庭師の少女と黒の姫
近くでアデルリーデの声が聞こえ、サキは微睡みから少しばかり覚醒する。
薄らと開けた目に映るアデルリーデは、何やら慌てているように見えた。
「ど、どうすればいいのかしら……っ。そうだわ、お医者様を呼んで来ないと。待っていて、サキさん!」
そんな声が聞こえたかと思ったら、アデルリーデは外套を手に部屋から出て行ってしまった。
何故医者が必要なのかと疑問に思いながら、サキは『呼んでくる』というアデルリーデの言葉に何やら不安を感じた。
まさかこの場所から出ていこうとしているのではないだろうか。
「アデ、ル、さ……」
手をついて起き上がろうとしたが、体が思うように動かせなくて、再び寝台に沈む。
「何……?」
どういう訳か息苦しくて体が熱い。とても怠くて体を動かす事が億劫で仕方がない。
これは一体どういう事だろうかと思いながらも、サキは気力だけで起き上がり、アデルリーデを追うように小屋から出た。
「アデル、様……?」
小屋の外にアデルリーデの姿はなかった。急いで辺りを見回すと、林の中を駆けて行くアデルリーデの姿を見つけた。
「ダメです、アデル様……っ」
息苦しくて上手く声が出せないサキは、大声でアデルリーデを引き留める事が出来なかった。その間にもアデルリーデはどんどん離れて行ってしまい、その姿も見えなくなってしまった。
「待って……、ダメです……」
サキは怠さのせいで重い体を懸命に動かし、アデルリーデの後を追った。
林を抜け、アデルリーデの姿を探す。すると建物の角を曲がる彼女の姿を捉えた。
「待って……。ああもう、何これ……っ」
サキは自分の体の異常に悪態を吐きながらも、アデルリーデの後を追う。
一歩踏み出すごとに体が鉛のように重くなっていく気がする。それに比例して体が異様に熱くなり、息苦しさが増していく。おまけに目まで霞んでくる。
サキはそんな体を引きずるようにして足を進め、懸命にアデルリーデを追った。
そうしてしばらく進んで行った先で、サキはとんでもない光景を目の当たりした。
「……っ!」
アデルリーデが何者かに拘束されている。誰かという事までは分からないが、不逞の輩である事は間違いない。
サキは最早アデルリーデを助けなければという思いだけで動いていた。
「そこのアンタ! その手を離せぃ!」
何やらてやんでぃ口調になっているが、サキはそれに気付いていない。
「その子に手を出したら、わ、私が、許さな……っ」
傾ぐ体で懸命に足を踏ん張る。
息苦しさのせいで上手く言葉が話せない。
「サキさん! 寝てないとダメよ!」
自分が捕まっているというのにこの身を案じてくれるアデルリーデの優しさに感激してしまい目が潤む。それは熱のせいだったりもするのだが、どちらの要因で目が潤んでいるのかなど今のサキには判断できない。
そうやってゼーハーと荒く息を吐くサキは、彼女を拘束している誰かに凶悪な視線を送った。
「その子を、離し、なさい……。さもないと、容赦しません、か、ら……っ」
ああダメだ、と思った時にはもう遅く、サキの体は大きく傾ぎ、そのまま前のめりに倒れて行く。
そうして意識が遠退きながらも捉えた光景は、アデルリーデを拘束していた誰かが慌てた様子で自分の方に駆け寄ってくるモノだった。
「サッちゃん!」
最後に耳にしたその声に、サキは何故か懐かしさを感じた。
◆◆◆◆◆
薄らと目蓋を上げると、見慣れた天井が見えた。そのままボーっとした頭で天井を見つめていると、不意に声をかけられた。
「起きたか」
その声に首を巡らせると、椅子に座ったままこちらを見ているウェルダの姿を見つめた。
「気分はどうだ?」
「最悪です……」
素直にそう返すと、ウェルダの表情が険しくなった。
「体は怠いし、熱いし、重いし……、目は霞むし、息苦しいし……」
「風邪を引いているような感じだな」
「これが噂に聞く風邪の症状ですか……。私、病気とかした事ないんで、貴重な体験ですね……」
「何を呑気な……」
ウェルダから呆れたような言葉が聞こえてくるが、サキにとっては本当に貴重な体験だった。
サキの体は『魔術』でできているため、見た目は人と何も変わらないが、やはり違う部分はあるのだ。サキは肉体を持っていないので、病気の類には全く縁がない。直接傷付けられれば怪我はするが、病気と言うものは肉体があってはじめて発症するモノであるため、サキとは無縁なモノだった。
