悪魔と遁走曲を
商業都市ウェヌスにおいて、職業婦人という存在は眉をひそめられるようなものではないが、だからといって諸手を挙げて歓迎されるようなものでもない。
やり手の女商人という人もいないわけではないのだけれど、そういう女性の大半は「亡き夫の後を継いで」事業を担うようになった人ばかり。未婚の、しかもつい先日成人したばかりの小娘が商人面して商談会に臨むということは、失笑ものどころか場合によっては嘲笑の対象にもなり得るわけで。
「そちらはずいぶんとお困りのようで」と暗に娘すら家業の手伝いをさせなければならないような実家の貧窮具合を揶揄する言葉はまだ良い方で、何をどう勘違いしたのか少し変わった嫁ぎ先探しだと思った輩にはあからさま過ぎる視線を貰ったりもする。特にまだ比較的年若い、いわゆる新進気鋭の青年商人達はそれが顕著だ。
「……どいつもこいつも、よほどご自分の容色と財産に自信をお持ちのようで」
不愉快だ、と声音でも態度でも十二分に示してくるのは、付き添い役を申し出てくれたわたしの姉。ソルト家長女イルマ・ソルトその人である。
ドレスに包まれた肢体は我が姉ながら豊満且つ妖艶そのもので、それが普段は霰もなくさらされていると思えば眩暈がしてくる。実家を飛び出して単身ギルドの門を叩いた剛毅な人で、今では二つ名持ちの実力派冒険者らしい。今日は一日わたしの付き添い役兼護衛というわけだ。
「ホドの商人を見たか? あの赤毛、まるでお前がアイツの迷惑も顧みずすり寄ってきた阿婆擦れのような目で見やがって。ウチの可愛いフェリスを」
「口が悪いですよ、姉さん」
「あたしは傲慢な自惚れ屋ってのが世界で一番大嫌いなんだよ!」
ふん、と鼻を鳴らす姉は、気のせいではなく相当機嫌を損ねているらしい。
ホドの商人、と言われて思い出してみれば、そういえばそんな男性がいたかもしれないという気になった。姉が言うのだ、多分いたに違いない。
忘れられているかもしれないが、わたしは男嫌いなのである。元凶は言うまでもなくエドワード・ヴァレリーとかいう性格以外はパーフェクトのような気がしないでもない嫌味男。いい鴨、もとい、商売相手になりそうもないような、端からこちらの話を馬鹿にしてかかってくるような男の顔も名前も、覚える気はさらさらないのである。正直、ああ、何かジャガイモが喋っているな、くらいの認識しかしていない。
「相変わらずソルト家の姉妹は仲がよろしいんですなあ」
「当然です」
「姉さん」
それは胸を張って言うことなのだろうか? たまに姉がわからなくなる。
微笑ましいものを見る目で髭を撫でるのは、つい先ほどニコルの絵を一幅購入してくれた老商人だ。わたしは初対面なのだけれど、どうやら姉とは既知の仲らしい。申し訳程度に張り付いていた外面が完全に剥がれている。
今いる場所は、商談会が行われていた大広間ではなく、主催者側があらかじめ用意していた商談用の個室。会場では今頃、こういう場所にも慣れておいた方が良いだろうと無理矢理引っ張って来たニコルがひとり残されて泡を食っていることだろう。
「たまには自分で足を運んでみるものですな。まさかミゲイル・ローグの作品を出品している美術商がいるとは。しかも、思いがけず新たな才能を持つ新人まで発掘できた」
「私の情報通りでしょう、閣下」
「ええ、ええ。感謝しておりますよ、イルマ嬢。それに、フェリス嬢も」
「恐れ入ります」
目の前の老商人が買ったのは、夕暮れの街道を描いた一枚だった。
朱色から白色、宵闇の紺青へと変わりゆく微妙な空の色合いと、影のように黒々とした木々、人影のない街道がどこか寂寥感を誘う、わたしも一押しの作品を、この老商人は「実に神秘的で、官能的な絵だ」とひと目で気に入ってくれたのだ。
「この絵の作者は、これから売りに出すのですかな?」
