叶わない未来
「しかしサッちゃんって怖いもの知らずだよね」
夕飯時が終わり、クランシエルと共に片づけをしていたサキは、不意にかけられた言葉にため息をついた。
「仕方なかったんです。そこに殿下しかいなかったので」
クランシエルへは、犬が嫌いなサキが逃げようとした時、偶然通りかかったレオルヴィアに助けを求め、腰が抜けたサキを親切にもレオルヴィアが運んでくれようとしていた、という事で説明をしておいた。
かなり苦しい言い訳だったが、クランシエルは何とか納得してくれたので、事はそれで終結した。
「レオルヴィア殿下の事知らないわけじゃないでしょう? それなのに助けを求めるなんて、余程犬が嫌いなんだね」
洗い場で食器を洗っていたサキは、隣で食器を拭いているクランシエルを恨みがましい目つきで睨んだ。
「嫌いなんてものじゃないです。犬が猫に変わる魔法があるなら全身全霊で習得して見せます」
「……そこまで」
サキの言葉に苦笑を浮かべているクランシエルから視線を外すと、サキは皿洗いを再開した。
「殿下は噂とは違って優しい方です」
サキは手を止めずに口を開く。
本当は皆にもレオンハルトの優しさを分かってもらいたかった。しかしそれはできないのだと分かっている。これはただの我儘なのだと知っている。
それでもいつか、レオンハルトが『レオンハルト』として生きられる未来が来ることを願ってやまないのだ。
「知ってるよ」
「え?」
予想に反して、クランシエルは肯定を口にした。
「騎士なら皆知ってる」
そう言ってクランシエルが語る『レオルヴィア』は、サキの知らないレオンハルトの一面を見せた。
「殿下はね、誰も見捨てたりしないんだ」
幾つもの戦場を騎士と共に駆けるレオンハルトは、傷ついた騎士を誰一人その場に残す事はなく連れて戻って来るのだという。本来なら、戦時中足手まといになる怪我人はその場に残していくのが普通なのだそうだが、それをレオンハルトは決してしないのだとクランシエルは語ってくれた。
戦いの最中でも味方を庇い、先陣を切って進むレオンハルトの姿は騎士たち皆の信頼を集めるに足るものだった。
「怪我人を連れての移動となるとどうしても戦力が少なくなるんだけど、殿下はそれを一人で補ってしまうくらい強いんだ」
その強さは騎士たちの憧れなのだと、クランシエルは続けた。
「殿下たちがいるから、俺たち騎士は命をかけてこの国を守ろうと思えるんだよ」
レオンハルトたちの父、つまり現王は即位してからまともに政を行ったことがないのだという。それ故に国の政は中央貴族たちのやりたい放題になっていた。地方を治める貴族たちとの連携も取れず、個々に独立した形で町や村を治めるといった状況が続いていたのだそうだ。そんな状況の中、他国に攻められ、次第に国は領土を失っていった。国は見る間に衰退の一途を辿り、国内は疲弊する一方だった。
しかし、イルヴェルトが政に参加するようになってそれは一変した。
イルヴェルトは分断されていた地方との連携を取り戻し、見事な采配で次々に領土を取り戻していったのだ。
それを成し得たのは、レオンハルトの存在が欠かせなかった。
レオンハルトは幾つもの戦場を駆け抜け、自国を勝利に導いた。
王子でありながら先陣を切って戦うその様は、騎士たちの羨望と信頼を集め、多くの騎士たちがレオンハルトと共に戦ったのだという。
そうして今年の夏、北に隣接しているセレティア国との戦いに勝利したレイヴァーレ王国は、ようやく全ての領土を取り戻すに至ったのだ。
二人の王子がこの国を立て直したその事実は、国内はもちろん、国外にまでその功績は知れ渡っているのだという。
「でもね、お二人には敵も多い」
不意に厳しい表情になったクランシエルに、サキは少々目を見張る。
「……そう、なんですか?」
「中央貴族たちは現王の御世のまま、それほど変わってはいないんだよ」
「あ……」
たとえ二人がどれ程の実力を持っていようとも、それを補佐する貴族たちは国を疲弊させた者たちだ。その全てがそうだというわけではないのだろうが、それでもそういった者たちは少なからず残っているのだ。