「えーっと、私はどうして……」
どうしてこんな事になっているのかと記憶を辿っていると、サキはとんでもない事を思い出し、勢いよく起き上がる。
しかし。
「……うう……っ」
「お前はバカか」
サキは中途半端に起き上がるも、再び寝台に沈む。すると口ではバカ呼ばわりをするウェルダが、心配そうな表情で手を伸ばしてくる。
「風邪みたいなものだと言っただろう。無理をするな」
「うう、すみません……」
ウェルダに上掛けをかけてもらいながら、サキは素直に反省する。しかし思い出してしまった事はちゃんと確認しておかないと大変な事になってしまうと思い、サキはウェルダに横になったまま尋ねる。
「あの、アデル様、は……?」
「あの娘か? あの娘なら外にいるぞ」
「本当ですか?」
「ああ。今は部屋の中で香を焚いているから、外に出てもらっているだけだ」
「ウェルダさんを疑っている訳ではないのですが、できれば顔を見たいです」
そう願ってみると、何故かウェルダは渋面を作った。その様子に、サキは安心させるために偽りを言っていたのだろうかと思ってしまった。
「いるんですよね?」
「ちゃんといる」
「じゃあ会わせてください」
そう告げると、ウェルダは諦めたようにため息を吐いた。
「少しは自分の身を案じろ……」
そんな事を呟きながらウェルダが立ち上がり、窓の方へと向かった。そして窓を全開にすると、彼はそのまま外へと声をかけた。
「入って来い」
「入ってもいいのですか?」
「ああ」
そんな会話が聞こえてから少しすると、部屋の扉が控えめに開かれた。
「サキさん!」
入って来るなり寝台へと駆け寄ってくるその人は、アデルリーデに間違いはなかった。
「アデル様、無事だったんですね……。良かった……」
「サキさんこそ、無事でよかった……っ」
ボロボロと涙を流しはじめるアデルリーデに、サキは少々慌てた。
「私は、大丈夫です。すぐに、よくなりますから」
そう言いながらアデルリーデに微笑んでいるサキは、傍でウェルダが険しい顔をしている事に気付いていなかった。
「そう言えば、あの後どうなったんですか? ウェルダさんが助けてくれたんですか?」
サキはアデルリーデが不逞の輩に捕まっているところまでは憶えているが、その先の記憶がさっぱりなかった。まさか記憶がない部分で何かやらかしてしまったのかとも思うと、嫌な汗が出てくる。
「俺が呼ばれた時にはお前はもうここにいた。お前をここに運んだのはその娘だと聞いたが?」
「え? では誰が助けてくれたんですか?」
「あ、あのね、サキさん。その事はまた後で話すわ。だから今は休んでちょうだい」
アデルリーデから潤んだ瞳を向けられたサキは、解消されない疑問を押し込め、彼女の言葉に従う事にする。
「アデル様が無事なら、私は、それでいいんですけどね……」
そんな事を言いながら、サキは再び微睡みはじめる。
「俺は少し用がある。サキを頼む」
「はい。お任せください」
そんな会話が聞こえたのを最後に、サキは再び眠りについた。
◆◆◆◆◆
レオンハルトは獄舎の寝台でぐーすか眠っていた。
現在、牢に入っているのはレオンハルトだけだ。そのため、獄舎という場所ではあるが、とても静かで快適な寝床だった。
本来なら眠りの浅いレオンハルトも、連日の寝不足も相まってがっつり眠っていた。
「おい、起きろ」
不機嫌そうな声がかけられた事で、レオンハルトはすぐに目を覚ます。
どれだけ深い眠りについていても何かあればすぐに起きる事ができるのは、戦場に長く身を投じていた名残もあって、もう身に染みついている習慣みたいなものだった。
しかしながら、サキだけは例外だったりする。
「あれ? ウェルダ?」
牢の前に立っているその人を認めると、レオンハルトは一気に気を抜き、大きな欠伸をしながら体を起こした。
「お前は何で牢に入っているんだ?」
「いろいろ事情があって……ふぁわ」
「牢に入っていると言うのに余裕だな、お前……」
呆れたような視線を向けてくるウェルダに、レオンハルトは寝台に腰かけながら口を開く。
「何でウェルダがここにいるの? 俺への面会は、できるのか……?」
イルヴェルトはあれだけ警戒されていたというのに、自分は余程警戒されていないらしい。
そう思うと何やら胸の中がモヤッとした。
しかしながら、ウェルダがまともに会いに来る訳がなかった。