「ええ。とは言っても、まだ今は無名の画家ですから、今回の値段はこのくらいにしようと思っていまして」
「ふ~む。まあ、あまり大きな絵ではありませんからなあ。これから売れていくだろうことを考えると、この倍はつけても良いように思いますが」
こちらが指で示した額に、老商人は難しい顔をする。一応これでも少し高めに設定したつもりなのだが、彼からすれば少し安過ぎるように感じたのだろう。
次に彼が提示した金額に、ニコルを会場に残してきてよかったと心底思った。自己評価の低い彼のことだ。動揺のあまり卒倒してしまうかもしれない。
それから幾つか交渉して、結局値段は最初にこちら側が提示したものに五割上乗せしたものになった。その代わり、今回三点しか出品しなかったミゲル――ミゲイル・ローグの作品を次回出品する時には、優先的に老商人が交渉権を与えるということで商談は成立。
にこにこと満足げに退室した老商人を見送って、わたしはきゃあと歓声を上げて姉に抱きついた。
「やった、やったわ、姉さん! これで目標達成よ!」
「よく頑張ったな、フェリス!」
普段剣を振りまわしているおかげで力持ちな姉が、わたしを抱きしめたままくるりとその場で一回転する。
「これで、あのエドワード・ヴァレリーに絶縁状を叩きつけてやれるな!」
「ぜ、絶縁状とまでは……『これからも良い商売相手でいましょうね』くらいで留めるつもりだけど」
絶縁してしまっては困るのである。主にソルト家の商売的に。
ところが、姉はきりりと眉を上げて「甘い!」と言い放った。
「あの男はドン引きする程ねちっこい上に一度死んで生まれ変わってきた方が良いレベルで根性がねじ曲がっているんだぞ。そんなやんわりとしたお断りで諦めるものか」
「…………」
確か兄のラグラも似たような評価を下していたと思うのだけれど、それよりも数倍辛辣なそれに流石に頬が引きつった。そんな男の嫁に行かされるところだったのか、わたし。
「大体、ヴァレリー家と縁を結びたいのなら、もっとお前と歳回りの近いのがいただろう。確か、レイランドとかいう」
「ああ、レイのこと」
レイランド・ヴァレリー。
兄のラグラがエドワード・ヴァレリーと幼馴染兼友人であるように、わたしにとっても不本意ながら幼馴染という関係にある腐れ縁の青年を思い出し、苦虫を噛み潰したような表情になる。
大商人ヴァレリー家のお家事情は複雑だ。詳しいことはわたしにもよくわからないけれど、エドワードとレイランドの母親が違うことだけは知っている。おまけにもうひとり、ヴァレリー家にはエドワードと同じ年の、同様に母親違いの青年がいるのだけれど、こちらは姉のイルマと同時期に出奔してギルド入りしたことでとうの昔に勘当されているらしい。だから、実質ヴァレリー家の本家筋の男はエドワードとレイランドの二人ということになる。
「レイは駄目よ。何がしたいのかはわからないけど、未だにあちこちふらふらして浮名を流してるような男だもの。地に足がついてないわ。まったく、わたしより二つも年上だってのに、何を考えているのやら」
「ロクな奴がいないな、あの家は」
「ディアスだけね、例外は」
「馬鹿を言うな。アレはただのヘタレだ」
はあ、とわたしたちは同時にため息を吐いた。
「もういっそ、ギルドの事務員にでもなったらどうだ。ディアスがこの前脳筋ばかりで人手が足りないと愚痴っていたぞ」
「そうね。それもいいかも」
美術商としての仕事も、ニコルとミゲル、この二人の作品だけを扱って規模の拡大を考えなければ大儲けもしないだろうが大損もせずやっていけそうなことでもあるし。
今回の商談で新たに顧客になりそうな相手も複数見つけられた。いっそ職業婦人として正々堂々嫁き遅れになるのもアリなのではないだろうか?
