臨時ですが、食堂で働いています
犬好きの方、すみません……。
あの日からさらに十日経った。
サキは現在、腰を痛めた賄いの人の代わりに食堂で騎士たちの食事の世話をしている。それというのも、変わりの人が急には見つけられないという事で、十日前に見せた料理の腕を買われ、臨時にサキが食堂を任されることになったのだ。
「これを毎日って……賄いさんを尊敬してしまう」
庭師の仕事をひと月半もセルネイ一人に任せていたのだ。王宮に戻って来たのだから、できればセルネイの手伝いがしたかったサキは、本当は庭仕事をしていたかった。しかし、食堂が機能しないと騎士たちが困る事は目に見えていた。それを見過ごす事はサキにはできなかった。
セルネイに了承をもらい、変わりの人が見つかるまでという条件付きで、サキは賄いを引き受けたのだ。
そんなわけで、昼が終わり、夕飯の支度に勤しむサキは、食堂の裏手にある植え込みの段差に腰掛け、芋の皮むきをしていた。
「次は何を手伝おうか」
「あ、じゃあこっち手伝ってもらっていいですか?」
勝手口の方から顔を覗かせる一人の騎士に、サキはこちらに来てくれるよう返事を返す。
その言葉に応じたその騎士はサキのもとにやって来ると、隣に腰を下ろした。
「量が半端ないので、手伝ってもらえるのは助かります」
「慣れないうちは大変だよね」
そうしてサキは騎士と他愛ない話をしながら、せっせと芋の皮をむいていた。
もともと騎士たちは交代で賄いの人を手伝っていたらしく、こうして毎日誰かが手伝いに来てくれるのだ。
「夜は皆さん酒場に行くって聞いてたんですけどね……」
サキは積まれた芋の山に視線を向けながら、小さく息を吐いた。
初日はその場しのぎの助っ人だったため、夕飯は作らなくても良かったが、本来は夕飯も賄いの人は作っていたらしい。
騎士のほとんどは詰め所内にある寄宿舎で普段は生活しているため、三食この食堂を利用している。とは言うものの、夜はほとんどの騎士たちが町の酒場に行くという話だったので、夕飯の支度は朝や昼ほど大変ではない、はずだった。
「みんなサッちゃんの手料理が食べたいんだよ」
「そうですか?」
サキは騎士の言葉を、そんなバカなと思いながら聞いていた。
「私は賄いさんのレシピ通りに作ってるだけですよ?」
「君が作るから、みんな食べたがるんだよ」
「誰が作っても同じだと思うんですけどね」
せっせと芋の皮をむくサキの隣で、騎士が何とも言えない苦笑を浮かべていた事に、サキは気付かなかった。
「サッちゃんもそういう年頃なんじゃないの?」
「何の話ですか?」
「好きな人はいないのかって話」
唐突に振られたその話に、サキは一瞬言葉に詰まる。
ふとレオンハルトの顔が思い浮かんだが、すぐさま打ち消した。
「あ、その顔は『いる』って顔だ」
「い、いませんよそんな人。クランシエルさんこそどうなんですか?」
「さぁね、どうだろう」
隣に座っている騎士は肩を竦めながら、素知らぬ顔でしれっとはぐらかした。
今サキを手伝ってくれている騎士はクランシエルという名の青年で、二十歳を少し過ぎたくらいだろ彼は、優しく穏やかな性格の人物だった。
このクランシエルは、十日前ジークフリードを探しに来た騎士でもあった。どの騎士も動くことすらできずにいた中で何故クランシエルは無事だったかというと、その日の午前中彼は城門の警備をしていたので、演習には参加していなかったのだという。
しかし残念な事に、クランシエルは自炊できない騎士だった。
「でもサッちゃんにいい人がいないって知ったら、みんな喜ぶかもね」
「はいはい。無駄口叩いてないで手を動かしてください。……って皮厚すぎですってば」
「あれ? ごめん、こういうの苦手でさ」
これでは実がなくなってしまうだろう、とサキはクランシエルが剥いた皮を手にして一つ息を吐いた。
サキがどうして『サッちゃん』と呼ばれているのかというと、それは騎士団長であるアヴァンオスローのせいだった。