「悪いが勝手に入ってきた」
「……そうだと思った」
ウェルダが正規の手続きを踏んで来るところなど想像できない。
そんな事を考えながら眠い目を擦り、ウェルダを見つめた。
「何か用?」
「お前、昼間は何処で何をしていた?」
「昼間?」
何でそんな事を聞くのだろうかと思ったが、レオンハルトはとりあえず正直に答える。
「昼間は定例会議があって、そのまま牢に」
「話の流れがいまいちよく分からないんだが……」
ウェルダは微妙な表情を作りながらも、まあいい、と言って話を進めた。
「質問を変える。昼間に何か嫌な事でもあったか?」
「嫌な事?」
「例えば、逃げ出したくなるほど居心地の悪い場所にいたとか、聞くに堪えない罵声を浴びせられたとか」
「それ聞いてどうするの?」
「いいから答えろ」
質問の意図が全く分からないながらも、ウェルダが至極真面目な顔で答えを待っているので、レオンハルトは少々言い難いながらも答えを返した。
「……あった」
「そうか」
詳細を聞かないところを見ると、その事実があったかどうかだけが知りたかったのだという事を知る。
しかしそれがどうしたというのかと首を傾げていると、渋面を作ったウェルダが厳しい口調で言葉を告げる。
「あまりそういった事に対して、今は動揺したり嫌悪を抱いたりするのは控えろ。むしろそういった事になる前に逃げろ」
「そう言われても……」
「そうでもしないとサキが苦しむ事になる」
「え……」
ウェルダが何を言っているのか、レオンハルトには分からなかった。しかしサキが苦しむと言われてしまえば嫌な予感しか覚えなかった。
「お前の魔力でできているサキの『器』は、今はまだお前の身の内に在る魔力に引っ張られている。そのせいで、サキは『器』に馴染むのに時間がかかっているんだ」
現在のサキの『器』はレオンハルトの魔力で作られているため、レオンハルトとサキの間にある『繋がり』はより強くなっているらしい。そのせいでサキは『器』を形作っている魔力を留めるだけでも大変な状態なのだという。サキ自身はそういった事を無意識に行っているため自覚はないらしいが、彼女に負担がかかっているというのは事実だった。
「サキは寝てる事が多いって聞いたけど……」
「眠っている事が多いのは、負担を軽減するための自己防衛だ」
たとえ『魔術』であっても人と同じように活動すれば疲れるのだ。そのため眠る事で『器』を維持する事だけに集中しているのだという。
レオンハルトが離れれば離れた分だけ魔力の解離現象が強まってしまうのだそうで、本当はサキの『器』が安定するまでレオンハルトが傍にいるのが一番いいのだという。しかし今はそれが出来ない状態であるため、サキは自身への負担を減らすために眠っている事が多いという事だった。
「お前とサキの間にある『繋がり』のせいで、今のアイツはお前からの影響を強く受けてしまうんだ」
「俺からの影響を……?」
「極端に言えば、お前が怪我をしてもサキが身代わりとなってその怪我を引きうけてしまうような状態だ」
「何、それ……」
ウェルダの言葉にレオンハルトは驚愕した。
そんな事をレオンハルトは望んではいない。しかしレオンハルトやサキの意思に関係なくそういった事は起こってしまうようだった。
「今は『繋がり』を絶つ以外にそれを解消する方法はない。だが、『繋がり』を絶つのはやめておいた方がいいだろうな」
「どうして?」
「サキから妙な花畑の話を聞いた」
ウェルダはそれをサキが蘇った次の日に聞いたようだ。
「サキはお前がいるならここに帰って来る事ができると言っていたが、おそらくお前たちの間に『繋がり』があるからサキはその花畑から帰って来る事ができたんだ」
『繋がり』を絶つ事で、サキは早々に『器』に馴染む事ができるし、互いに影響を及ぼす事もなくなる。しかし『繋がり』を絶ってしまったら、再びあの広大な花畑にサキが行ってしまっても、もうその場所から彼女が戻って来る事が出来なくなってしまうだろうという事だった。
「どの道、『繋がり』を絶つ事ができるのはサキだけだ。アイツが望まない限り、『繋がり』は絶たれない」
その言葉に何処かホッとするレオンハルトは、自分がサキとの間にある『繋がり』を失くしたくないと思っている事を自覚する。
