四十四話:沈黙が聞こえた
私がスマホモドキの明かりに向かって泳ぐ渦の中、蠢き近付く影が複数あった。
そのどれもが、かつてユタと共に倒した悪魔達だった。
そうか、『右眼』の能力以前に、この黒涙自体に時間を無視して世界の消失を広めようとする意思がある。
それがフィズと溶け合い記憶から悪魔を再現し侵食を進めようとしたことで、この現象を引き起こした。
多分そういうことなんだろう。
真っ黒い悪魔の数はすでに百をとうに超え、千に届かんと大渦内を埋め尽くしていく。
私は大鎌を手に持ち、襲いかかる悪魔を薙ぎ払った。
一薙で幾重もの波状の濁流を巻き起こし数百の悪魔を粉々に砕き屠るが、しかし悪魔は何度となく再現、再生をして数を増やしていく。
もはや悪魔は辺りの海全体を覆い、数は万を超えて世界を侵食していく。
私は小さなスマホモドキの光の近くに、真っ黒に燃え盛る足のない不死鳥を視た。
悪魔はとめどなく攻勢を緩めない。
右からは琴のような背鰭を鳴らし三首の大犬を操る毒蛇が迫り、左からは蛆の湧いた腐肉を残した骸骨が雷撃を発し、それを大鎌で受け止めたりギリギリでなんとか躱して、私は蛇の頭を蹴り首を千切り飛ばした反動で一気にスマホに近付いていく。
足が溶けたように消失している不死鳥は、私を視つめて待ち構えていた。
私はその悪魔に話しかけた。
「フィズ、なの? 」
黒煙燻る不死鳥は頷く。
魔法による変異と黒い泥の侵食で、もはやかつての童顔で背の低い女の子だった彼女の面影はなかった。
「リリィ、こんなこともうやめませんか。
ほら、いくらでも別の世界はあるんです」
そういって不死鳥は紐を輪っかにした膜のような泡をいくつも創り、その一つ一つにこの世界ではない景色がいっぱい映っていた。
フィズだった悪魔は語り続ける。
「わたしは、そのなかで生きています。
ここにこだわる必要なんてないんです。
転移した先が気に入らないなら、そこからまた転移すればいい。
そうしていけば、いつかユタにも会えるかもしれません。
リリィ、わたしと一緒に行きましょう? 」
私は首を横に振って答える。
「フィズ、私は私が産まれた世界を諦めない。
ユタがいなくてもちゃんと人は生きていけるって証明してみせる。
その覚悟をくれたのは、他でもないフィズなんだよ? 」
不死鳥は眼から黒い涙を流して言った。
「わたしがどれだけ繰り返しても、悲劇がなくならないどうしようもない世界ですよ?
どうして、そこまで信じられるんですか? 」
信じる。それは違う。
私の行動原理の根底には、きっと世界に対する不信がある。
だから死に物狂いで進むしかなかったんだ。
「フィズ。
私は信じていないから、自分で動いているんだよ。
そして自分なら、完璧な世界を創れるとも思っていない。
そこに映っている世界は、ここじゃないから理想なんだよ。
その世界で産まれれば、結局は不完全な世の中に失望する。
フィズだってもうわかってるでしょう? 」
フィズは、迷うように一間おいて返答した。
「そんなの、あんまりじゃないですか。
世の中に正解がないなんて、じゃあ、わたしはなにを信じればいいんですか」
そんなの決まってる。
「自分を信じるの。
未熟な自分を受け止めて、半歩でも進めれば、世界は少しずつ変わっていく。
フィズは何度も失敗した自分が許せないんでしょう?
なまじ『神の力』なんてものを持ってしまったから。
その分だけ世界はよくならなきゃいけないって。
私もそうだった。
けど一人じゃなにもできないんだって、みんなと一緒に居てわからされた。
いずれ、私は自分の生んだ失敗のツケを払うときが来る。
それはフィズも同じだよ。
全部なかったことにして異世界に逃げられるとでも思ったの?
フィズを裁くのも許せるのも、もう同じ『力』を持った私しかいないんだよ。
例えこの身が燃え尽きようと、その役割は誰にも渡さない」
フィズだった不死鳥は、それでも翼と首を振って否定した。
「手遅れなんです。
もうわたしはこの世界から消えかかっています。
ここから出るなんて、黒涙が許しません」
ぞぞぞ、と、周りを囲む悪魔の影を私は視た。
それに不安げなフィズを、私は鼻で笑ってやった。
「たかが過去の影ごときが、やけっぱちの私に勝てるわけないでしょう」
影はもう数える意味をなくす規模で、完全に私は閉じ込められている。
勝機も正気も端からない戦いだ。
そんなの一番最初からずっとそうだった。
なんど己の無力さに打ち拉がれたかわからない。
それでも歩けた理由は、もうわかっている。
「フィズが死んじゃったと思ったあの日、どれだけ私が悲しかったか、後悔したか、挫けそうになったか、わからないなんて言わせない。
フィズがやらかした失敗は、親友である私が白日のもとに晒すから。
覚悟すること」
フィズは、翼で嘴を隠しながら、小さな女の子だったころを思わせる声で微笑した。
「ほんとに、リリィは変わりませんね。
過去を繰り返したとき、わたしは何度もリリィを裏切ったのに、リリィはずっとわたしのことを友達だって言い続けてくれました。
わたしの冒険は、やっと終わるんですね。
リリィが看取ってくれるなら、そう悪いものでもないのかもしれません」
私はちょっと意地悪くフィズをからかった。
「でも、本当はユタが良かったんでしょう? 」
フィズは思った通り、昔のようにプンスカ怒った。
「そのへんの性格の悪さも!
ほんとに相変わらずです!
ああ、もう!
なんでユタはこの人を選んだんですか! 」
ああ、自然と口元が綻んでしまう。
フィズもそうだったらいいな。
きっと。
気付けば私は涙を流していた。
いや、随分前からずっと泣いていたんだ。
でも水のなかでは泣いても涙は溶けてこんで消えて、まだ崩れ落ちる時じゃないって私を奮い立たせる。
普段だって眼帯で覆い隠して、やるべきことがあるから、そんな場合じゃないと強がっていた。
だったら大丈夫だ。私は私を続けられる。
さぁ、まだ絞り出せる勇気はあるだろうか。
海面は遠く、もう息は長く続かない。
その先にあるのは、私達が創り出した罪の証だ。
「私の手を取って、準備はいい?
絶対に放したりしないからね!
一気に浮上するよ! 」
フィズはその不死鳥の翼の先を伸ばして、私はそれを掴んだ。
そのとき、彼女は小さく、ありがとう。と呟いた。
息は保つだろうか、この暗い絶望の渦から。
それでも帰るときは、フィズと一緒に。




