曼珠沙華の送り人
「もし、私が死んだら、君は私のことを覚えていてくれるかな?」
辺り一面、鮮血のように紅い曼珠沙華が咲き誇り、誘うようにゆらゆら揺れる。
生ぬるい風が吹き渡り、黒々とした陰が神社を覆う。熱い空気に立ち上る陽炎まで、曼珠沙華と同じ色に染められていた。
季節外れの紅い花に囲まれて、少女は儚げに微笑む。
「私はきっと、君を覚えているよ」
殺人的な太陽に目を細め、額からこぼれ落ちる汗を手の甲で拭う。露出した肌はじりじりと焼かれ、喉の渇きを唾を飲んで誤魔化した。
ジーンズのポケットに押し込んだ携帯を取り出し、もう何度目かの確認をする。
『今すぐ、いつもの神社まで来てください。待っています』
液晶画面に並んだ、たったそれだけの文字に頬が緩む。暑さが薄れるわけではないが、荒みそうになる心が僅かに癒された。
メールの相手は宮谷さん。真面目で大人しいクラスメイトだ。
宮谷さんとは、クラスが同じという以外に特に接点はない。僕も彼女も、悪く言えば地味な方で友達が少なく、おまけに部活動に入っていない。
明るくはしゃいで青春を謳歌するのに向いていない僕らは、よく教室の隅で縮こまっていた。
だからだろうか。
いつの間にかよく話すようになり、それなりに仲良くなっていた。
例えば、綺麗な姿勢で歩く姿や、授業中に窓の外を見る横顔。照れた時に伏し目がちに笑う癖。道端の花を愛おしそうに見つめる姿。
少しずつ、少しずつ一緒にいる時間が増えて、そうして僕は、彼女に惹かれていった。
片思いの相手にすぐ来てくれと頼まれたのだ。地獄のように暑くても、喉が渇いて死にそうでも、気持ちが弾まないわけがない。
携帯を持っていない方の手は、コンビニの袋を握っている。中は緑茶とスポーツドリンクだ。本当はアイスを持っていきたかったがこの暑さではもたない。
目に汗が入り、視界がぼやける。暑くて焼け死そうだ。
あちらこちらで蝉が鳴き喚き、脳みそをかき乱す。正常な思考は既に奪われたかもしれない。
けど、時折よろめき転びそうになりながらも、僕の足はステップを踏んでいる。気持ちも軽い。
僕は意外と単純にできているのかもしれない。
恋の力だけを支えに、地獄の道のりを歩き続けてしばらくすると、林が見えてきた。
荒れ放題。雑草が生い茂るのは仕方ないとしても、木材として切られたであろう木が何本も放置されている。
そんな人に見捨てられた景色を横目に、木々の隙間に見える赤い鳥居を目指す。
林の中は、さっきまでの生き地獄と比べればまさに天国だった。
空気は清らかに透き通り、ひんやりしている。蝉の鳴き声も控えめになり、木漏れ日が穏やかにきらめく。真夏でも快適だ。
この先の神社は僕と宮谷さんの秘密基地のようなものだ。「私達しか知らないよ」と、彼女は微笑んでいた。
草を踏み締め歩いていると、パッと視界が開けた。
その時、
「うわっ!」
強い風が吹きつけ、思わず目を瞑った。
肌に触れた瞬間は冷たいのに、奇妙な生ぬるさを含んだ烈風に、全身が総毛立つ。今までとは別種の汗が流れ落ち、気味の悪い悪寒に震えた。
けれど、それはほんの数秒の出来事で、風は止み、再びひんやりした清浄な空気に包まれる。
何だったんだろう、今の。
内心怪訝に思いながら目を開くと、辺り一面が血の海だった。
「ひっ……」
情けない声を漏らし後ずさると、足元でパキンと音がした。
ハッとする。
血の海ではなかった。僕が見たのは、息苦しいくらいに敷き詰めらた、紅い花々だった。
頼りない、けれど妖しく美しい紅い花。葉はなく、濃い緑の茎の先端にそれは咲いている。
微かな残り風に、澄んだ空気の中で揺れている。ざわざわと笑いさざめき、ゆらゆらと誘うように。
古ぼけた神社を囲むようにして咲くそれに、見覚えがあった。
確か……そう、お墓じゃなかったか?