サキが臨時に食堂を任される事が正式に決まったその日、アヴァンオスローから「今日から君は『サッちゃん』だからね」と言われ、その瞬間から騎士の誰もがサキの事を『サッちゃん』というと愛称で呼ぶようになった。今ではすっかり『サッちゃん』という愛称で定着しているが、どうにも子供扱いされているような気がしてならない。一体どれだけ幼く見えているのだろうかと思うと、思わず泣けてくる。
「あのさ、サッちゃんって王宮で庭師やってたって本当?」
「そうですよ。とういか、現在進行形で庭師ですから。ここの仕事はあくまで臨時です」
過去形で言われた言葉にとりあえず訂正を入れておく。
転職した覚えはない。本業は庭師だ。
「そうか。じゃあ後宮の庭とかにも行ったりするの?」
「少しの間手入れしてました。そこは私の担当になるはずだったので」
後宮に姫が入ることが決まり、セルネイは侍女長に後宮の庭への出入りを禁止されてしまったので、あの場所はサキが担当する事になるはずだった。しかし任せてもらってすぐに王宮から出ることになってしまい、戻って来ても仕事場が変わってしまったため、結局セルネイが今も王宮にある全ての庭を担当している。
サキは初めて任せてもらえた後宮の庭の事が今でも気がかりで、戻ったらまた任せてもらえるように交渉してみようと思っていた。
「じゃあさ、噂の『花姫』様の事知ってたりする?」
サキは一瞬息を呑んだ。
知っているも何も、『花姫』はサキの事だ。しかし、本人です、とは口が裂けても言えないサキは、内心焦っていた。
「う、噂くらいでしか知りません」
「そうか。どんな方なんだろうって皆結構噂してるから、気になってるんだよね」
「そ、そうなんですか……?」
こんな人でごめんなさい、とサキは訳が分からない謝罪を心の中で呟いていた。
「だってあのレオルヴィア殿下の寵姫だよ? そりゃ気になるよ」
「え!? そんな事になってるんですか!?」
「あれ? 知らなかったの?」
十日前レオンハルトが語った噂では、そんな事にまで発展していなかったはずだ。それなのにたった十日でこの飛躍ぶり。
人の噂って怖い。
サキは力なくため息を吐くと、思い出したようにクランシエルに向いた。
「そういえば瓶の水がもうなくなりそうだったの忘れてました。クランシエルさん、汲んで来て貰ってもいいですか?」
「ん? ああ、いいよ。サッちゃんじゃ大変だろうしね」
クランシエルはサキの頼みを承諾すると、その場を離れていった。それを見送ったサキは、長い息を吐いた。
「寵姫って……」
レオンハルトの好意を知らないわけではない。しかしサキもそれと同じだけの気持ちがあるのかといえば、そうではないのだ。
確かにサキもレオンハルトを想っている。ただそれがレオンハルトとは違うというだけだ。サキも気持ちは恋慕の情ではない。それは決して抱いてはいけない感情なのだ。
それをサキは分かっている。
「人の噂も七十五日か……長い」
誰だこんなに長く期間を設けたのは、とサキは格言に対して文句を言った。
「……早く終わらせよう」
サキは諦めたように手元の芋に視線を落とすと、再び皮むきに勤しみはじめた。
そうして一人で皮むきをしていたサキは、ふと不穏な気配を感じて手を止めた。すぐさま辺りを見回せば、視界にとんでもないものが映った。
「う、嘘でしょう……」
嫌な汗が背中を伝う。途端に震えだす体は既に動かす事が困難な状態だ。
サキは視線の先にいる『それ』を凝視したまま何とか立ち上がったが、震える手が持っていたナイフを取り落とした。
カランと音を立てて落ちたナイフに反応するように、『それ』が鳴いた。
「ワン!」
「――っ!?」
サキはその鳴き声に戦慄した。
そこには、抱きかかえたらすっぽり腕に収まりそうな大きさの犬が一匹、尻尾をこれでもかと振りながらサキに迫って来た。
「う、うそ……」
迫る犬に声が上ずるサキは、震える体でなんとか立っていた。しかし膝はガクガクと震え、すぐには逃げ出すことができなかった。