その『繋がり』がなくても、ちゃんと心は繋がっている事はもう分かっている。しかし『繋がり』がある事によってサキの助けとなれる事のあるかもしれないのだ。『繋がり』ができたおかげでサキを蘇らせる事ができたように。
しかし今現在は、全くの逆効果になっている事をウェルダの話で理解した。
「時間が経てばサキの『器』も安定するだろうが、今はまだ無理だろう」
「そうか……」
「お前に何があったかは知らないが、サキはお前の影響を受けて今は風邪を引いているような状態になっている」
「風邪引いてるの?」
「実際の風邪ではない。サキは『魔術』だ。アイツは病気の類とは無縁だ」
サキが病気をしないというのは何となく理解できるが、それは人とは違うのだと思い知らされているようで切なくなる。しかしそういう事を認めていかないと、サキをちゃんと受け入れた事にならないだろう。
サキが人ではない事を忘れず、『魔術』だという事を憶えておくと約束したのだ。だからこそ、彼女のためにできる事を探そうと思った。
「サキは大丈夫なの?」
「大した事はないが、あの小屋にはサキ以外の娘がいるせいで香が焚けない。あの香があれば少しは楽にしてやれるが、今はそれが出来ない」
香の効果は正常な者に対しては毒となる。そのためアデルリーデがいては部屋で香をたく事が出来ないのだ。しかしアデルリーデをあの場所から出すわけにもいかないため、レオンハルトは何も言えずに黙り込んでしまった。
「事情がある事は分かっている。だから解決策として、お前に不測の事態は回避しろと言いにきたんだ」
腕を組んで真っ直ぐに視線を向けてくるウェルダに、レオンハルトは彼がサキのために動いているのだという事を知る。
「それはサキのためだよね?」
「当り前だろう」
「えっと……、ウェルダは、その……」
「ん? 何だ?」
少しばかり聞き難いため、レオンハルトはもごもごと口籠る。するとレオンハルトが何を言いたいのかを察したウェルダが盛大なため息を吐いた。
「言っておくが、サキは天姫の妹だ。俺にとってはそれだけだ」
「妹……?」
その言葉に、レオンハルトは天姫と別れる際に彼女が言っていた最後の言葉を思い出す。
――どうか妹にも、幸せな未来を。
天姫は確かにそう言っていた。それはサキを妹みたいに思っていたという事だろうとレオンハルトは解釈していたが、ウェルダが急に黙り込んでしまった事で、何か違う意味があったのではないかと思った。
「ウェルダ?」
そう声をかけてみると、ウェルダは何かを決意したようにレオンハルトを真っ直ぐに見据えた。
「お前に一つ話しておきたい事がある」
ウェルダはそう前置きをすると、そのまま話しを続けた。
「サキは天姫の、実の妹だ」
「え……?」
何を言われたのかさっぱり分からなかった。サキは生まれた時から『魔術』だったはずなのだ。それなのに天姫の実の妹とはどういう事か。
「天姫とサキは双子の姉妹だったんだ」
ウェルダの祖国では双子は不吉とされており、子供が双子で生まれた際は後に生まれた子供をその場で殺してしまうという忌わしい風習があったのだという。その例に漏れず、天姫の双子の妹は、生まれてすぐにその命を絶たれてしまっていた。
「王家に双子が生まれたとなれば騒ぎになる。そんな下らない理由で妹姫は殺された。俺も噂でしか聞いた事はなかったが、天姫から話しを聞いて、ようやくそれが事実だった事を知った」
ウェルダは天姫を見送る際に、彼女からその事実を聞いたのだという。
天姫がずっとサキの心に寄り添っていたのは、ウェルダに会いたかったからだけではなかった。サキが、生まれてすぐに逝ってしまった妹だったからこそ、天姫はサキの心を守っていたのだ。
「じゃあサキが『魔術』として生まれたのは……」
「偶然ではなかったのだと思う。おそらく、妹姫の心は天姫と共に生きていたのだろう」
姉姫が生きた十六年、妹姫の心は姉姫の心に寄り添ってそっと生きていた。そして姉姫が亡くなり、『魔術』で作られた『器』には妹姫の心が入った。そして今度は姉姫の心が妹姫の心に寄り添って生きたのだ。
二人は生まれた瞬間に死に別れてしまったが、心は常に共に在った。
「この事を天姫はサキに告げなかった。俺もアイツに話す気はない。サキはもう自分が『魔術』だという事を受け入れている。これ以上アイツの心を乱したくはない」