「ていうか、何の花?」
「曼珠沙華、だよ」
どこか哀愁の漂う囁き声に顔を上げる。
そよそよと、爽やかで清浄な風に踊る紅い海の中でひっそりと微笑む少女の姿。
今日は休みの日なのに、何故か制服を着ている。それがまた彼女らしい。
「宮谷さん!」
慌てて駆け寄り、躓きそうになりながら宮谷さんの元へ辿り着く。
「遅くなってごめん!待った?」
「ううん。こっちこそ、ごめんなさい。急に呼び出して……」
「いいんだよ!ちょうど暇だったし!」
「……よかった」
宮谷さんがほっとしたように頬を緩める。それがとても可愛らしくて、ドキッとする。
宮谷さんは、彼女自身の評価よりも、ずっと可愛いのだ。
さらさらの黒髪は真っ直ぐで、それを耳の下で二つに結んでいる。肌は透き通るように白く、小さな顔は華やかではないが整っていて、淡く溶けるような笑みがよく似合う。伏し目がちの瞳は漆塗りのように黒く、薄紅色の唇は控えめに結ばれている。
セーラー服の上着は真っ白でシミ一つない。紺色のスカートは弄っていないのか長く重たげで、そこからほっそりした脚が少しだけ覗く。
飾り気など微塵もない。
しかし、僕は宮谷さんより可愛い女の子を見たことがなかった。
僕はやや上擦った声で尋ねる。
「あ、あの、さっき曼珠沙華って言ったよね?」
「うん。この神社、毎年曼珠沙華でいっぱいになるから……」
「そうなんだ……。知らなかったよ」
宮谷さんが囁くように言うのを頷きながら聞き、ふっと疑問が湧いた。
曼珠沙華の別名は、確か彼岸花。彼岸花はお彼岸の頃、秋に咲く花じゃなかったか?
「宮谷さん、曼珠沙華は秋に咲く花だよね?今、夏なんだけど……」
すると、宮谷さんはスッと瞳を伏せ、
「そう……だね……。どうして、かな……」
憂いを帯びた眼差しでひっそりと呟く。
普段から控えめな性格だが、今日はいつもよりも大人しい。
林を出た時に吹き抜けていった、あの生ぬるい風の感触が蘇り、不安感を煽る。
「あの……宮谷さん。大丈夫?」
「私?私は元気だよ。高木君こそ、大丈夫?顔色悪いよ……?」
「……うん。大丈夫。それよりさ、喉渇いてない?僕、飲み物買ってきたよ」
胸の中の暗雲を無理矢理追い払い、笑顔で緑茶のペットボトルを差し出す。当然ながら、コンビニで買った時よりもぬるくなっていた。
「緑茶、好きだよね?ぬるくなちゃってるけど、よかったら」
宮谷さんは一瞬、ほんの一瞬だけ、黒目がちの瞳を彷徨わせた。それからすぐ、いつものように淡く微笑み、
「……ありがとう」
おずおずとペットボトルを受け取った。
僕の手と宮谷さんの手が触れて、ひんやりした柔らかな感触に頬が熱くなる。
こんな些細なことでも、こんなにドキドキする。意識しすぎだ。わかっているけど、制御できない。
顔が赤くなっているのを隠すように、スポーツドリンクを一気に流し込む。多少ぬるくはなっていたが、さっぱりした透明な液体は、カラカラに渇いた喉を充分に潤した。
飲み干し息をつく。見ると、宮谷さんは緑茶を飲むことなくただ腕に抱いている。
目が合うと、困ったような顔で微笑んだ。
「今日来てもらったのは、大切なお話があったからなの」
「大切な話?」
聞き返すと、宮谷さんはこくりと頷く。
「すごく急だけど……とっても、大切なお話……なのよ」
一生懸命な感じのする声に、ドキッとする。
何事だろう。
話ならわざわざここまで来る必要はないし、宮谷さん自身、大袈裟なことは言わない。宮谷さんが大切だと言うなら、きっと僕にとっても大切な話だ。
「わかった。ちゃんと聞くよ」
「本当……?絶対に笑ったり、しない?」
「笑ったりなんかしないよ」
宮谷さんの目を見て、強く頷く。
その時、強い風が吹いた。
清浄な空気が、ドロドロした何かが飽和した風にかき乱され、鮮血が飛び散ったように見えた。
曼珠沙華が激しく揺れ、噴き出した蝉の喚き声と混じり、耳を塞ぎたくなるような騒音に変わる。
皮膚が泡立つ。
心臓がどこかに飛んで行きそうになり、冷や汗が吹き出す。鮮やかな色彩に目が眩む。
酷く暑くて、なのにゾクゾクするほど寒い。
ほんの数秒間で吐き気がするほど気持ち悪くなったが、明滅する視界の中で、宮谷さんは顔色一つ変えない。
二つに結んだ髪が流れ、紺色のスカートが翻る。澄んだ瞳が、突き刺さるほど真っ直ぐに、そして哀しげに僕を見つめていた。
薄紅色の唇が静かに開く。