「貴女は本当に、わからない人ですねえ」
「げ」
商談会を終えて。
仕事完了の報告をするため姉は颯爽とギルドに戻り、途中商談会の会場によって予想通りへろへろになっていたニコルを拾ってアトリエまで送り届け帰宅してみれば、我が物顔で寛ぐエドワード・ヴァレリーがわたしの部屋にいた。
なんでこいつがここにいるのだとうろりと視線を彷徨わせれば、ぽーっとした表情でお盆を胸に抱くメイドがひとり、視界に飛び込んでくる。……あのメイドは一度、解雇も視野に入れて査定を行った方が良いかもしれない。
「ここ、わたしの部屋なんだけれど」
「昔から美的センスだけは優れているんですね。良い趣味です、そこの置時計も」
「それはミゲルが成人のお祝いに――って、そうじゃないのよ! どうして客間じゃなくてわたしの部屋にアンタがいるのかって聞いてるの!」
お客様が見えています、と出迎えた家令は言った。外から帰ってきたばかり、しかも自分の人生を左右しかねない商談会に出向くとあって、わたしの格好は昼間の服装にしては少し派手だし、その分動き難い。フォーマルな装いとはそういうものだとわかってはいても、自宅でまでそんな窮屈な格好はしたくない。
客人というのが薄々誰だかわかっていたこともあり、わたしは着替えてくるから待たせておいてと言ったはずだ。家令も心得たように頷いて、それで話は纏まったはずなのに。
咎める視線をメイドに送っても、彼女に気づいた様子はない。それにエドワードがにこりと胡散臭く微笑む。
「何を今さら。私と貴女の仲ではありませんか」
「どんな仲よ!?」
「おや、私に言わせる気ですか? このように明るい時間に?」
「無駄に含みを持たせないでちょうだい! そんな事実は一切! ありませんからね!」
これは駄目だ。わたしはメイドに出て行くよう指示した。咎めるような視線を何故かもらうが、部屋のドアを開けたままにしておけばあらぬ誤解もされないだろう。……されないことを祈る、全力で。
どっかとエドワードの向かいに座ると、ヤツは苦笑していた。手のかかる子どもを見るような目。わけもなく苛々する。
「どうでしたか、この半月。実際に商人の真似事をしてみた感想は」
「……失礼な男ね、本当に」
真似事。
確かに、この男からすればそうなのだろう。本格的に家業に携わったのが成人後だとしても、十年以上商人としてわたしなんかには想像も及ばない規模の取引を繰り返してきた男だ。
大陸一の呼称は伊達ではない。ヴァレリー家が関わっていない取引はないとまで言われる商家の、実質的な最高権力者だ。エドワード・ヴァレリーにとって、こんかいのわたしの一連の行動は、子どもの遊びのようなものなんだろう。
「面倒だったわよ。愛想笑いに上っ面の会話、痛くもない腹の探り合いに思わせぶりな交渉、根回し、値踏みされて値踏みして、近寄りたくもない男ども相手に媚を売って」
小娘である、とわたしは侮られて舐められたけど、それを逆手に取ってやるくらいの気概がないとやっていけない世界だった。自意識過剰な男達に男漁りにきた浅はかな女扱いされて侮蔑されて、傷つかなかったわけじゃない。
でも。
「それと同じくらい、嬉しかったわ。わたしが良いと思ったものを気に入ってもらえて、褒められて、たまに感謝されたりもして」
引き取られていく自分の絵画に、ニコルは信じられない、と茫然としていた。
価値を知らないということは不幸なことだとわたしは思う。売れたことがないと自信なさげに、気弱に微笑んでいた青年は、別れ際、泣きそうな顔で頭を下げた。