その真実を知る事はサキのためになるのか、それともならないのか。それはレオンハルトには分からない。本当は『人』だったのだと知ったところで、今のサキは既に『魔術』だ。もう人に戻る事など出来ない。それに、たとえ『人』だったとしても、忌わしい風習のせいで生まれてすぐに殺されてしまったのだ。そんな事を今さら知っても、ただ辛いだけだろう。
「俺はこの話をサキにするつもりはないが、お前がサキに話したいというならそうするといい。サキの傍にいるのはお前だ。だから、お前が決めろ」
本当は俺が天姫に頼まれたんだがな、と言って肩を竦めるウェルダに、レオンハルトはこの話を託してくれた彼に少しばかり感謝した。
「話してくれて、ありがとう」
「礼などいらん。サキだけがこの話を知らない訳だから、あまりいい気はしないだろう。お前にとっても気持ちのいい話ではないだろうしな」
後で生まれたというだけで殺されてしまった天姫の妹。レオンハルトも双子の弟として生まれたため、妹姫の事を想うと居た堪れなくなる。
「そうだけど……。俺はたぶんサキに話すと思う。今はまだ話さないけど、いつかきっと、必ず」
「そうか」
この話を聞いた時、サキはまた泣いてしまうかもしれない。しかしそれでも、彼女はちゃんと受け止める事ができると信じている。今はまだこの胸にしまっておくけれど、いつかきっと天姫が本当の姉だったのだと教えてあげたい。
「ウェルダ」
レオンハルトは立ち上がり、鉄格子の傍まで歩み寄る。
「俺はまだここから出られないから、サキの事をどうかお願い」
「分かっている」
そう返してくるウェルダが不意に不敵な笑みを浮かべた。
「なんなら今すぐここから出してやってもいいが?」
「それは脱獄……」
「冗談だ」
「ウェルダも冗談とか言うんだ……」
魔術が使えるウェルダなら、こんな鉄格子など簡単に排除できるだろう。しかしレオンハルトが牢に入っている事には訳がある。そのため、正式に出られるようになるまではここにいなければならない。
本当はサキの事が気掛かりでならないが、ウェルダが言っていた事を守りながら、彼女の無事を心から祈ろうと思った。
「その髪紐は、あの時の髪紐か?」
ふと、レオンハルトがつけている髪紐を見つめながらウェルダが質問してくる。それにレオンハルトは、そうだ、と答えた。
「いつの間にかガラス玉だけなくなっちゃったけど」
「そうか。それをちょっと貸せ」
「やだ」
レオンハルトは間髪入れずに断った。
サキに会えない今、この髪紐だけがレオンハルトの心の支えになっているのだ。そう簡単には渡せない。
「別に奪おうとは思っていない。その髪紐をサキに持たせておけば、魔力の流れを逆にできるかもしれないと思っただけだ」
「どういう事?」
現在サキの『器』を形作っている魔力はレオンハルトに引っ張られている状態だ。そのため、レオンハルトが身につけている物をサキが持つ事で、魔力の流れをサキからレオンハルトではなく、レオンハルトからサキへと変える事ができるかもしれないという事だった。レオンハルトの魔力がサキに向かう事によって、彼女が『器』に馴染むのも早める事ができるかもしれないと、ウェルダは語った。
「その髪紐はサキからお前に贈られた物だ。たぶん効果はあると思う」
「そういう事なら」
レオンハルトは髪紐を解くと、それをウェルダに差し出した。
「はい。ちゃんとサキに渡してね」
「分かっている」
髪紐を手渡すと、ウェルダが小さく息を吐いた。
「面倒事はさっさと終わらせろ。ではな」
そんな別れの言葉を残してウェルダは去っていった。
それを見送ったレオンハルトは、再び牢の奥へと向かうと寝台に腰かけた。
「サキ、大丈夫かな……」
今すぐ会いに行きたい気持ちを懸命に堪え、レオンハルトは座ったままの姿勢から体を横に倒す。
「サキ……」
今思えば一日に一回は顔を突き合わせていた夏の日々の方が奇跡に近かったのだろう。毎日毎日サキに会いたいがために庭を巡っていたあの日々が懐かしい。
あの奇跡がなかったら、自分は今こうして未来のために頑張ろうとは思わなかっただろう。
サキと出会ってまだ半年。その間にいろんな事があった。
変わったモノもあったが、変わらないモノも確かにあった。
その全てが、レオンハルトの中に大切な思い出となって残っている。
「これからもきっと――」
悲しい事も辛い事も楽しい事も嬉しい事も。
彼女と共に分かち合い、その全てを思い出に変えていけるように。
もっと強くなろうと思った。