「……もし、私が死んだら。君は私のことを覚えていてくれるかな?」
優しく、涼しげな声が囁く。
その声に導かれたかのように、滅茶苦茶だった視界がクリアになり、鼓動もゆっくりになる。
思わず、溜息が出た。
今日は本当に変だ。具合でも悪いのだろうか。この暑さだ、熱中症の可能性もある。
ていうか、
「……それが大切なお話……なんてこと、ないよね?あ、うん、わかってるよ……」
「そうだよ……?」
「どうボケればいいのかなあ……ごめん、僕、つまんないよねえ……え?」
馬鹿みたいにペラペラ喋り続け、ようやく気がつく。
「え、あの、え?」
狼狽える僕に、宮谷さんはちょっと哀しそうな顔になる。カクンとうつむいたため、長めの前髪がさらりと流れ、影を落とす。
「……ごめんなさい。急だし、変な質問だよね……」
「あ、謝らないで!でも、何でそんなことを?」
果たして、わざわざここまで呼ぶ必要があるのか。いや、ない。
しかし、ギャグという解釈はできない。目の前の彼女の顔は、真剣そのものだから。
宮谷さんはふわりと笑った。
「たぶん、だけど。理由はすぐにわかるよ。それまで待ってください」
「は、はい。了解しました。答え、お待ちしています」
つられてこっちまで敬語になってしまった。
「ありがとう。……それで、さっきの続きだけど……、高木君は、私のこと、覚えていてくれる?」
可愛らしく首を傾げる。
これはどう答えたらいいの?ふざけるわけにはいかないけど、肯定するのは偽善者ぽくて格好悪い。
だからと言って、「ごめん、無理」とか論外だ。そもそも嘘になる。
「……あ、あのさ、そもそも何で死ぬの前提なの?」
おお!どもったのは情けないが、僕にしてはよくやった!
「宮谷さんは、まだまだ先が長いでしょ?まだ死ぬとか考えなくたって……」
「生き物なら、いつ死ぬかわかないよ……。高木君だって、明日のことはわからないでしょう?」
「……うん、まあ、そうだけど。でも、宮谷さんが明日には死んでるなんて、有り得ないよ」
「そうだね。私もそう思う」
風で散ったのだろうか、頼りなく宙を舞っていた曼珠沙華のカケラが、宮谷さんの髪に触れる。それを、青白く透き通った指が軽く払う。
「けどね、明日のことは、本当にわからないから。……わからないから、教えてほしいの。……先に言うね」
「へ?」
宮谷さんは切なそうに目を細め、静かで淡い笑みを唇に刻む。そうして、少し掠れた、けれど鈴が鳴るような声で囁いた。
「私はきっと、君を覚えているよ」
刹那、世界から音が消えた。
動くことも、声を発することも、瞬きすらできない。
時間が止まった。
胸が震えた。熱い何かがこみ上げてきて、視界がぼやけていく。
これほど幸せな言葉が、世界中のどこにあるだろうか。
今この瞬間に死んでもいい。それくらい嬉しくて。
「高木君は?」
宮谷さんが優しい声色で、透明な眼差しで、寂しそうな笑みで問いかける。
トクンと鼓動が揺れる。
答えて、いいのだろうか。
告げていいのだろうか。
「僕は……」
声が掠れる。手が震え、上手く呼吸ができない。
息を吸って、吐く。
言おう。宮谷さんに、僕の気持ちを。奥手で不器用な僕の、僕なりの言葉で。
覚悟を決め、再度口を開いたその時、無神経極まりない着信音が静寂を破った。
表情筋が思い切り引き攣った。……誰だクソ野郎。
「あー……、ごめん。宮谷さん、ちょっと待ってて」
電話の相手は浦山だった。明るくて空気の読めないクラスメイトだ。そして、今日も空気が読めない奴だった。
こめかみを引き攣らせながらも、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『高木?高木だよな?』
「僕の携帯にかけたなら高木だろうね。で、何の用?浦山に構ってる暇ないんだけど」
怒りと嫌味を込めて言う。が、浦山は慌てた様子で、
「いや、そうも言ってらんないだよマジで!ホントにヤバイ話なんだよっ」
「……本当に?」
「ホントだ」
ちらりと宮谷さんを見ると、静かな表情で空を見上げている。
この声の感じだと、真面目な話だ。浦山とは何気に腐れ縁なので、冗談かそうじゃないかくらい、顔を見なくてもわかる。
仕方がない。反射的に溜息が出た。
「わかったよ。で、何の用?」
『お前さ、宮谷とは仲良いよな?』
「へ?」
何でここで宮谷さん?