イルヴェルトが政に参加するようになってから、幅を利かせていた貴族たちは途端に窮屈を強いられる結果となっていったのだ。再び己の栄華を取り戻そうとする者たちにとってイルヴェルトの存在は邪魔以外の何ものでもないだろう。
イルヴェルトは次代の王ではない。その事が余計に敵を生む結果になっているのだ。
しかしレオンハルトはその逆だった。
次代の王はレオルヴィアだが、今現在はレオンハルトがその役目を担っているため、次代の王はレオンハルトということになっている。それ故に、良くも悪くも、貴族たちはレオンハルトに取り入って来るだろう。その事でレオンハルト自身に害はなくても、その周りには少なからず害が及ぶことは想像に容易い。
それをレオンハルトは決して容認はしないだろう。『レオルヴィア』が故意に人を遠ざけているのはそう言った理由があるからなのではと、クランシエルは言っていた。
二人の王子は、そんな場所で生きているのだ。
「……」
サキは食器を洗う手を止め、視線を落とした。
十日前に三人で話したあの日の光景を、サキはふと思い出した。
誤解を解くのは大変だったが、最後には笑い合って話ができた。そんな二人がずっと苦しんできた事実をサキは知っている。
イルヴェルトはたった一人残った弟に残酷な命を与えなければならず、レオンハルトはそれを受け入れて生きるしかなかった。それなのにまだ二人を苦しめるものがあるなど、考えただけでも辛かった。
「だから、『花姫』は隠されているんだ」
何故ここで『花姫』の話になるのだろうかと首を傾げたサキに、クランシエルは至極真面目な顔つきでサキを見つめてきた。
「君が『花姫』なんだね」
「……っ」
サキは息を呑んだ。
違う、と早く否定しなければと思うのに、上手く言葉が出なかった。
「やっぱり……」
「あの、違いますっ」
その否定は最早遅すぎた。
クランシエルはサキから視線を外すと持っていた皿をそっと積んである皿に重ねた。
「否定しても無駄だよ。昼間の事、本当は君が殿下に抱きつくところから見てたから」
「な……」
まさかそんな最初から見られていたなんて知らなかった。しかしそれを知ったところでサキには最早どうすることもできなかった。
もう誤魔化す事などできない。
見咎められる可能性があったにもかかわらず、レオンハルトに助けを求めたのは自分だ。その失態のせいでばれてしまったのだから、とにかくレオンハルトに迷惑をかけないようにしなければならない。
「できれば誰にも言わないでください。いろいろと事情がありますので」
おそらくレオンハルト達はサキを隠しているわけではない。隠したいのは、サキ自身だった。
公になれば迷惑をかけることになるのは目に見えている。それだけは避けたい。本当はこのままの状態でいてはダメなのだと分かっている。早くどうにかしないといけなかったのに、こんな事態になってしまった。
どうして自分はいつもこうなのだと、サキは反省と後悔で気落ちした。
「誰にも言わないよ。その代わり、頼みがある」
「頼み、ですか」
サキはクランシエルを少々睨むように見つめた。その視線を受けたクランシエルは、どこか申し訳なさそうな表情をしていた。
「脅しだと取られても構わない」
そうしてクランシエルは言葉を続けた。
「アデルリーデ様を後宮から追い出してもらいたい」
「え!?」
なんてことを言い出すのだと、サキは持っていた皿を取り落としそうになりながら、クランシエルに向いた。
「アデルリーデ様は侯爵令嬢だ。彼女の父親は、この国を疲弊させた原因の一人だ」
アデルリーデの父、ガインウェラー侯爵は現王の執政放棄を皮切りに黒い噂が絶えない人物であるらしい。現に国の衰退に目もくれず、自分たちの都合のいいように政を行っていた筆頭の一人だったらしい。
しかしながらアデルリーデは幼い頃からその魔力の多さを認められており、将来は王家に嫁ぐ事が決まっていたのだそうだ。
「アデルリーデ様の後宮入りは、本当は正式のものではないよ。侯爵様は北国の姫が後宮に入ったことに便乗して、無理矢理自分の娘も後宮に入れたんだ」