サキは芋虫だろうが蛇だろうが、そういったものは全く平気であるが、この世でただ一つ、犬だけは死ぬほど嫌いだった。
「こ、来ないで……っ」
「サキ?」
驚愕に目を見開いたまま声のした方を見れば、建物の陰からレオンハルトがこちらに向かって来るのが見えた。
正面には犬。側面にはレオンハルト。サキの行動は決まった。
サキは犬が自分の三メートル圏内に入る前にその場から脱兎のごとく逃げ出し、その勢いのままレオンハルトにしがみついた。
「お願いです! あれ何とかしてくださいっ!」
「あれ?」
「ワン!」
「いやー!」
すぐ傍で聞こえた恐怖の鳴き声にサキは叫び声を上げ、レオンハルトに縋るようにしがみつき、瞳は固く閉じた。
視界にすら入れたくないのだ。
サキにとって犬は、悪の権化のようなものだった。
「お願いっ、犬は、嫌い……っ」
サキはそれだけ言うのが精一杯だった。
怖くて怖くて堪らなかった。崩折れそうになる足は、最早レオンハルトがいないと立っていられないほどに力が入らない。
「大丈夫だよ」
ふわりと体が浮き上がったかと思ったら、すぐ近くにレオンハルトの顔があった。
「俺がいるから」
安心させるようなその微笑みに、サキは泣きそうになりながらレオンハルトの首に手を回し抱きついた。
傍から見れば物凄い状況なのだが、サキはそんな事を気にしている余裕はなかった。ただ恐怖に苛まれ、誰かに縋っていないと己を保てなかった。
レオンハルトは安心させるように抱きしめてくれる。サキはそれだけで、恐怖が少しばかり遠退いた気がした。
「ジーク」
「あいよ」
「え!?」
いつからそこにいたのか、植え込みの陰からジークフリードが姿を現した。
「ちょ、いつから!?」
「すまん、俺もさっき来たばかりだ」
実を言うとジークフリードはレオンハルトとほぼ同時にここに来ていた。しかし、レオンハルトの手前、二人の邪魔をすると後が怖い事を知っているジークフリードは、呼ばれるまで大人しく隠れていたのだ。
そんな脱力しそうな理由が隠れていることなど全く知らないサキは、ジークフリードの突然の登場に驚きを隠せなかった。
「ワン!」
「ぎゃーッ!」
女の子にはあるまじき叫び声を上げるサキは、再びレオンハルトにしがみついた。
レオンハルトがそんなサキの行為に不謹慎ながら喜んでいる事を、サキは知らない。
「どっから入ってきたんだろうな」
ジークフリードはひょいっと犬を抱き上げると、犬をまじまじ見つめた。
「何か凄く高そうな首輪してんな……。これどうします?」
「近くに来ないでくださいっ!」
犬を抱えたジークフリードにサキはそう言い放つ。
それ以上近づいて欲しくない。というよりそのまま何処かに行って欲しい。そんな事をサキは本気で考えていた。
「そのままどっかに連れていってください! ついでにジークフリードさんはしばらく私に近づかないでください!」
「えー……」
面倒くさそうな声が聞こえてきたが、サキにとっては重要な事だった。
犬の残り香を付けたままで近づかれたくはない。サキは犬の気配を微塵も感じたくはないのだ。
「犬は本当に嫌いなんです!」
涙が出そうになるのを必死に我慢し、犬を視界に入れないようレオンハルトの首元に顔を埋めた。
しかしその時、運悪くクランシエルが戻って来てしまった。
「サッちゃん? 何か叫び声が聞こえたけど――!?」
クランシエルは目の前の光景に微動だにできないほど驚いていた。
「嘘!?」
「ん?」
「げ!?」
三人はクランシエルの登場に三者三様の反応を見せた。
王子殿下に抱きかかえられている庭師の少女に、犬を抱えた副団長。どんな状況ならこんな事態に発展するのか、逆の立場だったらサキでも混乱するだろう。
この状況は、一体どうやって言い訳すればいいのだろうか。
そうして、その場にいた全員が瞬時に様々な言い訳を考えたのは言うまでもない。