『へ?じゃなくて。ほら、同じクラスの宮谷』
「それはわかったよ。何でそんなこと聞くの?」
『……その、ショック受けると思うけど、いいか?』
いつになく重い口調に、胸がざわめく。
どうして。何が。……いや、まずは話を聞いてからだ。
「いいも何も、浦山からかけてきたんじゃないか」
『……まあ、そうだけど。じゃ、じゃあ、言うぞ?』
浦山が息を吸い込む。そして、
『宮谷が死んだ』
吐き出すように言い放った。
「……は?」
何を言い出すんだ、こいつは。
「あのさ、馬鹿にしてるの?暇じゃないって言ったよね。そんなくだらない冗談……」
『冗談じゃねえって言ってるだろっ!』
スピーカー越しの怒鳴り声にビクッとする。どうやら浦山は本気らしい。だとしたらとんだ勘違いだ。
「怒るなよ。それきっと、君の勘違いだから。だって宮谷さんは……」
『昨日の夜、宮谷はトラックにはねられて死んだ。即死だったらしい。警察沙汰で、大変なことになっていて……勘違いなわけ、あるかよ』
心臓を冷たい手でつかまれたようだった。
声が出ない。体の芯が凍りついて、冷えていく。
『……飲酒運転、だってよ。酷い話だよな。お前がショック受けるのもわかるよ』
わかってない。
全然わかってないし、わからない。わかりたくも、わかられたくもない。
ただ、ひたすら寒くて気持ち悪い。
『今はバタバタしてるから、葬儀の日取りは後になるって。他の奴にも俺が連絡しとくよ。……本当に酷いよな』
「……に……よ」
『え?今、何て……』
「いい加減にしろよっっ」
怒りに任せて叫ぶ。自分の声がビリビリと空気を震わせ、怒りと嫌悪感が噴き出した。
「言っていいことと悪いことの区別すらつかないのか、お前はっ!?宮谷さんが死んだって?ふざけるのもいい加減にしろ!」
『ちょ、待て!落ち着けよ!宮谷のことがショックなのはわかるけど……』
「わかってない!宮谷さんは死んでなんかいない!今、僕と一緒にいるんだ!」
怒鳴り通しで息切れした僕と、絶句した浦山。一瞬だけ、間が空く。
だが、すぐに浦山が怒鳴り返してきた。
『な……何言ってんだよ!んなふざけた話があるか!』
「ふざけているのはそっちじゃないか!僕と宮谷さんは神社にいる!来ればいいじゃないか!?」
『……お前こそいい加減にしろ。死んだ奴と一緒にいるわけがない。お前は幽霊と一緒にいるってか?』
「違うよ!だから……」
『認めたくないのはわかる。けど、くだらない妄想はやめろ!宮谷は本当に死んだんだ!もういないんだよ!』
その時、頭の中で何かがぶつりと切れた。携帯を握る手が震える。
冗談でもやりすぎだ。馬鹿にしている。
『高木?おい、高木!聞いてるのか?おい……』
「黙って。これ以上は聞きたくない」
低く呟いて、一方的に電話を切った。電源もオフにし、乱暴にポケットに突っ込む。
そこまでして、ハッとした。
宮谷さんに聞かれた。あれだけ大声で叫べば、わからないはずがない。
何やってんだ。台無しじゃないか。
僕は慌てて、
「ごめん!ちょっと、クラスメイトが迷惑電話をかけて……って、宮谷さん?」
宮谷さんは無言でうつむいていた。真っ直ぐな黒髪が、さらさらと風に靡く。
「あ、あの、さっきのは気にしないで!浦山は悪ノリするタイプで、本心から思って言ったわけじゃ」
「……本当だよ」
儚げな声が囁く。
「えっ?」
「本当だよ。浦山君の言ったこと」
宮谷さんがゆっくりと顔を上げる。
紺色のスカーフと長いひだスカートが風に踊り、二つに結んだ髪も儚げに揺れる。顔は青ざめ、哀しげに潤んだ瞳と、震える唇が痛々しい。
紅い曼珠沙華がざわめき、嗤った。
「私ね……もう、死んでいるの」
世界が崩壊する音が、聞こえた。
何が起こった?彼女は、何て言ったんだ?
