと! みんな吹っ飛んじゃう! 」
「これ以上まだなにかあるってのか! くそっ、乗れ! 」
リリィはネモに跨ると、ネモは瓦礫を跳び越え走り出した。
矢継ぎ早に風景が過ぎていくが、どこを見ても壊滅状態で、まるで現在位置がわからない。
「どこだっ、どこに向かえばいい! 」
ネモの叫びにリリィは左眼を押さえながら応える。
「どこか高台っ。とにかく高くて安定した場所を探して! 」
前方二時方向に、ネモは小高い丘を見つけた。
そこへ方向転換し、一気に加速する。
そして、太陽から一粒、『それ』は零れ落ちた。
それは黒い泥の塊のようなものだった。
リリィ達は空を見上げそれを視認する。
まるで、太陽が流す黒い涙のようだった。
涙、と形容はせど、規模は太陽から落ちるレベルである。
そんな大質量が地上に落ちれば、どうなるかなど火を見るよりも明らかだ。
リリィが『視た』落下予測場所は現地点からは遠く、海の上だ。
しかし落下地点近くの海岸には小さな漁村があった場所だと、リリィは記憶している。
いつだったかユタと旅をしたとき、彼は網漁のやり方を村人に教えていたはずだ。
その村人達の笑顔を、彼女は覚えている。
とっさに左眼の力を使おうとするリリィを、ネモは叱りつけた。
「あれを防ぐのにどんだけの力が要るのかわかってんのか⁉︎ 今はっ、自分の命が最優先だ‼︎ 」
悔しさやるせなさ無力さに咽び泣くリリィをネモは背中に乗せ、一刻も早く高台に向かう。
そしてついに、黒い涙は海に落ちた。