四十六話:波飛沫の小さな雫
私はフィズと手を繋ぎ引っ張って走るさなか、後ろから迫る黒い波から、悲鳴が聞こえてくることに気付いていた。
悪魔達が泣いている。
苦しい、冷たい、痛い、辛い、熱い、怖い、寒い、酷いよ。
勝つための、みんなが豊かに生きるための我慢だったんでしょう?
最初から、いつか悲劇が起きるとわかっていたんでしょう?
なのに、どうして、どうして。
嘆きの声は重なり増えて、私の往く道を閉ざそうとする。
それは幻聴か。
わからずとも、確かに私の心を削っていく。
救えるなら、救いたかったよ。
足取りは重く、まるで底のない沼の上を走ろうとしているようだ。
救えるはずだった。
私の力は、そのためのものではなかったのか。
怨嗟の声は絶え間なく責め立てる。
上手くいかなかった。
正解なんて選べなかった。
その負い眼が私の枷となり、足を、フィズを握る手を、絶望に引きずりこもうとする。
負けるものか。
絶対に諦めてたまるものか。
私はその死をなかったことになんてしない。
もう少し、あと少しで、この世とあの世の境界線に辿り着く。
そこには迎えてくれる仲間がいる。
私は生きて帰らなければならない。
物語を続けなければならない。
この手がどれほどの犠牲を生み出したのか。
知らなければならない。
海岸はもうすぐそこにある。
視界がぼやけ、暗闇に意識が落ちていく。
でも、大丈夫だ。
彼らは受け止めてくれるから。
私の存在を見つけてくれるから。
いずれ世界中の誰もが私を断罪しようと。
悪という消えない烙印を押されようと、私は進む。
真っ暗で前はほとんどなにも視えなくなって、気絶する直前に私は誰かに抱きとめられる。
最後まで駆け抜けて、握った手を離さなかったことに安心して、私の思考は沈んでいった。
——ねぇ、フィズ。
もう会えないのは、辛くて悲しくて遣る瀬ないけれど、それは変えられないことなんだね。
いつかまた、私もそこに逝くから、その日まで、さよなら。
リリィが目を覚ますと、そこはホレオラの海岸だった。
DSSメンバーがそれに気付くと、すぐにみんな彼女の元に集まった。
みんな心配そうに彼女に声をかける。
リリィは両眼がなにかの布で覆われていることに気付いた。
それでも周りが見えていることに、事情は大体察しながらも、彼女はメンバーに尋ねる。
「いったいこっちではなにが起きたの? 」
簡単に話をまとめると、彼らDSSメンバーがホレオラに転送されると、すぐに、リリィと連絡を取ろうとしたが、彼女のスマホモドキも、黒涙に沈めた改造スマホモドキも、両方反応が消えてしまい、救出は絶望的かと思われた。
しかし、しばらくすると黒涙落下地点から地震が起こり、再びホレオラを波が襲ったのだ。
だが今回の地震も波も規模はあの時と比べれば小さく、また黒い泥も混じっていなかったようで、海岸を少し乗り上げる程度の被害で済んだ。
そしてそれが引くと同時に、放置されていた海岸の泥の汚染はある程度取り除かれ、海岸線沿いには、リリィと一緒に千を軽く越える遺体が打ち上げられていたという話だった。
リリィは現場にすぐに案内するように指示して向かった。
すでにDSSメンバーがほとんど骨になった大量の遺体を集める作業をしていた。
リリィは作業員の中にオルサを見つけて話しかけた。
「オルサ。
あなたがこれを巻いてくれたの? 」
リリィは自分の両眼を塞ぐ布を指差し聞いた。
オルサは青白さをさらに増した硬い表情で答える。
「……そうだ。
それはお前が握りしめていた、女児の遺体が着ていた消えかけの黒いローブを帯状に裂いたものだ。
会ったのだろう?
フィデシア・カエクスと」
リリィは頷いた。
「最期に『神の右眼』を託して逝っちゃった」
オルサは深くは聞かなかった。
それでもリリィは海岸を埋め尽くすほどの遺体を見ながら語る。
「この人達が、フィズが知っていて助けるのを諦めた。
そして私の力が及ばず救えなかった。
黒い泥にのまれて消えてしまった行方不明者達なんだ。
今の私なら、全員誰なのか視ればわかるから、ちゃんと弔ってあげよう。
家族のもとに、帰さないと」
オルサは苛立ちながら反論した。
「それは本当にお前達が背負うべきことなのか?
あれは誰かの所為だったのか?
事前に知っていたとして、なにができた!
人なんぞ己に都合のいい情報しか受け取らない奴らばかりなのに、誰が信じるものか!
自惚れるな!
お前は、お前達は……。
どれだけ力を持とうが、それでもまだ人間なんだ」
まだ。
という言葉に、リリィは気付いた。
オルサは右腕を庇っている。
「オルサ。
まさか悪魔への変異が始まって——」
リリィを遮って、オルサが喋る。
「今、俺のことはどうでもいい。
俺はお前に責任を全部押し付けたくない。
そんな無責任な大人になったつもりはない。
あの災害も、戦争も、誰もが関係者だったんだ!
自分のしてることに無自覚だっただけで、無関係な奴なんざいない!
全部自縄自縛なんだよ!
だが、このままでは世界がお前を絶対悪に仕立て上げる!
完全な人間なんているはずもないのに、誰もが勝手にそれを期待し押し付け、最初は良い部分だけみて持ち上げるだけあげて、おこぼれを貰ったら正義面して手のひら返し、いつの間にか悪の権化扱い、それがオチだ!
全人類の傲慢のツケをお前が払うつもりなのか!
英雄なんて目指すもんじゃない。
自己犠牲に陶酔するのはやめろ! 」
リリィはそれを確り聞いたうえで、優しく彼に語った。
「わかってるよ。私の末路なんて。
でも世界が不条理で不完全で矛盾だらけな以上、今ある正義で抑えられた感情の反発は必ず起きる。
破壊願望や差別心は衝動的で本能的なものだけど。
受けた被害、恨み辛みはいつまでも燻り続けていつか燃え上がる。
倫理や正論は憎しみや悔しさをバネに頑張れなんてほざくけど、それができれば悲劇なんて繰り返さないよ。
だからみんなが落ち込んだとき、ちゃんとその感情に名前を付けて、聞き届ける受け皿が必要なんだ。
じゃないと、どこへ向けたらいいかわからない制御できない衝動が、また理不尽な悲劇を生んでしまう。
それは世界を続けていく上で、避けられない命題なんだよ」
オルサは天を仰ぐ。
彼は声にならない雄叫びをあげているようだった。
リリィはそんなオルサをそっと抱きしめる。
「ありがとう、オルサ。心配してくれて。
でも、もう決めたことだから。私は大丈夫」
オルサはリリィを肩を掴んで引き剥がし、布帯の先にあるその眼と視線を合わせようとした。
結局リリィが今どんな眼をしているのか見透かすことはできず、彼は納得なんてまるでしてない表情だったが、しかし彼女の意志が硬いこともよくわかっていたから、なにも言わず遺体を判別する作業に戻っていった。
その後ろ姿を、リリィは見守る。
聖女と呼ばれし者は、神の眼を得て、炎上する世界を飲み込む器に成り果てるだろう。
人はその本質に善悪を視出したとき、それを超越するための手段を間違う。
それは正義でも魔法でも奇跡でも克服など到底不可能な根本的な設計ミスだからだ。
揺蕩う海は問い続ける。
発火する皿を割らず、人は神なしで自律できるのかと。
次回は結構話が飛びます。
理由は活動報告にて。