「昨日の夜、塾が終わって帰る途中で……トラックに轢かれたの……。その時は、何が起こったのか、全然わからなくて……気がついたら、ここにいた」
哀しげに目を伏せ、ひっそりと呟く。
けれど、何一つ聞こえなかった。
鳴くのを忘れていた蝉が、今更になって自己主張を始め、刺すような太陽に焼かれる。立ち上る陽炎が曼珠沙華の紅に染まり、崩れかけた境内に黒々とした陰がまとわりつく。生ぬるく吹く風は血の匂いがした。
ああ、暑い。蝉がうるさい。
おかげで、宮谷さんの話が聞こえない……ううん、違う。
「だから……きっと、今の私は幽霊なの。ここから離れられないから、地縛霊かもしれないけど……」
違う。聞こえないんじゃない。
「でも、それももうすぐ終わり。ここでさえ、存在できなくなる。消えてしまう……。何となく、わかるんだ」
僕は、聞きたくないんだ。
ぼんやりと視界が霞む。頭の中も滅茶苦茶で、マトモに考えられなくなっていた。熱にやられたせいだ、きっと。
「……う、そ……」
ひび割れた声が聞こえた。
「な、んで……そんな……。嘘、だ……嘘だ!」
うるさいな、誰の声だよ。
「高木君……」
宮谷さんが僕の名前を呼んで、乾いた声は僕自身であることに気づく。
途端に、停滞していた感情が、一気に溢れ出した。
「嘘だ!嘘だよね!?だって、宮谷さん、ここにいるじゃないか!」
「高木君……あのね……」
「あ、そうか。浦山とドッキリでもやってるの?そうなんでしょう?びっくりするじゃないか」
「……ごめんなさい」
申し訳なさそうな顔に、胸を抉られる。
僕だって、苦しい希望論だってことくらい、わかっているんだ。
だからと言って、宮谷さんの話を信じられるわけがないし、認めたくない。
「……だって、宮谷さん、ここにいるじゃないか。ちゃんとここに……」
宮谷さんが僕に近づく。青白く透き通った手を差し出し、
「触ってみて」
言われた通り触れようとした途端、僕の手が宮谷さんの手を擦り抜けた。
「っ!?」
もう一回、触れようとする。もう一回、またもう一回……。
何度やっても、擦り抜けてしまう。まるで空気のように。
サーッと血の気が引いた。
「そんな……何で!?さっきはちゃんと触れたのに!」
そう、触れることができた。ペットボトルを渡した時、宮谷さんの手は冷たかったけれど、柔らかな感触が確かにあった。
宮谷さんが、泣き笑いのような表情を浮かべる。
「だんだん、消えているの……。もう、時間がないわ」
ゆるゆると首を横に振って、また淡く微笑む。その笑顔が泣き顔よりも辛そうで、僕は力なく地面に膝をついた。
「……うそ……だ……」
乾ききった言葉が、地面に落ちる。
嘘だ。こんなの嘘だ。何かの間違いだ。
そう、言えたらよかったのに。
頭の中が混沌として、震えが止まらない。否定する気力さえ残っていなかった。
「黙っていてごめんなさい。騙そうとか、そういうつもりではなかったのよ。ただ……言い辛くて」
宮谷さんの声が、音としてしか聞こえない。理解できない。
透明な彼女は哀しげにうつむく。
「ねえ、高木君。ここに来た時、曼珠沙華が咲いていることに、驚いていたでしょう?曼珠沙華は、秋に咲く花だから」
「秋……」
「どうして、真夏の今日、ここで、こんなにたくさんの曼珠沙華が咲いていると思う?」
細く紅いカケラが、頼りなく風に漂う。更に透明になってゆく宮谷さんの指が、そっとそれをつかんだ。
漆の瞳が切なげに潤み、薄紅色の唇が音を紡ぐ。
「私が……死人が、ここにいるから。もう私は、この世界に留まる限り、ここから離れられない。動けないの……。だからきっと、この曼珠沙華は、私があの世へ旅立つための道標のようなもの、だよ」
儚げな声で語られる話に、僕は冷たいナイフを心臓に突き立てられたような気がした。
どうして。どうして、彼女が死ななければいけなかった。
まだ中学生なのに。すごく優しい子なのに。まだ、ちゃんと告白できていないのに。……なのに、どうして!