多分、わたしは商人には向いていないのだろうなとぼんやり思う。上辺だけの世間話であっても、見知らぬ他人と会話することは苦痛で億劫だ。ごく小数の、家族や友人たちとの交流だけで満たされる。それ以外が必要だと思ったことだってない。
政略結婚に抵抗がないのは恋愛をしたことがないからだと女学校時代に詰られたことを思い出す。非難めいた口ぶりだった。確か彼女は決められた婚約者以外の相手と恋に落ちただかで、在学中に駆け落ちしたまま行方知れずになったのだったか。的確な指摘だったが、それの何が悪いのかわたしにはわからない。
(でも、じゃあ……どうしてエドワード・ヴァレリーだけは嫌だと思ったのかしら)
姉のイルマには「ドン引きする程ねちっこい上に一度死んで生まれ変わってきた方が良いレベルで根性がねじ曲がっている」と言われ、一応は友人であるはずの兄ラグラにも「びっくりするぐらい執念深いしちょっとどうかと思うほど性格が悪い」なんて言われる男だ。どう考えてもお断りしたい物件に間違いない。
けれどその一方で、容姿だとか家柄だとか財産といった、性格以外の点は文句のつけようがない程完璧なのだ。他人の家のメイドを上手く言い包めて主不在の部屋で寛ぐくらいはあっさりやってのける外面もある。
差し引きゼロどころか、世間一般の女性達は自ら嫁に立候補するものなのかもしれない。性格の悪さにくらい目を瞑るわと。
(まあ、今さら考えたって仕方ないよね)
なにせ、わたしは父――ソルト家当主の出した交換条件を見事達成したのだから。
「とにかく、これで結婚話は白紙に戻ったわ。つまり、わたしとあんたは赤の他人。用事があるなら客間で聞くから、とりあえず退出してくださる?」
未婚の娘が、婚約者でもない男を自室に入れたとなれば、ひどい醜聞になる。
近親婚を繰り返したせいで出生率の下がったお貴族様たちが婚前交渉に関して寛容を通り越して積極的なのに対し、中流階級にとっては貞淑さだとか貞節だとか、そういった徳やモラルが尊重される。結婚を間近に控えた婚約者同士でさえ、周囲に誤解されかねない行動はご法度なのだ。
ところが、エドワード・ヴァレリーは腰を上げる様子もなく、優雅に紅茶を傾けている。
「……馬鹿だ馬鹿だと思ってはいましたが、本当にお馬鹿さんだったんですねえ、フェリス」
「なあんですって?」
かちゃり。エドワードがカップとソーサーをテーブルに置く音が、やけに響いた。
「ソルト家にとっての価値を上げることで家内での発言権を持つという考え自体は悪くありませんし、その方法についてもまあ、今ここで言及することは避けましょう。ですが、気づいていないのですか?」
「何よ」
「ソルト家にとっての貴女の価値が上がるということは、我が家にとっての貴女の価値も上がるということだと」
だからラグラは貴女を止めなかった。いっそ歌うように言葉を紡ぐエドワードに、嫌な予感が止まらない。
「当初私がソルト家に提示した条件は、一般的な政略結婚に伴うものと変わり映えしないものでしたが、当然このままでは貴女を貰い受けるこちらばかりメリットが生じてしまいますからね。釣り合いを取るために追加で幾つか便宜を図ることになりました」
にっこりと、エドワード・ヴァレリーが微笑む。会心の笑みだ、と直感した。
「もしもラグラが不慮の事故で死んで貴女が跡取りになっても、我が家の総資産の四分の一ほどもあれば問題なく私たちの婚姻は成立します」
言いたいことは、わかりますね?
ぱくぱくと口を開閉するしかないわたしに向かって、エドワード・ヴァレリーが腕を伸ばす。
テーブル越し。ぐいと強引に顎を掴まれて、耳朶に唇が触れるほど近くで、やたらと優しく、甘ったるい声でエドワード・ヴァレリーは囁いた。悪魔のように。
「諦めて、おとなしくお嫁に来なさい。私のフェリス」