もし『レオルヴィア』の寵愛を受ける事ができれば、侯爵の権力も王に継ぐものとなるのは確実だった。たとえアデルリーデが寵愛を勝ち取れなかったとしても、王の子を産み、その子が次代の王と決まれば、その方が確実に権力を手に入れられる。
アデルリーデが後宮にいる以上、侯爵が政の実権を握るのは目に見えていた。
「……彼女はそれを望んではいなかったのに、侯爵様は――」
「……?」
ふと見えたクランシエルの辛そうな表情に、サキは、まさか、と気づいてしまった。
「もしかしてクランシエルさんは、アデルリーデ様こと――」
悲しげな笑みがサキに向けられる。
「……その通りだよ」
サキはそれに何と言葉をかけていいのか分からなかった。
視線を外し、皿を拭きはじめるクランシエルを、サキは黙って見つめていた。
「俺はもともと侯爵様が治める地域の駐在騎士だったんだ」
クランシエルは二年前くらいまで駐在騎士として地方にいたのだという。侯爵が治める地域で働いていたクランシエルは、その時アデルリーデに出会ったらしい。
「彼女とは身分の違いもあるし、彼女自身は王家に嫁ぐ事がもう決まっていたしね。諦めようと思って王宮勤務を申し出たんだ。いずれ後宮に入る彼女を傍で守れるように。でも――」
離れることを決めても想いは消える事がなく、アデルリーデからの手紙が途絶えることもなかったのだという。
「諦める覚悟は出来てたはずなのに。いざ彼女が後宮に入ることが決まったら、それは正式なものではなく、しかも殿下には既に寵姫がいたなんて……。これでどうやって諦めろっていうんだ」
泣きそうに顔を歪めながら吐き捨てるように告げるその言葉に、サキは謝罪の言葉を呑みこんだ。
謝ってどうしようというのか。
サキはレオンハルトの好意に甘えている状態なのだ。そんな人間が一体何を言えるというのだろうか。
願ってはいけない現実だったとしても、望めない未来だと分かっていても。どうしても諦められないその気持ちを、サキはよく知っている。
それを諦める悲しみを知っている。
だからこそ、サキはそんな思いを抉っている自分の存在がどうしようもなく許せなくなった。
「君なら彼女を後宮から出す事ができる。レオルヴィア殿下の寵姫なら――」
「できません」
サキはきっぱり断った。
そんな事は自分にはできない。そんな権利は持っていないし、そんな資格もありはしない。
どれだけ自分がぬるま湯の中にいたのかはっきり思い知った。だからこそ、それは決してできないのだ。
「私は寵姫ではありません。たとえ殿下がそうだと言ったとしても、私が殿下の隣に並び立つことはありません」
「サッちゃん……」
クランシエルの顔が何処か辛そうに見える。それでもサキには承諾する事ができないのだ。
「確かに私は後宮に入っていますが、それには事情があるんです。仮初めの『花姫』は次期王陛下の妃には決してなれないんです」
魔力を持たないサキは、決してレオンハルトと結ばれる事はない。たとえどんなに願っても望んでも、それだけは決して叶う事はない。
その考えに、胸がチクリと痛んだ。
「ごめん」
急に謝罪を口にするクランシエルは悲しげにサキを見つめていた。
「何で謝るんですか?」
「サッちゃんが……泣いてるから」
「え?」
サキは腕で頬を拭うと、腕が濡れた。それを目の当たりにしてサキは、何で、と思いながら流れる涙で頬を濡らし続けた。
「ごめん、サッちゃん」
「これは、違……っ」
違うのだと言いたかったのに、言葉がうまく出て来なかった。
何で泣いているのかサキにも訳が分からなかった。
ずっと分かっていたことを再認識しただけなのに、心は酷く傷ついていた。辛くて、苦しくて、悲しくて。どうしようもない感情が体の中で渦巻いている。
傍にいると決めた時、それはレオンハルトの隣ではないのだと分かっていた。それなのにこの気持ちは一体どういうことか。
サキは知りたくないと懸命に心に蓋をする。それを知ってしまったら、もう傍にはいられない。
「さっきの事は全部忘れてくれ。俺も君の事は決して誰にも言わないから」
クランシエルはサキの頭をそっと撫でた。
サキはそんな温もりを感じながら、止まらない涙を流し続けていた。