喉が枯れるほど叫びたかったが、実際には掠れた息が漏れただけだった。
宮谷さんがまた、あの溶けるような淡い笑みを浮かべる。
「高木君がくれたお茶、持っていくね。これくらいなら、きっと、神様も許してくれるわ」
冗談めかして言う彼女の姿が、痛々しくて、辛くて、胸が張り裂けそうで。
思わず手を伸ばしたが、それは当然のように擦り抜ける。
もうすぐ、消える。いなくなる。
逝ってしまうのだ。
「……んで……何で、だよ……っ」
ぽたりと、雫が地面に落ちた。
「何で……何で、こんな……」
溢れ出した涙が視界を覆い、宮谷さんの姿がぼやける。柔らかな草や土の上に落ちては、染み込んでいく。
「何も……!何も、できない……。何で、助けられないんだ……僕は……」
「高木君」
儚げな声に顔を上げる。しかし、ぐちゃぐちゃに濡れた視界には、ぼんやりとしか見えなかった。
「もし……もし、私を想ってくれているなら、二つだけ、質問しても……いい?」
またこぼれそうになる涙を手の甲で拭い、頷く。
「じゃあ……一つ目、ね。高木君は……私のこと、どう思ってる?」
予想外の質問だった。
一瞬躊躇い、頭の中で都合のいい言い訳を考えて……やめた。
もう、宮谷さんは逝ってしまう。今言わなかったら、きっと、一生後悔するだろう。
「……好きだよ。ずっと前から好きだった。今も、好き」
胸の中が真っ黒な絶望でいっぱいだからか、長い間言えなかった言葉は、ずいぶんあっさりと口にできた。
本当は、こんな風に告白するはずじゃなかったのに。大切にしまっておいた想いが、崩れてゆく。
宮谷さんは少し眉を下げ、喜びと哀しみがごちゃ混ぜになったような目で、微笑んだ。
「知っていたよ」
「……え?」
息が止まった。
「ごめんなさい。以前、高木君が浦山君と話しているところを、聞いてしまったの」
申し訳なさそうに縮こまる宮谷さんは、一層薄くなってゆく。
「浦山との、話……?」
酷く現実感がない。糸が何本か切れた頭では、理解できない。
ああ、でも、浦山にそんな話をしたかもしれない。
「そっか……。知ってたんだ。……気持ち悪かったよね。ごめん」
「そんなことない!」
突然の叫びにビクッとする。
宮谷さんは頬を紅潮させ、黒目がちの瞳をつり上げ、今まで見たことがないような、強く激しい顔をしていた。
もうすぐ消えてしまう少女のものとは、とても思えないほどの。
「わたし……私ね、すごく嬉しかった」
「え?」
「自分に自信がなくて、いつも臆病で……でも、そんな私を、高木君は好きだって言ってくれた……わ。本当に嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、泣きそうなぐらい、嬉しかった」
紡がれる言葉を、信じられないような気持ちで聞く。
宮谷さんの笑みは、次第に、哀しげに崩れていった。
「だから……ね、最期に、直接聞きたかったの。ありがとう、……ごめんね。私に勇気があれば……もっと、幸せになれたのかなあ」
自嘲するように呟き、もう一度、ごめんねと繰り返す。それは、僕に対してなのか、自分自身に対してなのかはわからなかった。
「高木君、最期の、もう一つのお願い、聞いてくれる……?」
寂しげな声に顔を上げると、宮谷さんの身体は透き通って、紅い色と溶け合って、それでも綺麗だった。
「願いって……もしかして、最初の?」
「うん」
向こう側が透けて見える。遠くなる。
紅く燃えたつ曼珠沙華の前で、瞳を潤ませ、囁いた。
「高木君……君は、私のことを覚えていてくれるかな?」
恋に浮かれていた時とは、全く違う意味の言葉が、重くのしかかる。
呪いだと、思った。
この先ずっと、死ぬまで、宮谷さんを覚え続けるだろう。初恋の少女のことを忘れられるはずがないのだから。
でも、それを彼女自身に伝えるということは、絶対に破れない誓いと同じ。鎖であり、呪いであり、傷だ。一生まとわりつく、苦しみなのだ。
それでも、彼女がそれを望むのなら。
僕は無理に微笑んで、宮谷さんに囁いた。
「覚えているよ。ずっと」
宮谷さんの笑顔がくしゃりと歪んだ。大きな瞳から、透明な雫がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「ありがとう。本当に、本当に、ありがとう……っ。私……私ね、生きててよかった……」
風が吹く。
ざわざわと曼珠沙華が揺れ、視界が紅で覆いつくされてゆく。
宮谷さんは泣きながら、それでも幸せそうに微笑んで、
「忘れないで……私のこと、覚えていて。時々でいいから、思いだして……ね。それで……それで、高木君が幸せなら、私も嬉しいから。我儘で自分勝手で、ごめんなさい」
消えていく。
巻き上がる風と、曼珠沙華の笑い声の渦に、淡く溶けて消えてゆく。
「宮谷さ……」
「本当にありがとう。……大好き」
僕が手を伸ばしたのと、世界が歪み、紅い風が吹き荒れ、全てを巻き込んだのはほぼ同時だった。
邪悪で、清らかで、残酷な刃。痛い。熱くて冷たくて、皮膚が裂けてゆくような感触。目が焼けて、開けられない。
待ってくれ。
まだ、逝かないで。
宮谷さんが逝ってしまう。消えてしまう。……嫌だっ!
けれど、想いとは裏腹に、無力な僕には何もできなくて。
激しい風の渦と曼珠沙華の笑い声に翻弄され、意識が飛びかけた時、僕の手をひんやりした柔らかな感触が、そっと包んだ。
「さよなら、高木君。どうか……幸せになって……ね……」
掠れた吐息と、確かな気配。
胸を抉るような、優しい優しい声と、遺された言葉。
次の瞬間、あれほど荒れ狂っていた風が止み、パッと視界が開けた。
誰も、いなかった。
斜めに傾き、潰れかけた神社。荒れ放題の草木と、息が詰まるような新緑の香り。真っ青な空から降り注ぐ陽光が地面を焼き、蝉の喚き声以外には何も聞こえない。
震える指先を、ゆらゆらと頼りなく揺れる陽炎に伸ばしかけ、やめた。
殺人的な高温の、鮮やかな真夏の景色。
そこに、宮谷さんはいなかった。
あれほど咲き狂っていた鮮血の花も、影も形もない。カケラさえ、ない。
何もない。
みんな、消えてしまった。
のろのろと視線を動かし、視線を彷徨わせる。そして、気付いた。
この景色に相応しくない、白の曼珠沙華が僕の足元に咲いていた。儚げに、一輪。
ああ、ここにいた。
「あ……ああ……ぁ……」
ひび割れた声が漏れる。溢れ出す涙が、曼珠沙華に吸いこまれては、消える。
腕が震える。頭の芯が痺れて、焦点がぼやけてゆく。
何もかもがわからなくて、それでも僕は、壊そうとするこの世界から守りたくて、泣きながら花を抱き締めて、蹲る。
もう、これ以上、僕から大切な人を奪わないで。
曼珠沙華から、涙が一粒、こぼれた。